街が動き出す
18世紀の弟子
第1話 陽射し
1
目を開けた。自然と開いたまぶた。カーテンの隙間から、柔らかな光が降りてくる。身体を起こして背伸びをする。横を向くと、白く反射する屋根が遠くまで輝いている。
自慢じゃないけれど、物心ついた頃から住んでいるこの街ほど最高の場所は存在しないと思っている。高級住宅街からはワンランク落ちるが、それなりの閑静な住宅地だ。街路樹は緑が鮮やかだし、モダンな装飾の街路灯も今風な外観を演出しているし。それにお洒落なスーパーも、時計台のあるロータリーもある。いわゆる
窓からカーテン越しに見下ろすと、大きなトラックが止まっている。隣の空き家に荷物を運んでいる。運転席から降りたのは綺麗目の女性。荷物を運んでいる人は持ち上げてる箱で顔が見えない。そのとき、ちらりと見えた。たぶん、同年代ぐらいの男の子だと思う。
タタタッと階段を降りる途中、香ばしい匂いが昇ってきた。目を擦りながらリビングに入る。
「おはよう。パン焼けたわよ」
「おはよう」
テーブルの前に座って頬杖をつく。
「ねえ、お母さん」
「なあに」
「隣に誰か引っ越してきたよ」
「そうみたいね。先ほど挨拶に来られたわ。若くて綺麗な人よ。お子さんもいるみたいね」
一番強調されたのは綺麗というところだ。良いのか悪いのかわかんないけど、こんな負けず嫌いなところも母親から娘に受け継がれている。
「ふうん」
「それより、今日のクラス会の準備はできたの?」
「うん。なんとかね」
玄関から出る。爽やかな風が吹いている。すでにトラックはなくなっている。見上げれば二階の窓は開いていて、そこからは蒼色に染められた布地が何枚も吊らされて、風で揺れている。以前、みた古い映画でこんなシーンがあった気がしないでもない。
オレンジのカラーアスファルト舗装された道を自転車で下っていく。寒風が割れて髪が後ろに流れるこの感じは嫌いじゃない。両足を伸ばして朝のフレッシュな空気を味わう。
中学校の門の前で後ろから声をかけられて、サドルから降りた。親友のゆかりだ。
「
大丈夫なの、ねえ、と忙しそうな表情で迫られて、頷きながらため息をつく。
「まあ、ネットで調べたら、小暮川(こぐれがわ)でそういうスポットあるみたいだから」
学級委員なんてやらなきゃ良かったな。そんな言葉もつい漏れそうになるが、言葉よりも大事なものが抜けていく気がして喉の奥に留めていた。
二時限目の後に、担任が授業の前に呼びかけた。一人の男の子が教室に入ってきた。
「今日から転校してきた
見た瞬間、あっと気がついた。隣に越してきた子だ。
「よろしくお願いします」とぎこちなく頭を下げる。先生に促されて二列前の横の席に座る。後ろ斜めから顔を見つめる。なんの変哲もない普通の子だ。
理科の授業は生物について。
「教科書を持っていないの。見せてあげるよ」
隣の席のゆかりが机同士を合わせた。彼は少しだけ照れを浮かべながら頭を下げた。
「ありがとう」
余りにも普通すぎる。ここまでくると普通すぎることが珍しいほどだ。
「えー節足動物というのは昆虫や蜘蛛などのような……」
「虫なのに動物って変なの」
誰かが突っ込むと、小さな笑い声が漏れた。笑ったのは転校生の彼だった。周りの視線を感じるや、あっと口に手を当てて顔を赤らめている。隣にいるゆかりは嬉しそうな顔をしている。
昼休みになって職員室に行った。担任の竹本先生にクラス会で発表する蛍の生態観察について集めた資料を見せた。
「ここまで調べるのは偉いな。我々より最近の子の方がインターネットを使うのに長けてるのかも知れんなあ」
大きな声は誰かの相槌を求めているのだろうけど、周りの人達は誰も乗らない。深く腰掛けた椅子がギーギー鳴るだけだ。代わりに近くにいた国語のユキ先生が「竹本先生がネット音痴なだけじゃないですか」と冷やかした。妙な沈黙のあとに、ネット音痴の竹本先生は「では、これをプリントアウトしておこう」とポンと資料を軽く叩く。なんだろこの変な空間。「……お願いします」とぎこちなく頭を下げ、そそくさとその場を後にした。
放課後の授業が終わり、クラス会が始まった。教壇の前に立って黒板に蛍の観察についての注意事項を記していた。と言っても蚊や虫に刺されない服装とかにするなどの簡単な事だ。蚊取り線香は持っていかないように注意すると、竹本先生が「どうしてだ」と首を傾げる。ゆかりが「蛍が死んじゃうかもしれないでしょ」と説明すると、教室中に笑い声が広がった。その中で一人だけ笑っていない子を発見した。転校生の彼だ。目線を下に向けたまま、じっとしている。無感情な視線は後ろの何かに跳ね返って胸に刺さる気持ちがした。
そのあとは行程についての話し合いになり、日時も多数決でとり、週末に蛍鑑賞を行うことが決まった。
2
ゆかりと一緒に下校して、いつもの交差点で別れる。坂を上る途中で転校してきた彼の後ろ姿を見つけた。寂しい背中だった。それは違う学校の鞄がそんな印象を与えるみたいだった。まるで見知らぬ土地に来ている少年のサイドストーリーを見せ付けられたかのように。そのまま自転車を押しながら距離をとって歩いていると、彼はスーパーの中に入った。
ガラスの向こうの彼はカゴを手に取り、野菜やお肉を入れている。お母さんの手伝いなのかな。興味と少しだけの劣等感が自分の中に生まれたのを感じた。駐輪場に自転車を置いて、店内に足を運ぶ。
