件(くだん)の花嫁

飛野猶

第一話 件(くだん)の娘

 その港街では、まことしやかにひとつの噂が囁かれていた。

「あのお山のどこかにあるお屋敷で、くだんという牛の頭をした娘が匿われているそうだ」

「なんでもその娘は先読みをするっていうじゃないか」

「それで、お屋敷はどんどん大きくなってるって……」

「でもそのくだんというのは……化け物なんだろう?」

「ああ。人を食うそうだ。口の周りを真っ赤にして生き血をすするって聞いたぞ。おそろしやおそろしや」

 怖ろしいものを見るように、街の者たちは山を仰ぎ見るのだった。


 ♢  ♢  ♢


 皇帝が治める和耀皇国。

 その国の西方に位置する、海と山に恵まれた港街・光部こうべ

 大きな外国船が行き来する国際貿易港を抱えるその街は、舶来品貿易と国内交易の要として栄えていた。

 海に面したその街の背後には、こんもりとして緑が濃い山々が連なっている。その山の中腹に、緑に隠れるようにしていくつも大きな屋敷があった。

 この辺りは、海外貿易や国内交易で財を成した大商家や政治家たちが住まう一帯となっている。成功者たちが山の上から、昼夜問わず船と人が行き来する港街を見下ろすようかのようだった。

 その中でひときわ大きく立派な屋敷が、山澤商会を率いる『山澤家』の屋敷だ。

 元は単なる卸問屋に過ぎなかった山澤商会だったが、現当主のたぐいまれな先見の明で次々と成功を収めて巨万の富を築き、今やこの港街を代表する商家にまでなっていた。

 贅を尽くされた豪華な屋敷には、毎日のように政財界の要人が招かれて、豪勢な接待が行われていた。

 今日も昼間から代議士たちを集めて、屋敷の大広間では盛大な宴会がおこなわれている。

 宴会では最高級の大吟醸や舶来物の葡萄酒が惜しげもなく振舞われ、全国から取り寄せた選りすぐりの食材による豪勢な料理が客人たちの舌を楽しませていた。

 そんな華やかな屋敷の一番端。

 いっとう陽の当たらないじめじめとした一角に、ぽつんと忘れられたように座敷牢があった。

 座敷牢の中はいつも陰気な湿気が漂っている。

 見張りの使用人と家人以外は、恐れて近寄ることすらない座敷牢。

 厚い塗り壁に囲まれた真ん中を鉄格子が隔て、鉄格子で隔離された方にはすえた臭いを放つ畳が敷かれている。

 その座敷牢の真ん中で、一人の少女が正座していた。

 赤い粗末な着物に身を包む少女は、異様なことに牛の姿をした被り物を被っている。

 その姿はまるで、あやかしそのものだった。

 楽しそうに騒ぐ宴会の声は、敷地の端にある座敷牢にまで届いていた。

 牛の被り物を被った少女……未世みよは、辺りを見回す。今は誰も近くにはいないようだ。

 いつもは鉄格子の向こうで未世の一挙手一投足に目を光らせている見張りの姿すら見当たらない。きっと宴会の支度に駆り出されているのだろう。

 未世は、ゆっくりとたちあがる。何年も座ってばかりなので、足腰が弱って立ち上がるだけでもふらついた。

 それでも、座敷牢の上部に取り付けられた喚起窓の下までなんとか歩いてくると、壁に手をついて上を向く。

 誰かが楽しげに歌う声が聞こえてきたのだ。

 その歌声につい惹きつけられて、もっと聞きたくなった。

 しかし風に乗って気まぐれに届く声は、遠くなったり近くなったり。

 あまり良く聞こえない。

 だから、未世は被っていた牛の被り物をそっと引き上げて、もっと歌声をよく聞こうとした。被り物の下からは、幼さを残すものの見たものがはっと目を惹くような整った容姿が覗く。

 未世がこの座敷牢に連れてこられたのは、十になったばかりのころだった。

 もう六、七年前になるだろうか。

 この座敷牢に閉じ込められてからは、一歩も外に出してもらえたことはない。

 四六時中、寝るときすらこの牛の被り物を被るように強く言い渡されていて、家人が座敷牢を訪れるとき以外はずっと正座して過ごすしかなかった。

 外界から閉ざされた未世にとって、窓から聞こえてくる微かな歌声がとても楽しそうに聞こえて、もっと聞きたくて仕方がなかったのだ。それが唯一の外界との繋がりだとでもいうように、未世は耳を澄ませる。

