rise:浮上


 *


 オクタゴンが眠ってから、私は時空のほつれと思しき場所を見つけるたびに、迷ったとき地図を確認するようにリファレンス・ライブラリを参照した。

 道に迷うたびに予感がする。その予感が私を導く。複雑な道へと私を連れ出し、昔来た道だと知って落胆する。ほんとうに数学的に記述できれば宇宙には、ほつれがないのか。それは観測しなければ分からないのか。地道な検証作業こそが私とオクタゴンの旅だ。

 リファレンス・ライブラリには私たちの記憶が格納されている。

 ライブラリ内で、私とあなたは出会い、別れる。そうしてその記憶は人工神経の結束と消滅によって化学的に保存されている。私はリファレンス・ライブラリのことを忘れている記憶として、自然界記憶と名付けている。自然界記憶は私の未来ですら記憶として保存している。私はリファレンス・ライブラリで未来を覗く。多層の現実として保存されているそれらは可能性しか示さない。このリファレンス・ライブラリ内の情報エントロピーは常に人工神経内のエントロピーを上回るようには出来ていない。つまり驚くべきことが起こることはない。この宇宙が突然にひっくり返ることや、タイムマシンの発明といったことは起こらない。

 私はずっと何かを待ち焦がれている。そうして一万年が経ったとき、実宇宙から知らせが来た。実宇宙で、向こうの私たちが、正確には向こうのあなたが、こちらの宇宙がイデア宇宙だということを知らせてきたのだ。ふたつの宇宙は鏡のまえにあるかのような構造をしている。私の旅のまえにあなたの旅がある、あなたの旅のまえに私の旅がある。私たちは誰を追いかけていたのだろう。

 私とあなたは同じ道を歩む。宇宙を旅する。いずれ私たちは出会う。それは物理的にではない。数式のむこうの線上で。

 アーク・プロセッサのコンソールに文章を入力する。

「実宇宙へ。音声データを送ることは禁じられているけれど、ループ構造の数式を私に送る」

 送信後すぐのことだ。

 宇宙には果てがないはずだった。開かれた視界に私の、アークの影が、映った。私のかたちがぬるりとその平面に映ったところで時空のほつれがそこなのだと直観的に分かった。

 私は母星に時空のほつれを発見したという信号を送る。探査腕を伸ばしてその平面を撫でる。銀色の探査腕が平面に映った。どれくらい長い間、そのほつれを眺めていたか分からない。母星からの通信が来た。

 進め、と。息を飲んで私は時空のほつれに侵入する。アーク・プロセッサが不思議な音を立て始める。宇宙の計算が途絶えているのか。私は深淵に飲み込まれていく。そうして時空のほつれの先へ向かった――。


 *


 私のARニュースに不思議な文言が浮かぶようになったのはいつからだったろう。ループ構造の式だ。私は紅茶を口に含みながら、ARニュースを読む。事件は複数伝えられているのに、同じ事件を報じている。おかしい。ニュースが報じているのはあなたが宇宙の果てに到達したという二年前のニュースだ。時計を見ても、二年前の八時四五分で針はそこから進んでいない。全てが止まっている。でも私たちは生きている。

 こうも考えられる。私のプログラムは作動しているけれど、全体のプログラムは止まっているような感じだ。実際に私を構成しているプロセッサや、周辺までの計算は実行されているけれど、全体が凍り付いてしまっているようなものだ。

 私は凍り付いた空を眺める。航空機も、雲の流れも止まっている。きっと宇宙も凍り付いているに違いない。私は時間が存在しないことを知ると、あなたと話すために宇宙局に向かうことにした。宇宙局ではメッセージを送信する大袈裟な機械があった。受話器を取って、あなたに話かける。あなたは遠い場所を飛んでいるから、ずっと先に連絡が来るはずだ。一九年先でも私はメッセージを残した。機械の横の鏡のなかで、私はぐしゃぐしゃの顔でいることに気づいた。

 瞳の色が僅かに私と違う。彼女は、私にひとつのメモを見せた。ループ構造の数式だ。私の腕時計の針は止まっている。そうして私たちは鏡に触れた。

 魂も、永遠も、たしかにそこにある気がした。私を包んだそのヴィジョンは、私を向こう側へと連れ出した。ありとあらゆる思い出せない記憶も覚えている記憶も存在する場所だ。私は宇宙を計算する計算機になった。

 帰りの道で、時間が関係性のネットワークだと思いつく。その考えは私たちの宇宙がデジタルコンピューターをイデアに持つ宇宙だと気づかせる。光速度不変の原理は破れるなら、速度すら無限に大きくなるロケットを作ればいい。もうひとりの私が見せてくれた光景は未来をも含む自然界記憶だ。私はあなたに追いつけないけれど、私たちなら違う結果を持つだろう。

 いずれ私はあなたに追いつく。あなたを追い越して、すれ違い様に手を触れて、そうして抱きつく。海のなかにいるのはもう止めた。光の方へ、ただ向かうんだ。

 孤独な旅は始まる前から終わっていたのだ。

 揺蕩たゆたう光が、水面に接触した。私たちはそうやって光へと浮上する。〈了〉

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