第六話 心に秘めた棘
煌大は任務で日中に屋敷を空けることはあっても、帰宅して屋敷にいるときは極力、未世の傍にいてくれるようになった。
未世が字の読み書きすら満足にできないことを知ると、子ども用の読み書き練習帳やノート、絵本などを買って来てくれて、夕食後の時間に教えてくれるようにもなった。
未世にとっては、何よりその時間が楽しみとなっていく。
その日も夕食後ののんびりした時間を、二人で過ごしていた。
いつも一緒に食事をとる、大きな座卓が置かれた和室。
女中たちが食器を片付けてくれ、座卓を布巾で清めてくれたあと、二人で並んで座って字の練習をしていた。
彼は仕事に行くときはいつも軍服を着ているが、屋敷の中では洋装で過ごしていることが多い。今日はスタンドカラーの白いシャツに、ベージュのズボンをあわせている。それが長身の彼にはとても良く似合っていた。
煌大がとなりで見守る中、未世は煌大が書いてくれた見本を見ながら、鉛筆を握ってノートに一生懸命書き写していく。
息をするのを忘れるほど熱心に一文字一文字丁寧に書き写す未世を、煌大は座卓に頬杖をついて眩しそうに眺めていた。
最後まで書き終えると、未世はパッと顔を輝かせて煌大を見る。
ノートには筆圧強めに、『山澤未世』『一条煌大』と書かれていた。
「書き終わりましたっ」
「お、うまいうまい。ちゃんと書けるじゃないか。じゃあ、読んでみな」
「はいっ」
未世は自分が書いた文字を指で一つずつ押さえながら、ゆっくりと読んでいく。
「やまざわみよ、と、いちじょうこうだい、です」
「よく読めたな。山澤の澤の字は画数多くて慣れないと書きづらいだろうな。俺の苗字の方が書きやすいから、いっそ一条に苗字を変えるか?」
笑いながら煌大は言う。
しかし、未世がきょとんと不思議そうな顔をしたを見て、苦笑した。
「……いや、なんでもない。忘れてくれ。そうだな、ついでに教えておくと、一条は実は俺の母親の苗字なんだ。この国では、華族には一条から十条までそれぞれ苗字が割り振られている」
「じゃあ、煌大様は華族様なのですね」
「まぁ、一応な。華族っちゅうか皇帝の血筋っちゅうか、……俺の父親は現皇帝ってやつだ。俺の上には腹違いの兄が一人、下には歳の離れた妹たちが五人いる。みんなそれぞれの母親の生家で暮らしているから、あんまり会うことはないな。ちょっと普通の家の家族形態とは違うよな」
未世も思い返してみるが、この屋敷に来てすでに一か月以上経つものの、屋敷の中で煌大の家族らしき人の姿を見たことがなかった。
「じゃあ、お母さまは別の場所にお住まいなのですか……?」
「ああ。身体が弱くてな。湯治場の近くの別荘で暮らしている。俺も昔はそちらで一緒に暮らしていたが、あっちには俺みたいなのが通える学校がなくてな。七歳で学校に上がるときに、帝都のこの屋敷に俺だけ戻ってきた」
つまり、煌大は幼いころからこの屋敷で一人で暮らしてきたということだ。
沢山の使用人たちに囲まれているとはいえ、七歳といえばまだ親に甘えたい年ごろだろう。それなのに気丈に一人で過ごす小さな男の子の姿を思い浮かべて、未世の心はきゅっと痛みを覚えた。
「そうなんですね……」
十で座敷牢に入れられた未世は、家族と一緒に暮らしてはいたもののずっと孤独を感じていた。でも、未世よりずっと強くて沢山のものを持っているように見える煌大も、もしかすると小さいころから孤独を抱えてきたのかもしれない。
もし過去に戻ることができるなら、この大きな屋敷で一人で暮らす彼の元に行って手を握ってあげたい。優しく抱きしめてあげたい。そんなことをつい思ってしまった。
未世がしんみりしてしまったからか、煌大は明るい声で言う。
「だからな。屋敷に帰ると、未世がいてくれるのが嬉しいんだ。なんだか、一緒に暮らす家族ができたみたいでな。未世が出迎えてくれた顔を見るだけで、疲れもふっとぶ気がする」
それを聞いて、未世はぎゅっと両手に拳を握って意欲を燃やす。
「それなら、これからも毎日お迎えしますっ。なんなら、玄関でずっとお待ちしてますから」
「いや、玄関で待ってなくていいからな? 未世はいまのままでいてくれれば、それでいい」
ぽんぽんと宥めるように頭を撫でられてしまった。
彼の大きな手に撫でられると、じんわりと包み込まれるような温かさを感じて心地がよい。それなのに、最近、心臓の鼓動がドキドキとうるさくなって落ち着かなくなるのだ。
それに未世にはずっと心の中に刺さり続けている棘が一つあった。
煌大に優しくされればされるほど、嬉しい反面、心のどこかで後ろめたさを感じてしまう。
自分はこんな優しさを向けられて良い人間ではない、穢れた人間なのだという思いが胸の奥に棘となって刺さり続けていた。
「……そんな大切な相手、私でいいんでしょうか。私は沢山の罪を犯してきたのに……」
本来であれば、山澤家の父たちと同じように監獄に投獄されていて当然なのに。
自分だけ免れて、こんな風によくしてもらっていいのだろうかという思いをずっと持ち続けていた。
「罪って……? ……あー、もしかして山澤商会のために先読みの力のことを使わせられてたことを言ってるのか?」
煌大の言葉に、未世は神妙な表情でこくんと頷く。
「はい。私が読んだ先読みのせいで、沢山の人たちが被害を受けました。米が買えずに亡くなった子もいたと聞いたこともあります」
「悪用したのは未世の家族であって、未世じゃないだろ?」
「それはそう、ですが……」
「現実的な話をすると、先読みの力というものが本当にあったとしても、それ自体を罰する法律もない。もし君の家族が法廷で君にたぶらかされたと証言したとしても、座敷牢に未世がずっと閉じ込められていたのは事実なんだ。逆に彼らの方が拉致監禁で罪状が増えるだけだ」
煌大はそう言って未世を慰めてくれるのだが、未世自身は自分の力が沢山の悲劇や不幸を招いてしまったことをずっと悔やんでいた。悔やんでも悔やみきれないでいた。
その想いが、雫となってぽつりと零れ落ちノートに染みをつくる。
「……辛い気持ちを我慢する必要はない。言いたいときは、好きなだけ話せ。いつまでだって隣で聞いてやる」
煌大は、未世の肩を優しく抱いた。
未世の双眸からは、ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が止まらなくなっていた。
座敷牢にいたときだって、もう何年も泣いたことなんてなかったのに。
何年もの間、自分を守るためにがちがちに押し込めていた感情が、ほろりとほどけていくのを感じていた。
「過去はもうどうやったって変えられない。でも、未来なら変えられる。もし過去への後悔が身を刺すのなら、その痛みを未来へ向けろ。かつて誰かを不幸にしたと思うのなら、その分だけ、これから誰かを幸せにしてやれ。誰かに害を与えてしまったと思うなら、その分だけ、誰かを助けてやれ。そうすりゃ世の中は、ほんの少しずつでも良くなっていく。救われる奴もでてくるだろう」
未世は絶え間なく流れ落ちる涙を指で拭きながら、頷くしかできなかった。
煌大の声が優しく胸にしみこんでいく。
ただ過去を悔やむことしかできないでいた未世の心に、小さくあたたかな光が生まれた気がしたのだった。
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