 そのとき、背後から鋭く怒鳴る声が聞こえた。

「何やってんのよ! 被り物とるんじゃないわよ! 化け物の癖に!」

 弾かれたように振り向くと、牢の向こうに一人の少女が仁王立ちしていた。

 顔立ちは未世にとてもよく似ている。美しく整った顔立ちは未世と瓜二つだ。

 しかし、彼女は美しく端正な顔を歪め、汚らわしいものを見るように不快を露わにして未世を睨みつけていた。

 彼女の名前は華代。未世の双子の姉だ。

 粗末な赤い着物を着る未世とは対照的に、華代は華麗で意匠の凝った豪華な振袖を身に纏い、髪は丁寧に結われて華やかな簪《かんざし)で彩られている。

 彼女はいつものようにお気に入りの女中を連れて、未世をいびりに来たようだ。

 未世は慌てて牛の被り物を被り直すと座敷牢の真ん中で、頭を畳みにふれるほど下げて土下座をした。

「も、もうしわけありません。お姉さま」

「私のことを姉って呼ぶなっていってるでしょう!? 穢らわしい」

 華代は心底忌々しげに言葉を吐くが、姉と呼ばなければ今度はそれをネタにいびってくるのだ。どう呼んだところで、彼女の虐めから未世は逃げることはできない。

 華代は、嫌なことがあるとよく憂さ晴らしに座敷牢にやってきては、未世を気が済むまで折檻するのだった。

 今日は何をされるのだろうとびくびくしていたが、華代は珍しくすぐに機嫌を直してその場でくるりと回って見せた。華やかな振袖がひらりと舞う。

「ほら、綺麗でしょう? お父様が私のために新しい着物を作ってくださったの。これだけじゃないのよ! 夜会用のドレスに女学校に着ていく袴に、アクセサリやバッグもたくさん。山澤家の娘が一流じゃない物を身につけるわけにいかないものね」

