飛鳥休暇

国崎くにさきくん、わたしとセックスしない?」

 そんな突飛な書き出しから始まる物語があったとしたら、きっと言ったほうはミステリアスな美少女で、言われたほうは大人しめの美少年のはずだ。そうでなければならない。


 でも、現実で言ってきたその相手は、クラスでは物静かで目立たないにも関わらず男子の間で身勝手にランキングされたブサイクな女子部門の一位に名前が挙がる外園聖子ほかぞのせいこその人で、言われたぼくはその男子部門第一位の国崎悟くにさきさとるだ。


「え?」


 ぼくは聖子から放たれた言葉が上手く脳内で処理できずに固まってしまう。

 たまたまふたりとも日直の仕事で残った、だれもいない放課後の教室だ。

 グラウンドからは野球部のかけ声が、遠くの廊下からは吹奏楽部のトランペットの音が響いてくるそんな中、しばし時が止まったように感じていた。

 言ってきた聖子はというと、顔を赤らめて伏し目がちにぼくの様子を伺っている。それはすなわち、先ほどの言葉がぼくの幻聴で無かったことを意味している。

 幻聴であったなら良かったと思うのは失礼なことだろうか。


「な、なんで?」


 なんでぼくと、や、なんできみと、という気持ちを含んだ「なんで?」だった。


「だって、わたしも国崎くんも、このさききっとできないでしょ?」


――セックスを。


 なにを失礼な、という気持ちと、おっしゃるとおりですね、という気持ちが混ざってぼくの顔のすべてのパーツが中心に寄る。

 高まる鼓動を抑えつけるように手の甲をぽりぽりと掻くと、鱗のような乾燥した皮膚がぽろりと床にいくつか落ちた。

 この胸の高鳴りは恋ではない。断じてそうではない。


 そういえば今日の昼休み、クラスメイトの女子が数人集まってなにやら盛り上がっていたことを思い出す。

 中心にいた主役であろう女子が何か話す度に「ひゃー」とか「きゃー」とか歓声が上がっていた。

 あれはもしかしてそういう卑猥な話をしていたのだろうか。それを端で聞いていた聖子の心に、セックスに対する興味の気持ちが湧いてきたのだと推測する。

 高校二年生、思春期まっただ中のぼくらには、一番の関心事であることは間違いない。

 そして噂レベルではあるが、クラスの何人かはすでに「卒業」したらしいということも耳に入ってきていた。


――だから?


