上手く細工が出来なかった人たちへ。


 鱗の剥げた魚を見たら、きっと何かの病気だと訝しむのだろう。

 国崎と外園は丁度そういう風に見られる男女だった。当たり前を享受できず、居るだけで後ろ指を指され続ける、クラス1の不細工コンビ。

 この物語は水底でもがきながら、当たり前を求める人たちの肖像なのだろう。 



 この小説の魅力は「等身大であること」に集約されている。

 都合の良い逆転などない。美しい白鳥への変身もしない。満足感すらも十分に味わえない窮屈さが伝わってくる。

 それだけ「不細工」の解像度が高い。

 よくある作品では、(外見の)不細工はあくまでカタルシスを引き立てるための素材としか見なされない。主人公の心は清純で、その心にカースト上位の異性なり、外部の地位が高そうな人が惹かれるという話が大半だ。

 ……そんなはずはないのだ。悲しいことに。

 国崎も外園も、外見以外はごく当たり前の人間なのだから。
 外からは抑圧され続け、内からも自己嫌悪、欲望が絶えず湧き上がる。そんな状態でなぜ真っすぐ生きられると思うのか。

 彼らからは、あまりにも早過ぎる「諦観」が節々から感じられる。読み進めるほどにその重みがぐっとのしかかる。


 しかし、この話は分かりきった「悲しいお話」で終わりにはしない。
 彼らは力尽きて、流されてしまうわけではない。

 見えない壁に身体をぶつけながら、出口を求めて進む彼らの姿を、見届けていただきたい。