第七話 水面に映った惨劇
夏が近づくある日。
夕方に降った通り雨もあがり、さわやかな風が心地よい夕暮れどき。
任務から返ってきた煌大は、すぐに自室で軍服を脱いで私服に着替え、夕食も食べずにどこかへでかけようとしていた。
玄関先で見送る未世に、煌大は朗らかに告げる。
「ちょっと九条家の別邸に行ってくる。九条家の当主は、俺の従兄なんだ。夕食に呼ばれてな。帰りは遅くなるだろうから、待たずに寝てろよ」
「はい。いってらっしゃいませ、煌大様」
「ああ、行ってくる」
煌大が屋敷の車の後部座席に乗り込むと、専属運転手がすぐに車を走らせた。
車が遠ざかっていくのを見送り、未世も自室に戻ろうとしてふと足を止める。
ざわりと、何か妙な胸騒ぎがした。
すぐにもう一度玄関の引き戸を開けて外を見るが、車の姿はとうに見えない。
夕焼けに赤く染まる前庭を眺めながら、未世は自分自身に言い聞かせる。
(気のせいよ、きっと)
九条家の屋敷自体は、一条家の屋敷とさほど離れていない距離にある。
しかし、今夜煌大が招待されたのは、九条家の別邸の方だった。
別邸は帝都の郊外にあるため、車でも小一時間かかる。
一条家の屋敷を出たときは夕焼けに染まっていた空も、次第に藍から黒へと色を変えていった。
帝都といえども、賑やかで夜でもガス灯の光が尽きないのは中心部だけだ。
街をはずれて郊外にいけば、夜は闇に支配される。
暗闇の中では、陽の元では表に出てこれないモノたちも活動をはじめるのだ。
イノシシやシカといった野生動物に、ならず者たちの夜盗集団。
それに、最近再び
とはいえ、高速で走り抜ける鉄の塊である車に襲い掛かってくる馬鹿もいないだろう。
九条系の当主は、今年二十四歳になる九条高俊だ。
芸術家肌の優男だが、内務省で要職についている高官だった。
煌大の従兄にあたり、二十三の煌大とは歳が近いため、煌大が帝都に住むようになってからはしばしばお互いの屋敷を行き来して遊んだ仲だった。幼馴染といってもいい間柄だ。
気安い仲だから、今日は満月が美しいから別邸で一緒に酒を飲もうと言われれば二つ返事で即答した。
ちょうど明日は任務も休みなことだし、一晩泊まらせてもらってもいいだろう。
(未世に泊まるかもしれないって、言ってくればよかったな……)
遅くなるとは言っておいたから、まさか起きて待っていることはないと思うが、思い立ったら一途なところのある彼女のことだから一抹の不安がよぎる。
近ごろ、気が付けば未世のことばかり頭に浮かぶ。
彼女は当初、煌大も彼女の家族のように先読みの力を利用する目的で彼女を屋敷に連れてきたと思いこんでいたようだった。
しかし、煌大自身は、未世の先読みの力については半信半疑だ
未来が視えるなどということは、本当にありえるのだろうか。
未世の先読みの力は、占いみたいなものではないのか。それがたまたま、何度も当たってしまったというだけのことではないのか。そんな風にも考えていた。
未世を屋敷に連れてきたの理由は、別にある。
山澤家の屋敷に皇帝直轄軍の任務で訪れたあの日、座敷牢に飛び込んだのは単なる人命救助のつもりだった。
だが、燃え盛る座敷牢の中で、牛の被り物をかぶり、すっと背筋を伸ばして微動だにせず座している彼女の姿を見たとき、衝撃が走った。
彼女の凛とした姿から目が離せなかった。
彼女が死を覚悟しているのがわかったから、その想いの強さに圧倒された。
他の者たちはみな我先と逃げ出そうとしているのに、一人静かに座している彼女の姿に心奪われた。
そんな肝の太い、芯の通ったことができる人間はどんなやつなのだろうと強く興味を抱いた。
しかし、助け出してみれば、自分の力で満足に歩くこともできない小さく可憐な少女ではないか。
あのか細い身体から、なぜあれほどの強い意思と覚悟が生まれるのだろう。
彼女にますます興味を持った。自分のところに囲い込んでしまいたいと思った。
誰にも彼女を渡したくないと考えた。それで友江に頼んで、こっそり自分の屋敷に連れてきたのだ。
彼女には『自由になれ』なんて言っておきながら、煌大の本心は逆だった。
共に暮らすようになってから、ますます彼女を離しがたくなるばかりだ。
(ダメだ。そんなことしたら、俺も未世の父親たちと同じじゃないか。囲い込んでしまえば、彼女が閉じ込められているのが座敷牢から、俺の屋敷に変わっただけだ)
これ以上執着が強くなってしまうまえに彼女を放すべきだという気持ちと、このまま誰にも彼女を渡したくないという気持ちがせめぎあう。
そうこうしているうちに、車は九条家の別邸の前へとたどり着いていた。
そこは森の中にある三階建ての洋館だった。
すぐに、高俊自ら出迎えにくる。
「やぁ、まってたよ。煌大。良い酒が手に入ったんだ。今宵は大満月。うちのテラスで、月見といこうじゃないか」
長い髪を後ろでさらりとまとめた、品のいい三つ揃えを着こなす優男。九条家当主、九条隆俊は気さくに声をかけてくる。
「ああ。俺も屋敷の生け簀にあった鯛をもってきた。料理人に刺身にしてもらおう」
「それは素晴らしい」
にこにこと機嫌良さそうな笑顔を浮かべて、高俊は煌大を洋館へと誘う。
空には、丸く大きな満月が夜空に顔を覗かせていた。
未世の胸騒ぎは、時間が経てばたつほど大きくなっていた。