 華やかな振袖。未世には一度も縁がないものだった。きっとこれからも……。

 少し落ち込んだものの、もしかしたら今日は華代の機嫌がいい日なのかもしれない、とほっとしたのもつかの間。

 華代は鉄鍵で座敷牢の鉄格子の戸を開けると、草履のまま中へとずかずかと入ってきた。

 未世は恐怖に震えながら、ただ土下座したまま固まるしかなかった。

 華代は未世の前までくると、未世の傍らに置かれた桶を手に取る。

 その中には並々と水が張られていた。

 華代はその桶の中の水を容赦なく未世の頭からかけた。

 冷たい水が牛の被り物ごと未世の頭を濡らし、首を伝って背中までぐっしょりとなった。冷たさに身体の震えが大きくなる。

「どう? 振袖、羨ましいでしょう。死ぬまでここに閉じ込められるあんたなんかには一生手が届かないでしょうけどね。アハハハハハ」

 華代は高笑いをすると、後ろに控えていた女中に桶を投げ渡した。

「また水を入れておきなさい」

 女中は深く頭を下げると、桶を持って下がった。

 それと入れ違いに、恰幅の良い袴姿の中年男性が座敷牢の前へと現れる。

「おい、くだんよ」

 男の声に、未世は弾かれたように顔を上げた。

「……はい」

「先読みはできたか」

 冷たく底冷えするような声で尋ねてくるのは、この山澤家の当主であり、破竹の勢いで成長を遂げている山澤商会の社長をしている山澤洋三だ。

 未世の実の父親だった。

 しかし、洋三に父としての情などなく、未世も彼を父と思ったことは一度もなかった。

 未世にとっては、ただただ恐ろしい存在にすぎない。

 すぐさま女中が再び水を満たした桶を未世の前に持ってきた。

 未世は桶を抱え込むようにして覗き込む。

 洋三をはじめ、山澤家の人々は誰も未世を名前で呼ばない。

 くだんと呼ぶのだ。

 件とは、この地方に伝わる化け物のことを言うらしい。

 牛の姿で生まれて、予言をもたらすと言われているあやかしの名だ。

 先読みの力をもった未世のことも、家族たちは件と呼んで蔑んでいた。


 未世とて、生まれたときは普通の赤子だった。

 ただ普通と違ったのは、未世は双子の妹として生まれた来たということだ。

 この国では双子……それも瓜二つの双子が生まれると不吉なことが起こると言われている。そのため産婆はすぐさま未世の息の根を止めようとしたらしい。

 産まれなかったことにしようとしたのだ。

 しかし、未世は奇跡的に息を吹き返してしまう。

 それを見た両親は未世を心底不吉がり、息の根を止めるのを諦めて、すぐさま未世をかつて屋敷で働いていた使用人夫婦に捨てるように預けたのだった。

 幸いにも、その使用人夫婦は人情に溢れた人たちで、未世を我が子としてあたたかく育ててくれた。未世は、庶民の子としてすくすくと育ち、そのまま普通の人生を送るはずだった。

 しかし、転機がやってくる。

 未世が十を過ぎたころ、水面を覗くとときどきそこにない景色が視えるようになっていた。しかも、その水面に視えた景色は、数日から数週間後には現実になることを幼い未世は気づく。

 それからは、未世は視えた物を周りの人々に話して聞かせるようになった。

 初めは、他愛もないなことだった。

 今晩雨がふるだろうから、傘を持って行った方がいいよ。

 隣の大造さんが、明日、修理しようと屋根へ上るけど、転げ落ちちゃうから気を付けた方がいいよ。

 馬が暴走するから、今日は通りに出ちゃだめだよ。

 それらは、大好きな養父母や親しくしてくれていた隣人たち、友人たちのためになるようにと、無邪気に未世が話して聞かせたものだ。

 それらの先読みはことごとく当たり、次第に周りの人たちは未世を薄気味悪がるようになっていった。

 それでも養父母は今までと変わらず温かく接してくれた。

 しかし、先読みの話を聞きつけた山澤家の両親たちが無理やり未世をこの屋敷へと連れ戻したのだ。

 そしてこの座敷牢へ未世を閉じ込め、先読みを強いた。

 未世の先読みは、水を張った桶など水のあるところに現れる。

 その水面に、まるで活動写真のように未来に起こる出来事が映し出され、それを未世だけが見ることができるのだ。

 ただ、先読みはいつ現れるかわからない。三日に一度のときもあれば、何か月も現れないこともある。

 だから、いつ先読みが現れてもいいように、未世はこの座敷牢でずっと気が遠くなるほど長い時間、この水桶を覗き込んで過ごすことになった。

 父の洋三が未世が先読みで視たことを利用して、財を築いていることも知っている。

 未世が巨大な大風がきて港に大きな被害が出ると予言したときは、洋三は大風のくる前に沢山の船を買い上げて陸にあげた。そして、大風で船が壊れた人々に法外な値で売りつけたことがあった。

 雨が足らず米が不作になるとの先読みが見えた年には、洋三は米を大量に買い付けておき、翌年不作が現実になったあとに高値で米問屋に降ろした。お金持ちはそれで米にありつけたと言うが、貧乏人の中には米を買えずに餓死した者たちもいたと後になって未世が耳にしたこともあった。

 そういう話を使用人や家人から聞かされるたびに、未世の心は潰れてしまいそうなほどに痛むのだ。

 未世の心の痛みをよそに、この山澤家ひいては山澤商会がこれほどまでに成功を極められたのは、ひとえに未世の先読みの力があってこそのことだった。


 未世は桶を覗き込む。だが、今日は何も水面には映らない。ただ自分の奇怪な牛の被り物が見えるだけだ。

 未世はゆるゆると首を横に振った。

「今日は、何も視えません」

 それを聞くと、洋三はつまらなさそうにフンと鼻を鳴らした。

「何か見えたら、すぐに知らせろ。いいな」

「はい」

 強い口調で洋三は言い置くと、座敷牢を去っていく。

 それに続く華代は去り際、

「これからも、どんどん先読みして私たちを豊かにするのよ。あんたは一生、この座敷牢から逃げられないんだから」

 雅な袖を口元にあてて、クスクスと嗤うと座敷牢から出ていった。

 見張りの使用人が一人残ると、ガシャンと大きな音を立てて座敷牢のある小屋の扉が閉められた。

 あとには、しんと静寂だけが残される。

 未世は桶の水面に視線を落とす。いつ現れるともしれない、先読みのために。

「わかって、います……」

 それだけが唯一、未世に与えられた仕事であり、生かされる理由のすべてだった。





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