第二話 炎に包まれる屋敷


 寒い冬が過ぎて、春になっても座敷牢に監禁された未世には何も変わり映えのしない一日が続いていた。

 日に一日運ばれてくる簡素な食事と、体を拭くための濡れ布を鉄格子越しに渡されるのを除けば、あとはひたすら水桶を眺める日々。

 変化といえば、換気窓からひらひらと一枚、薄紅色をした花びらが落ちてきたくらいだ。

 それが桜という花びらだということは、座敷牢に監禁されるまえに養父母に教えられて知っていた。

 未世は畳の上に落ちた花びらをみつけると、見張りの目を盗んで指で摘み、そっと手のひらに包み込んだ。

 まるで、それが大事な宝物とでもいうかのように胸に当てて目を閉じる。

 こんな少しの変化であっても嬉しかった。

 こんなちっぽけなものにも縋らないと、生きていけなかった。

 未世はここ一か月の間にも、いくつかの先読みをしていた。ただ水桶の水面に浮かんだ景色をそのまま父の洋三に伝えただけだったが、未世の先読みは今回も山澤商会と山澤家の人たちをさらに富ませるのだろう。

 だが、全ての先読みを洋三に伝えたわけではなかった。

(あの光景は伝えるわけにはいかない……)


 その先読みを見たとき、未世は恐ろしさのあまり思わず悲鳴をあげそうになった。

 慌てて唇を噛んで悲鳴を噛み殺したが、牛の被り物が幸いして、見張りも未世の異変には気づかなかったようだ。

 未世は何度も深呼吸をしてから、もう一度水桶を覗き込む。

 そこにはまだ、禍々しい光景が映し出されていた。

 水桶の水面が真っ赤に見えるほど、炎が燃え盛っている。

 燃えているのは、おそらく未世がいるこの屋敷だ。初めて連れてこられたときに見た屋敷の大きさと豪華さを今も覚えている。

 その屋敷がまるで炎の塊になったかのように燃えていた。

 家人や使用人たちが、悲鳴をあげながら逃げ惑う。

 その屋敷の周りを男たちが取り囲んでいた。あの制服は、軍人だ。

 軍人たちが屋敷の周りを取り囲み、逃げまどう人々を片っ端から捕まえていく。

 屋敷に火をつけたのは父の洋三だった。

 軍人たちが屋敷にやってきたとき、彼らに見られては不味いものでもあったのか、洋三はすぐさま書斎に駆け込むと室内に灯油をまいて火をつける姿が水桶にも映っていた。その火が海から吹き上げる海風に煽られてすぐに大火となり屋敷を包み込んだのだ。

 洋三はすぐさま屋敷から逃げ出すが、着物に燃え移った火を消そうと庭で騒いでいるうちに軍人たちに捕まった。手錠をかけられ、どこかに連行されていく。

 それは、栄華を極めた山澤家の終わりの景色だった。

 屋敷の周りに桜の花びらが吹雪となって舞っているのが見える。

 きっとこの景色は、そう遠くない未来の景色なのだ。

 もしこの先読みの内容を洋三たちに伝えれば、彼らは自らの不利になる証拠はみな処分してしらを切るか、とっとと逃げ出すかのどちらかだろう。

 だから、未世はこの先読みを洋三に伝えず、そっと胸の中に仕舞い込んだ。

 軍人たちが屋敷におしかけた理由は、洋三をはじとする山澤家と山澤商会の関係者を逮捕するためのようだった。

 きっと、いままで悪どく稼いでいたことが、ついにお上にまで知られてしまったのだろう。

 それならば、先読みをして山澤商会の悪事に加担した未世だって同罪だ。

 いや、もし未世の先読みの力がなければ、山澤商会がここまで大きくなることもなければ、悪どい方法で荒稼ぎすることもなかっただろう。

 だから、未世の罪は一番重いように自身には思える。

(私のこの力があったから……みんなを狂わせてしまった……)

 それならば、

(私は燃える屋敷の中で、屋敷と運命を共にしよう)

