第五話 煌大の徹底
最近は、少しずつ歩く練習もはじめている。
いつまでも部屋を移動するたびに人夫の背に乗って運んでもらうのも、申し訳ないし恥ずかしいから、はやく一人でしっかり歩けるようになりたいとの一心だった。
廊下の壁に手をついて、一歩一歩歩いて行く。途中でこけてしまっても、くじけず再び壁に手をついて立ち上がり、歩き始める。
女中たちも少し離れたところから、はらはらした様子で見守ってくれていた。
そうやって歩く練習を続けていたら、少しずつ、ふらつかず歩ける距離も長くなっていった。
今日も昼食が終わった後、一休みをしてから歩く練習をはじめていた。
するとしばらくして、家令の吾妻が廊下の向こうから歩いてやってくるのが見えた。未世の横を通り過ぎるのかと思いきや、彼は未世の前で立ち止まる。
「未世様。こちらへいらっしゃってください。煌大様がお呼びです」
未世は、目をぱちくりさせた。そして、数秒経ってようやく彼の言葉を理解する。
「煌大様が!? あ、あの、お戻りになったんですか?」
未世の言葉に、吾妻はにっこりと柔和な笑みを返す。
「はい。先ほどお戻りになられました。未世様をお呼びです。お運びするための人夫を呼びましょうか?」
屋敷が広すぎて、彼の帰宅にも気づいていなかった。
人夫の申し出には、ゆるゆると頭を横に振って断る。
「できれば自分の足で歩いて行きたいのですが、構いませんか?」
練習のおかげで壁に手をつきながらならば、ふらつかずに、普通の人より少し遅いくらいの速さでは歩けるようになっていた。
未世の頼みに、吾妻は目を細める。
「ええ。煌大様には私から伝えておきます。慌てずお越しください」
吾妻は近くにいた女中に未世の案内を頼むと、先に行ってしまう。
未世は女中に先導されながら、右手で壁にふれつつ、一歩一歩進んで行く。
いくつかの角を曲がり、案内されたのは応接室だった。
広い洋室に向かい合わせのソファが並び、間に低いテーブルが置かれている。部屋の奥には硝子越しに綺麗に整備された屋敷のお庭が見えていた。
その奥のソファに煌大が座っている。未世が部屋のドアに手をついてゆっくりとした足取りで入ってくると、煌大はすぐに立ち上がり、未世の手を取って近くのソファに座らせてくれた。
「煌大様、ありがとうございます。お帰りになられてたんですね。お出迎えにあがらず申し訳ありません」
座ったまま頭を下げると、向かいのソファに再び腰を下ろした煌大は苦笑を浮かべた。
「そうかしこまるな。君は俺の部下でもなければ、雇人でもなんでもない。いってみれば客人みたいなもんだ。様なんてつけずに呼び捨てで構わない」
「で、でも……」
そうは言われても、こんなに世話になっている彼を呼び捨てなんて到底考えられなかった。
「それより、体調はどうだ? 辛いとことかないか?」
彼の赤い瞳が、気遣うように未世を見る。
「はい。とてもよくしていただいています。いまも歩く練習をしていたところでした」
「ああ、前に見たときよりかなり顔色はいいようだな。あのときは、白くて血の気のない顔してたからな。火傷や煙を吸ってないかも心配だった。それなのに帝都まで長旅させてすまなかったな」
「いえ……」
と返したあと、未世は前に汽車の中で友江が言っていたことを思い出す。煌大は未世のことを世間から隠したいのだろうと、彼女はそう言っていた。だから、わざわざ未世を帝都の屋敷に連れてくることにしたのだろう、と。
未世は、膝の上に置いた両手をぎゅっと小さく握る。
「あ、あの、私……」
「ん?」
煌大を見つめると、意を決して彼に頼み込んだ。
「足がちゃんと歩けるようになっても、この屋敷から勝手に逃げたりしません! どこへも行きません! 先読みが必要ならいくらでもします。だから……もう座敷牢へは入れないでください。お願いします……」
必死に言う未世に、煌大は一瞬虚を突かれたような表情をしたあと笑い出した。肩を揺らしてひと笑いしたあと、彼は言う。
「俺をお前んとこのろくでなしの親父と一緒にするなよ。あ、いや、人様の父親にろくでなしはないか」
未世はゆるゆると首を横に振った。
「いえ、実際、お縄になるような人ですから……」
事実、未世は山澤洋三のことを父だと思ったことなど一度もない。血は繋がっていなくとも、未世にとっての父は十まで大事に育ててくれた養父だけだ。
「この際だからはっきり言っておくが、俺は未世に先読みをさせるつもりはない」
「……え?」
煌大は腕を組んで、未世をまっすぐに見つめる。
「この家に座敷牢なんてものもないし、そもそも未世を閉じ込めるつもりもない。前に言っただろう? 君は自由だって。今はただ、未世の安全のためにこの屋敷に置いているだけだ。真偽のわからない噂とはいえ、未世はある意味有名だったからな。山澤洋三が逮捕されたことも、山澤家の屋敷が火事で全焼したことも新聞には大々的に出ていた。よからぬ輩が、未世の力を欲して探しているともかぎらんだろ」
「じゃ、じゃあなぜ、火の中に飛び込んでまで助けてくれたのですか?」