「きみと、セックス?」

「そう」


 聖子はもう恥じらいを越えたのか、しっかりとぼくを見つめて頷いた。二重顎がくっきりと浮かんでいる。こっちのほうが負けてしまいそうなほどの熱い目線だ。

 でも、ぼくのなかにも多少の怒りの感情が沸き上がってきた。

 馬鹿にするな。いくら自分がブサイクだからって、ぼくなら誘いに乗ってきそうだと思ったのか。ブサイクランキング一位同士なら、まぁいいでしょうと。

 ふつふつと沸き上がった怒りの熱が、徐々に下半身に移動してくるのを感じた。それはいまそこにあるセックスへの興味とそれを実行できるチャンスへの期待のせいだ。

 まさか、こんな失礼な誘いに乗ろうというのか。

 でも、彼女の言うように、ぼくがセックスできる機会などこの先訪れるとは思えない。

 ぼくは目の前にいる聖子をまじまじと見る。

 顔の輪郭はあんぱんのようにまん丸で、ごまつぶのような目が乗っている。小さな鼻は少し上を向いていてそのくせ鼻の穴は大きい。

 幼稚園児の書いた人間の顔の実写版がそこにはあった。


「……いいよ」


 出てきた自分の言葉に、なぜかとてつもない敗北感を感じてしまった。


******


 聖子から指定されたのは二日後の木曜日の放課後だった。

 いったん家に帰って私服に着替えてから教えられた住所に向かうと、古びたアパートがあり、その二階が聖子の家のようだった。

 一歩上がるたびにガシャガシャと鳴る鉄の階段を登り、向こうから三つ並んだ部屋の一番奥の部屋。チャイムを押すとアパート全体にその音が響いた。

 もしかしたら隣の部屋の住民が勘違いしてドアを開けるんじゃないかとドキドキしたが、ぼくの懸念をよそに目の前のドアがゆっくりと開いた。


「入って」


 わずかな隙間から丸い手と共に聖子の声が聞こえたのでぼくはゆっくりとドアを開ける。

 小さな玄関には乱雑に靴が置かれていて、ぼくは少しだけ足でスペースを作ってからそこで靴を脱いだ。

 聖子の家はどことなく味噌のような臭いがした。

 顔を上げると、上下ともに安っぽいスウェットを着た聖子が立っていて、そのフォルムは色だけ灰色にした某ネコ型ロボットのようにも見えた。


 ぼくが入ったのを確認すると、聖子はなにも言わずに部屋の奥へと向かっていく。

「おじゃまします」と小さな声で言ってから、ゆっくりと聖子のあとを追っていく。

 聖子の家はこじんまりとしていて、キッチンと一体化している短い廊下を抜けると、小さなテーブルが置かれた居間のような部屋があり、聖子はそのままその居間の隣にある部屋に入っていった。

 そこは寝室になっているようで、布団が二つ、いま起きたばかりのような乱れた状態で敷かれていた。

 聖子がそのうちの片方の上に座るので、ぼくも恐る恐るその隣に腰掛けた。


 しばし気まずい沈黙の時間が流れる。

 所在なさげに目線を動かすと、ふすまに染みついた汚れや脱ぎっぱなしになった聖子の制服などが目に入る。

 手の甲が痒くなってきたので掻こうと思ったが、人の家に自分の皮膚のカスを落とすのがはばかれてなんとかそれは我慢した。


「家の人は?」


「父さん、今日は夜勤の日だから」


「そう」


 お母さんは、という問いはなぜか失礼な気がして聞けなかった。


「ん」


 沈黙に耐えかねたわけでもないだろうが、ふいに聖子がなにかを差し出してきた。

 一見チョコレート菓子のようにも見えたその箱には【0.03】という数字が大きめに描かれていた。


「あ、あ、これ」


 噂では知っていたが実物を見るのは初めての、ぼくにとってツチノコのようなそれはコンドームという名前の製品だ。


「か、買ってくれたの?」


 ぼくがそう問いかけると、聖子はなぜか口の端を歪ませた。


「レジの人がさ、若い女の人だったんだけど、わたしがこれを持って行ったとき明らかにびっくりした顔しててさ」


 言いながら聖子が今日初めてぼくと目線を合わせてきた。


「こんなブサイクでもセックスするのかって。何度もチラチラこっちを見てきたよ」


 悲しんでいるのか怒っているのか、聖子は口をへの字に歪めていた。


「そ、そう」


 笑って良いのか否定すれば良いのかすら分からないぼくは、とりあえず聖子と同じような口の形にして誤魔化した。


「……やるんだよ」


「え?」


「やるんでしょ?」


 ――セックス。


 一気に緊張感が高まるのが分かった。ぼくの飲み込む唾の音が先ほどのチャイムのようにアパート中に響くような感覚がした。


「う、うん」


 意を決して聖子に向き直る。その両肩を掴んだ。聖子は嫌がる素振りも見せずにまっすぐにぼくを見つめている。

 徐々に聖子の顔が近づいてくる。聖子の鼻の下にうっすらとヒゲが生えているのが見えた。

 目をぎゅっとつぶってから聖子に口づけをする。

 驚いたことに、とても良い感触がした。しばらく、その感触を楽しむように唇を合わせ続けると、彼女も興奮してきたのか明らかに鼻息が荒くなっていて、そのうち唇をこじ開けるように生ぬるい何かが口内に入ってくるのが分かった。