 そう決意した。

 それが自分の罪を償う唯一の道のように思えた。

 もう二度と、この力のせいで船が買えない漁師が出ないように。

 もう二度と、自分の先読みのせいで米を食べられない子が出ないように。

 もう誰も、不幸にならないように。

 自分の命と引き換えに、この力を他の誰にも悪用されないように消してしまおうと心に決めた。

 そのために、未世はこの先読みを洋三に伝えず自分の胸に仕舞い込んのだった。


 そして、その日は何の前触れもなくやってきた。

 何やら騒がしい声や物音が母屋の方から聞こえてくる。いつもの接待のための宴会の楽しげな声とは違う。

 悲鳴も混じる切羽詰まった声や怒号。

 換気窓の下まで行くと、そよそよと吹いてくる風に焦げ臭い匂いも感じた。

(ついに、あの日が来たんだ)

 普段は未世の動きに目を光らせている見張りも、外の異変に気付いたのか扉を開けて外を見に行き、そのまま戻ってはこなかった。

 それから少しして、今度は血相を変えた華代が駆けこんできた。

 いつもは綺麗に整えられている髪も、いまは乱れて肩に散らばる。

 しかも珍しいことに、今日はいつもの振袖でなく女中の着物を着ていた。

 華代は鉄格子を両手で掴んで、座敷牢の中の未世を怒鳴りつける。

「どういうことよ! たくさんの軍服を着た男たちが私たちを捕まえに来てるのよ!? お父様は書斎へ走っていったかと思ったら、火をつけてしまうし。それで屋敷は火事になって大変なことになってるわよ! なんでよ! なんで、あんたの先読みの力でこの事態が防げなかったのよ! あんたなら、できるでしょ!?」

 華代は怒りに顔を歪めて鉄格子を揺すろうとするが、しっかり嵌め込まれた鉄格子はびくともしない。

 未世は座敷の真ん中、いつもいる場所にいつものように正座すると、華代を見上げた。

「……すみません、お姉様。でも、私が視るものを選べるわけではないので……」

 冷静に喋る未世の言葉を、華代の叫ぶような声が遮る。

「役立たずっていってんのよ! この無能! あんたみたいな化け物なんて、私たちが庇護してあげなかったら一日たりと生きてなんていけないんだから! 裏切り者!」

 言葉をぶつけたあと、華代はふいにフフンと勝ち誇った笑みを浮かべた。

「これ、なんだかわかる?」

 華代が手に持ってかざしたのは、この座敷牢の鍵だった。

「この鍵は捨ててしまうわ。お前なんか、この火事といっしょに燃えちゃえばいいのよ」

 捨て台詞を吐いて、華代は出ていく。

 おそらくどこか人目のつかないところに鍵を捨てて、本人も女中たちに紛れて上手く逃げようという魂胆なのだろう。

 未世は、牛の被り物の下で、ふぅと小さくため息をついた。

 もとより、逃げようとは思っていない。だから鍵がどうなろうと、知ったことではなかった。

(私はいいの。このままで……)

 この家が終わりを迎えるというのなら、この家とともに自分も終わりを迎えるのが筋というものだろう。

 未世は正座をしたまま、居住まいを正すと背筋を伸ばす。

 屋敷を覆い尽くした炎は、ついに座敷牢までも飲み込みつつあった。

 天井が、壁が、どこもかしこも真っ赤な炎に包まれ黒い煙を吐き出していくのを、未世はぼんやりと眺めていた。

(これで、終わる。やっと……やっと……)

 赤い炎を見上げながら、何もかも疲弊して麻痺して、すでに痛みも感じなくなっていた心は、どうか早く終わらせてほしいとそればかりを願っていた。

 そのときだった。

 座敷牢と外界を繋ぐ唯一の扉が、突然勢いよく開いたのだ。

「誰かいるか! いたら返事をしろ!」

 凛とした若い男の声が外から聞こえてきた。

 扉が開いたことで、天井に渦巻いていた黒い煙がいっきに外に流れ出す。

 煙のせいで、声の主の姿は見えない。

 聞いたことのない声だった。

 思わず返事をしそうになって未世は、はっと口を噤む。

 何も言わなければ、きっと彼はこのままどこかへ去っていくだろう。

 まさかこんなに燃え盛る室内に生きた人がいるなど思わないだろう。

 そう思ったのに一瞬の間をおいて、人影が煙をつっきり室内へと飛び込んできた。

 軍服を着た若い男だった。二十代前半と思しき快活そうで、整った顔立ちの男。

 そして、

(赤い目……)

 まるでこの座敷牢を取り巻く炎の色を写しこんだかのように、その人は赤い瞳で未世を見つめた。にやりと口の片端をあげて笑う。

「やっぱりいたな。噂通りだ」


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