そこまで危険を冒して未世を助けたのは、未世の力がほしかったからではないのか。てっきりそうだとばかり思っていた未世はうろたえる。力がほしかったのでないのなら、なんの利益があってこんな訳ありの小娘を屋敷に置いているのかわからなかった。
しかし未世の心配をよそに、煌大はあっけらかんと答える。
「燃える屋敷の中に人が残っていたら助けるだろう。そいつが、困っていたら力になってやりたいと思うものだろう?」
「そうなの……ですか……?」
「あのときは、誰が捕縛リストに載っている奴かは捕まえて顔を確認しないとわからなかったからな。逃げ惑うやつを、使用人も女中も関係なく一旦全員捕まえることにしていた。そしたら、女中の一人が何かを庭の池に何かを投げこんだのが見えたんだ。これは証拠隠滅か?と思って部下に池に潜らせたら、拾ってきたのは鉄鍵だった」
未世は池の中に鉄鍵を拾いに行かされた部下の人を気の毒に思いつつも、女中という言葉にぎくりとする。その女中はおそらく、双子の姉の華代だろう。
「何の鍵かをその女中に強めに問いただしたら、すぐに座敷牢の鍵だと答えたんだ。それで、山澤家にいるという娘の噂を思い出した。もしまだ避難してなかったとしたら大変だから座敷牢を探していたんだ」
そして煌大は座敷牢が焼け落ちる前に間一髪で未世を助け出したというわけだ。
「その女中は、どうなったのですか……?」
おそるおそる尋ねると、煌大は小首を傾げる。
「その場で捕縛した。あとで取り調べをした者に聞いたら、山澤家の娘だったようだな。いまも牢獄の中にぶち込まれてるはずだ。未成年だからいずれ開放されるだろうが、山澤家の屋敷は全焼してるし、大人は全員裁判待ちだ。遠縁にでも預けるしかないだろうな」
「そうですか……」
山澤家は分家の者も大半が山澤商会に関与していたはずだ。そうなると、彼女の身元を引き受けられる者はいるのだろうか。もし仮にいたとしても、以前のような贅沢三昧の暮らしは到底望めないだろう。
「お前も山澤家の娘、なんだよな? だが、公式には娘は一人とされていたようだな。戸籍にもお前の名前は載っていなかった」
「……私は、華代の双子の妹です。でも不吉だからと、生まれてすぐにかつての使用人の家に預けられました」
「……そうか。地方によっては、双子を忌み嫌う風習が残るところもまだあるようだからな……」
煌大も、未世の身の上を察したのだろう。
それ以上押し黙ってしまう。
嫌な沈黙が室内に漂った。
けれど重い沈黙は、コンコンと部屋のドアをノックする音で破られる。
「いいぞ。入ってこい」
煌大が応えると、ドアが開いた。入ってきたのは家令の吾妻だ。
手に何かを抱えている。桶のようだった。
(桶……)
それを見た瞬間、どくんと嫌な動悸がした。
身体の外に漏れ聞こえるのではないかと心配になるほど、心臓がドキドキと不安な音をたてる。背筋が冷たくなるのがわかった。全身から血の気がひくようだった。
父が、華代が、桶を手に迫ってくる姿が脳裏に浮かんで、何度も打ち消そうとするのに消えてくれない。
『おい、
『これからも、どんどん先読みして私たちを豊かにするのよ』
二人の声が、すぐ耳元で聞こえたような気がした。
未世はそれを振り払うように小さく首を横にふる。
一方、煌大は未世の変化に気づかず、吾妻と話し始める。
「なんだ、それは」
吾妻は桶を煌大に見せた。
「九条高俊様からの春土用の贈り物にございます。さきほど使者の方がもってきてくださいました」
「ほう、生きたイカか。あいつもマメだよな」
桶の中には生きたイカが入っているようだ。そのとき、イカが一匹撥ねようとした。
「おっと」
吾妻がイカを落とさないように桶を少し傾けたときに、桶の中が未世にも見えてしまう。
桶の中には水が張られていた。
その水面を見た瞬間、唐突に胃の中からこみあげるものを感じて慌てて両手で口元を押さえた。
吐き戻しそうになるの、身体を折ってうずくまり必死にこらえる。
「お、おい! 未世! どうした!?」
未世の様子が急変したことに慌てて、煌大は間のテーブルを大股に飛び越えてこちら側にやってきた。
「す、すみません……煌大、さま……桶の水を見たら、ううっ」
「吐きそうなのか? 吐いてもいいぞ。吾妻、医師を! 医師を呼んでくれ!」
煌大は隣に座ると、未世が落ち着くまで未世の背をずっと優しく撫でてくれたのだった。
急いでやってきた医師によって、未世の急な体調悪化は過去の出来事のトラウマによる過剰反応だろうと診断された。
この出来事を境に、煌大は未世の見えるところから水面が映るものを徹底的に排除した。蛇口の傍からは桶の類をすべて撤去した。風呂の湯舟には未世が入るときは毎回花びらを浮かべて水面がみえないようにさせた。
未世が透明ではなく、色が付いた水面ならまだ比較的大丈夫であることを知ると、料理人に指示して澄まし汁をやめさせ、未世が飲むものもほうじ茶や緑茶にするように徹底したのだった。
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