野菜コーナーを経由してキョロキョロとしながら陳列棚の間を歩いていく。すると、冷凍コーナーで冷凍食品を手に取った彼と、透明ガラスに映り込んだ背後にいる自分が目を合わせた。彼はくるりと振り返り、初めて直視された。しばらく見つめ合うが、目を合わせるのがこんな形なんてと、物凄く恥ずかしい気持ちになり、慌ててスーパーの外に出た。この行動は余計に恥の上塗りの気がする。
いつものように、私の大好きな住宅街は黄昏に染まる。街路灯の灯りにより、ロマンティックな雰囲気を生み出している。でも、なんか違う。さっきのことが尾を引いて心苦しくて。ペダルを踏み、美しい夕暮れ空に迫っていきながら切なくなる。自分だけはここにはいてはいけない異物のように感じた。こんな気持ちは初めてだった。家の前で見上げた。隣の二階窓に吊らされた蒼色の布が切なく揺れている。今の心を示すかのような色だ。
「ただいま」の声も沈んでいる。いつもはリビングのソファーに座りテレビを見るのだけれど、そこには近づけない。薄いレースのカーテン越しに、スーパーの袋を握って塀の外を通るであろう少年の姿を見たくないために自室に戻った。薄暗い闇の中で掛け布団に顔を埋もれさせていた。
翌朝、家を出ても気持ちはすぐれない。どこか空気が変だ。昨日まで当たり前に運ばれてきたものが、何かの拍子で入れ替わったみたい。こんな日に限って曇り空だ。何気ない色の空に意味を問いかけるのだけれど解決はしない。頬に触れる穏やかな風もいつもと違う気がする。どこか騒つく。
(運命は必然である。とは誰かが言った言葉だ。だとすれば、この変化も私にとって必然なことなのかな)
ぼーっと自転車を転がしていくと、ゆかりの後ろ姿が見えた。声をかけようと、自転車から降りかけるとゆかりの背中は離れた。前にいる人の元に駆け寄っている。隣に住む彼。まだ話したこともない、名前では呼べない、彼を呼ぶ声が切なく耳に響いた。
3
隣に引っ越してきたクラスメイトの彼を妙に意識している。お互いが何かギクシャクしていた。あのスーパーの一件以来、一週間経ってもまだ会話を一度もしたことがない。たまに目が合うと視線を外して通り過ぎてしまう。別に好きでもないのに、勘違いをされている気すらする。
「私ってズルい」
なんか自分のことしか考えてない。転校して見知らぬところにきてるのに、いきなり避けられるのって絶対に良い気持ちはしないと思う。今度自分から声をかけてみよう、と心に決めた。そうだよ、学級委員なんだし。
その機会はなかなか訪れなかった。むしろ、彼は既にクラスの中に溶け込んでいた。自分が声をかけることを彼が果たして求めているのか。自信過剰、あるいは心配損な気もする。
近頃、変なミスもする。何かバランスがおかしくなっている。ゆかりにも気づかれて「最近変だよ」と言われる。なんだか面倒になってきた。どの行動が正解なのかも自分の心もわからない。散らかった部屋を整理しようにも、捨てられないものばかりで、手がつけられないみたいな感覚。もう、彼のことは意識しないようにしようかな。そんな投げやりの気分になっていた。
「あ、いけない」
帰る途中に忘れ物を思い出した。本当に最近はダメだ。ダッシュして学校に戻る。教室にまで引き返したおかげで、再び校門を出たときは陽がすっかり沈んでいた。
坂を登っていると厄介なことに猫がいた。物心ついた頃からの天敵と言ってもいいほどの苦手な動物だ。早く帰りたいのに。にらめっこをして足を止めていると、猫が浮いた。そうではない。後ろから持ち上げられたのだ。そのまま猫は一切の抵抗もしないまま、身体の一部のように抱きかかえられた。
「あっ」
例の隣に住む彼だった。また変な場所で目を合わせた。どうすればいいんだろう。変な沈黙に戸惑っていると、彼が先に口を開いた。
「猫、嫌いなの」
どこか他人行儀で遠慮しがちな、言葉を選ぶような声だった。
「嫌いじゃないよ」
なんで嘘ついたんだろう。大嫌いなのに。
「そうには見えなかったけど」
今度はやや冷たい口調だった。思った通り、嘘とかが嫌いな人なんだ。いきなり一言目で失望させるなんて。この人とはとことん合わないのだ。
沈黙していると、彼が突然、頭を下げた。
「ごめん」
「なんで謝るの」
彼は少し言葉を詰まらせる。
「おれが馬鹿な質問したから。猫が好きかどうかなんて、どっちでもいいのに」そのまま更に熱弁をする。
「ほら、女の子はピンクが好きじゃないといけないとか、動物が好きじゃないといけないみたいな風潮あるし。嫌いでも好きと言わなきゃいけないみたいな……」
「……もういいよ」
そこまでのフォローはいらない。完全に嘘つき扱いしてるし、そもそも動物全部が嫌いなわけじゃないし。
ただ、彼に少しだけ抜けた部分があることが、気持ちをホッとさせてくれた。素っ気ない私の態度に困惑する彼の横を通り過ぎるときに小さく声をかけた。
「一緒に帰ろ。家が隣同士って知ってた?」
彼の腕から猫がすり抜けて降りた。
「うん……気がついてた」
そうなのか。いつの間にか知ってたんだ。答えにくいこと聞いたのかも。
「ごめんね」小さく舌を出した。「馬鹿な質問だったね」
彼は小さく笑ってくれた。なんだろう。少しだけ互いが分かり合える笑顔だった。きっと、引っ越してきた頃から、お互いに微妙な距離感を感じていたのだろう。
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