 一瞬、驚いて唇を離すと、聖子の口からでかいなめくじのような舌が飛び出していた。


「嫌だった?」


 聖子の言葉に首を振り、再び唇を合わせる。

 今度は確かめるようにゆっくりと、ぼくのほうから舌を伸ばす。

 聖子の舌とぶつかりあうと、全身に鳥肌が立つような感覚がした。それは間違いなく快感であった。

 ぴちゃぴちゃと音を立てながらお互いの舌を吸い合うたびに、生暖かい吐息がお互いの顔を湿らせ、そしてそれは、お世辞にもいい匂いとは言えなかった。


 そのうち、聖子が後ろに倒れ込んだので、追いかけるようにしてぼくも彼女に覆い被さる。

 思い切って彼女の胸に手を当てると、大きく聖子の身体が跳ねた。

 初めて触る母親以外の女性の胸は驚くほど柔らかく、ぼくは必死になって揉みしだく。


「待って」


 興奮したぼくをなだめるように聖子が声をかけてくる。

 上体を起こした聖子が、上に着ていたスウェットを脱ぐと、ベージュ色のブラジャーに包まれた胸が顕わになった。

 ぼくはなぜだか、聖子もブラジャーをするんだなと当たり前のことを考えていた。

 手を後ろに回し、器用に自らのブラジャーのホックをはずすと、聖子はそのままするりとブラジャーを脱ぎ捨てた。

 上半身を真っ裸にした聖子は、見ようによってはちびっ子相撲の横綱のようにも見えたが、完全にスイッチの入ったぼくの目にはとても性的なものに映った。

 隠すものがなにも無くなった聖子の胸にゆっくりと手を伸ばす。先ほどよりもダイレクトにその柔らかさが伝わってきた。指の間が乳首に触れると、聖子の口からわずかな吐息が漏れた。