夕食のときも、風呂のときも、どこか心ここにあらずで、そわそわしてしまう。
家令の吾妻にも、
「どうされましたか? 未世様」
なんて声をかけられてしまうが、未世自身もなぜこんなに落ち着かないのか自分でもわからなかった。
こんなことは初めてだったから。
「すみません。なんでもないんです」
そう答えて、力なく微笑むのが精いっぱいだった。
今日は煌大がいないから、夜の字の勉強もお預けだ。
だから、いつもより早めに自室で布団に横になった。
(きっと気のせいよ。煌大様も今日は遅くなるって言ってたから寝てしまおう)
夏用の薄手の掛布団を顔まであげて、暗い部屋でじっと眠りにつくのを待つ。
しかし、いつもなら布団に入ればすぐにすぅっと寝入ってしまうほど寝つきのいい未世が、今日ばかりはいくら時間が過ぎても全然眠気がやってこない。
むしろ、目は冴えるばかりで、胸の中にわだかまる不安はむくむくと大きくなっていくようだった。
(なんだろう。この嫌な感じ……)
胸の奥が重く、潰されそうな感覚をいだく。
夕方に玄関で見送った煌大の姿が何度も頭に浮かんだ。
あのとき、なぜか彼が立ち去る後ろ姿を見て、ツンと鼻の奥が痛くなるほど悲しい気持ちになったのだ、
(なぜだろう。煌大様がお付き合いで出かけることは、はじめてじゃないのに)
一条家の人間として、また皇帝の息子としていろいろと人づきあいをしなければならないようで、彼は直轄軍の任務のほかに、今日のように様々な会合に呼ばれることはしばしばあった。
だが、こんな不安にさいなまれるのは初めてのことだった。
(もしかして、彼に何かあるの?)
今夜彼を行かせてはいけなかったのではないのか。
彼に何か良くないことがおきるのでは。
そんな考えが浮かんで、未世は慌てて飛び起きた。
(視なきゃ……!!)
水桶を、水面を見なきゃ。そこに何か映っているかもしれない。
心が焦る。
未世は
文机の上に置いてあったランタンにマッチで火を点けると、手に持って自室をあとにする。
廊下に出ると、きょろきょろと辺りを見回した。
(水桶、どこにあるんだろう)
湯舟を覗いてみようと思い立って風呂に行ってみたが、脱衣所にいくと扉を隔てた風呂場の方から数人の声が聞こえてきた。声からして、男性たちのようだ。屋敷の使用人たちが風呂を使っているのだろう。これでは中に入ることができない。
厨房に行ってみたが、廊下から厨房へと続く戸には既に鍵が掛けられていた。
(どうしよう。水桶がない……!!)
それもそのはずだ。煌大が未世が水面を見てしまわないようにと、徹底的に排除してしまったのだから。
(どうしよう、どうしよう。水面を見なきゃ。水桶……)
水桶を頭に思い浮かべると、胸の中がむかついて強い吐き気がこみ上げてくる。
しかし、今はそれ以上に強い想いに突き動かされていた。
(何もないなら、それでいい。でももし、煌大に何かあったら)
そう思ったら居てもたってもいられなかった。
(そういえば、夕方に夕立があったっけ。もしかして!)
未世はランタンを廊下に置くと、雨戸をあけた。
庭には空に浮かんだ満月が、冷めた光をうっすらと地表に投げかけている。
再びランタンを手に取ると、未世は裸足のまま庭へと下りた。
足が泥にまみれても気にする余裕はなかった。
ランタンを掲げると、まだ水たまりが地面に残っているのが見える。
少し離れたところに、ひと際大きな水たまりが見えた。
未世はそちらに駆けていく。
水たまりは、ランタンの光をうけてキラキラと光っていた。
水面を見ただけで、嘔吐感が去来する。
しかし、胸を押さえてそれを必死に抑えこみ、水たまりを覗き込んだ。
そこに、未世の顔は映ってはいなかった。
代わりに映し出された景色に、未世は驚きのあまり息を飲む。
「どうなさいました? そこにいらっしゃるのは未世様ですか?」
屋敷の方から声が聞こえた。あれは吾妻の声だ。
おそらく、雨戸をあける音に気づいて様子を見に来たのだろう。
「未世様!! 大丈夫ですか!!」
吾妻の声が大きくなる。未世が水たまりを覗き込んでいることを知って慌てているのだろう。すぐさま、走り寄ってくる足音が聞こえた。
未世はのっそりと立ち上がると、傍までやってきた吾妻の腕を強く掴んで縋った。
「あ、あ、吾妻さん!! いますぐ、人を呼んできてください!! 強い人! 誰よりも強い人を呼んできて!! 煌大様が……煌大様がぁ!!!」
未世に見えた景色。
それは、深く暗い森の景色だった。
そこを一人の男が必死に走って逃げていた。
あれは間違いなく、煌大だ。
追われていたのだ。
彼の後ろからは、人よりも巨大な、ヒグマに狼の頭をつけたような禍々しい化け物たちが彼を追いかけていた。
やがて彼は化け物たちに捕まって……。
彼が息絶える瞬間まで視えたのだ。
水面に移るのは先読みだ。それが、どれだけ先の出来事なのかは未世にはわからない。
しかし、彼の服装は、夕方見送った時のままだった。
だとすると、あの惨劇が起こるのはきっと今夜だ。
「わ、わかりました! すぐにお呼びいたします!」
事情を察した吾妻は、すぐさま屋敷へと走って行った。
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