 完全にタガが外れたぼくは聖子を押し倒しその胸にしゃぶりつく。

 ぼくの舌が乳首を撫でるたびに、聖子の身体が大きく跳ねる。

 欲望のまま聖子の下半身に手を伸ばし、スウェットとパンツを押しのけると、陰毛の先がぬるぬると濡れているのがわかった。

 水よりも粘度があり、はちみつよりはさらさらしてる。指先にはじめての感触が広がる。

 ぼくが指を上下させると、ついに聖子の口から「あっ、あぁぁ」という声が漏れ出してきた。


 勢いのまま自分のズボンをずり下ろすと、聖子がコンドームの箱を指さした。


「あ、そ、そうだね」


 フィルムを剥がし中身を取り出すと、お菓子のような小袋が連なったひとかたまりが出てきて、そのうちひとつをちぎり取る。

 装着のしかたはなんとなく知っている。袋をやぶってリング状になったゴムを陰部に巻き付けるようにはめた。

 きっとこれでいいはずだ。

 ぼくがゴムを付けているあいだに、聖子は自分のズボンとパンツを脱いでおり、生まれたまんまの姿で仰向けになってぼくを待っていた。


「い、いくよ?」


 声をかけると聖子は目をつぶって頷いた。


 聖子の太ももを少し持ち上げてから、ぼくはゆっくりと腰を押し当てる。

 ず、ずずっと中に入っていく感覚があった。

 聖子は痛みに耐えているのだろうか、眉間にしわを寄せて声を押し殺していた。

 ぐっと、最後まで入った感じがしてぼくは聖子に覆い被さる。


「大丈夫? 動いてもいい?」


 ぼくの呼びかけに聖子は言葉を発さずうなずいた。


 分からないなりに腰を動かしてみる。

 下半身に感じる温かさは今まで経験したことのない感覚があり、それはとても気持ちが良く、気がつけばぼくは聖子の背中に手を回し必死になって腰を動かしていた。


 初めは声を殺していた聖子も、ぼくの動きが激しくなると共に嗚咽とも取れるようなあえぎ声を漏らし始めていた。

 抱きしめた聖子の身体は柔らかく、そして熱かった。


 何度かの腰の往復を経てから、ぼくは聖子の中で果てた。




 しばらくふたりとも呆然としていた。

 隣どうし仰向けに寝転んで、荒い息を整えている。

 そのうち、ぼくは股間についたゴムが気になって起き上がり、ゆっくりとそれを外した。


「見せて」


 聖子が言ってくるので、外したばかりのそれを彼女に向ける。

 聖子が興味深そうにそれを見てくるので、ぼくはなんだか恥ずかしくなってきた。


「気持ちよかった?」

「うん」


 ぼくが答えると、聖子は少し満足げな表情を見せて目を閉じた。

 ゴムの出口(入り口かもしれないが)を縛ってから、近くにあったティッシュで包む。

 目線の先のタンスに、男性アイドルグループのシールが貼られていることに気がついた。


外園ほかぞのもこういうの好きなの?」


 ぼくが指さすと「まぁ、それなりに」と小さい声で返ってくると同時に、どこかから犬の遠吠えが聞こえてきた。


******


 家に帰ってから、お母さんの声を無視するようにして風呂場へと向かった。股間の感触が少し気持ち悪かった。

 シャワーを浴びてから洗面所に立つと、自分の醜い容姿が鏡に映る。

 平均よりもかなり低い身長、アトピーのせいで荒れた肌は土色をしている。歯並びはリアス式海岸のようにガタガタで、常に唇から一本はみ出している。

 我ながら酷い見た目をしていると思った。

 だからこそ、聖子の誘いに乗ったわけだが――。


 聖子のタンスに貼ってあったアイドルグループのシールを思い出す。

 きっと聖子も、彼らのようなカッコいい男に抱かれたいと思ってるはずだ。願っているはずだ。

 だけど現実はどうだ。

 夜中にすれ違ったら悲鳴を上げてしまいそうなほど醜い見た目のぼくを選んで。選ばざるを得なくて。

 せっかくセックスというものを経験したにも関わらず、ぼくの気持ちはどんどん沈んでいく。

 射精したあとを賢者モードと呼ぶが、いまのぼくは亡者のような気分だった。


******


 翌日、登校した教室で、ぼくらは挨拶をかわすことなく一瞬互いに目を合わせるだけで、そこから一言も会話することはなかった。

 その昼休み。ぼくがいつものように自分の席でもそもそと弁当を食べていたそのとき、近くの男子グループの会話が耳に入ってきた。

 昨日のこともあり、そういう話題に敏感になっていたのかもしれない。


「お前、ヤッたってほんとうかよ」


 そんな言葉が聞こえてきて、ぼくは意識だけそちらに向ける。


「おー、ヤバかったよ。めちゃくちゃ柔らかかった」


 話題の中心にいる男子が自慢げにそんなことを言っていた。


「やべー。おれも早く卒業してー」


 大きな声で笑うそのグループにつられるように思わずぼくも笑みをこぼす。

 それは自身に芽生えたほのかな優越感からだった。


「おい、国崎。お前なに笑ってんだよ」


 ぼくの一瞬の気の緩みを見逃さなかったグループのひとりがぼくに近づいてくる。残りのメンバーも後を追ってぼくの机を取り囲む。


「え、いや、別に」


「いま笑ってただろーがよ」


 そう言って初めに近づいてきたやつがぼくの机を蹴った。


「いや、違う、違う」


 ぼくは待ったをかけるように両手を広げて首を振る。


「お前なんか一生できねーんだから人の話に入ってくんじゃねーよ」


「できねーから聞き耳立ててたんじゃねーの?」


 ぎゃははと四方から笑い声が飛んでくる。

 一瞬、心に火がついたような感覚がした。


「ぼ、ぼくだって」


 言いながら聖子に目線を向けかけて、なんとかそれを我慢した。

 彼女との関係を知られてしまったらさらに酷いことになることは容易に想像できた。


「あ?」


 至近距離ですごまれて、ぼくの心の火は一瞬にして消え去った。


「ぼくだってなんだよ、お前まさかヤッたことあるとかいうんじゃねーだろうな」


「ないない。だって国崎だぜ?」


 ぎゃはは、とまた笑い声が襲ってくる。

 ぼくは拳を握りしめて、その場をやりすごすことしか出来なかった。

 少し離れた前方の席にいる聖子は聞いているのかいないのか、まっすぐ前を向いていた。



 聖子からメッセージが来たのはその夜だった。


「日曜日。また家こない?」と書かれていた。


******


 約束の日曜日、お昼前には聖子の家に到着した。

 前と同じようにチャイムを押すと、前と同じようにわずかにドアが開き「ん」という声が聞こえてきた。


「お邪魔します」


 相変わらず玄関の靴はぐちゃぐちゃで、ぼくはまた足でわずかな隙間を作って靴を脱いだ。

 聖子は前回と同じ上下スウェット姿で、もしかして家ではこれしか着ていないのではないかとも思った。


 居間の横の部屋、布団がふたつ並んだ部屋に入ると、ぼくは先に座った聖子の隣に腰掛けた。


「今日、ご家族は?」


「日曜日はいつも朝から競馬行ってんだ」


「競馬?」


「東京競馬場。飲んで帰ってくるからいつも帰りは遅いよ」


「そうなんだ」


 突然、聖子がふっと笑みをこぼした。


「どうしたの?」


「わたしの名前も、競走馬から付けたんだって」


「え?」


「ハイセイコーって馬がいたらしくて」


「ハイセイコー、から、聖子?」


「自分の娘に馬の名前付けるって、頭おかしいよね」


「いや、どう、なのかな」


 良い返しが出てこずに困ってしまう。


「競走馬ってさ、サラブレットって、早い馬を生むために交尾させられるんだよね?」


「ああ、なんか聞いたことあるかも」


「じゃあ、わたしと国崎くんで子どもを生んだら」


 聖子の言葉に驚いて思わず彼女と目を合わせる。


「不幸のサラブレットだ」


 そう言って聖子は、嬉しいのか悲しいのか分からないような顔をしていた。


「……そう、だね」


 そうかもしれない、と思ってしまった。

 お世辞にも良い見た目とは言えないぼくたちに、もし子どもができてしまったとしたら、その子が背負う業はどれほどのものなのか、想像もしたくなかった。


 ぼくは聖子の顔を改めて見る。

 そしてなぜか、クラスメイトの一条さんの顔を思い浮かべていた。

 クラスで一番美人の一条さん。

 聖子の髪はごわごわしているが、一条さんの髪はその一本一本が絹糸のように滑らかで、目は聖子の二倍は大きい。鼻はすっと伸びていて、小さいのにぷっくりと柔らかそうな唇は男性を虜にすることだろう。

 どうして同じ人間なのに、こうも作りが違うのか。


「だから、ちゃんと付けてよね」


 聖子が例の箱を目の前に持ってくる。きっとセックスをするときだけに使う箱だ。


「うん」


 そうしてしばらく経ってから、どちらからともなく口づけた。


 前回よりも少しはスムーズになった動きとともに、ぼくらは再びひとつになった。


 聖子の中に入れてから、ぼくは目を閉じて腰を振る。

 頭に浮かぶのは、一条さんの顔だ。

 ぼくは想像の中で一条さんとセックスをする。

 これは一条さんの胸で、首筋で、唇だ。

 そんなことを考えていると、驚くほど早くイッてしまった。


 そこから何度か、ぼくらは気の向くままに交わり合った。

 気付けば日は傾きかけていて、夕日が部屋を赤く染めていた。


「お腹、空いたね」


 隣で寝転んでいた聖子が言ってきたので、ぼくも同意する。


「牛丼でも食べに行こうか。近くにあるんだ」


 そうしてもそもそと服を着てから、ぼくたちは夕焼け染まる町へと繰り出す。


 ぼくの少し前を聖子が歩く。

 ぼくたちは肩を寄せることもなければ手を繋ぐこともない。

 これは一般的に言う「セフレ」というものなのだろうか。

 その響きに一瞬胸が高鳴り、その相手が聖子だということに胸が萎んだ。


「人間やめますか、だって」


 聖子が急に立ち止まり、そんなことを呟いた。

 目線の先には掲示板があって、違法薬物の啓発ポスターが貼ってあった。


【クスリやめますか? 人間やめますか?】


「もし本当に人間をやめれるんだったら、わたしは使いたいよ」


 そうして聖子は自嘲気味に笑った。

 それは自らを傷つける行為にも思えた。


 きっと聖子はこれまでも、その見た目のせいで嫌な思いをたくさん経験してきたのだろう。

 その気持ちはぼくには良く理解できた。痛いほど。痛いほど。

 どうしてこの世界は、見た目が悪いというだけでこれほどまでに辛い思いをしなければならないのだろう。


 見た目が良い人間と悪い人間では、明らかに世界の難易度が違うのだ。

 見た目が良い人間は、見た目が良いというだけで清らかな水を泳いでいるみたいなもので、ぼくたちのように見た目が悪い人間は、激流の中を必死に泳いでいるのだ。

 傷ついて、鱗をぽろぽろと剥がされながら、何も悪いことをしていないにも関わらず、世界から迫害されるのだ。


「ねえ、国崎くん」


 再び歩き出した聖子が声を掛けてくる。

 道はなだらかな坂になっていて、声は少し上から聞こえてきた。


「わたしとセックスできて、良かった?」


 聖子が立ち止まり振り返る。


「ぼくは」


 ――ぼくは。


 真っ赤に燃えるような夕日のせいで逆光になっていて、聖子がいまどんな表情をしているのか、ぼくには分からなかった。




【鱗――完】

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飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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