multilayer reality :多層現実


 *


 格子状の街並みに、一軒のレンガ造りの家があった。私はそこでレモンティーを飲みながら今日起こったかもしれない事件の数々をARニュースで眺めている。ARニュースは多層現実を私に見せる。市民にとってARニュースはエンターテイメントだ。

 たとえば大統領が暗殺されるだとか。たとえば銀行強盗が強盗に失敗してレストランを襲撃するとか。たとえばきょう結婚するカップルが破局するだとか。

 私はレモンティーで口元を濡らすと、ひとつひとつの多層現実をじっくりと味わい、飲み干す。

 ここは平和が約束された土地だ。揺り椅子に背中を預けるとすこしばかり眠くなって瞼を閉じた。

 白昼夢の世界で、私とあなたはあどけなさの残る子どもだった。あなたがいっしょに歩いてくれるのなら、どこまで行けるのだろうか。学校の百年祭の日に、――あれは四年生のときだった――私があなたと読んだ一冊の小説が私たちをつなげてくれている。あなたはどこでどうしているかなんてもう分からない。瞼を開くと、ARニュースが多層現実のひとつを教えてくれる。それは私たちが幸せに暮らしたという現実だった。ありえなかった現実のなかの私はほんとうに満たされているようだった。私にとっての遠い過去の一つとしてARニュースは生成されたようだ。

 こうして私はしあわせに暮らしました。

 こうしてあなたはしあわせに暮らしました。

 こうして私とあなたはしあわせに暮らしました。

 たとえばこんなおとぎ話をARニュースは私に知らせてくる。なんて不愉快極まりないARニュース! 私は冷凍庫を開けて氷をひとつ取り出して、口の中で転がしてから、噛み砕いた。

 そうして私は銃を抱えて、扉を勢いよく開き、格子状の街並みを歩いていく。銃声が鳴り、隣の婆さんが目をぱちくりさせても、子どもが小便を漏らしても、逃げ惑う女たちが文句を言っても、空に銃を構えるのを止めなかった。やがて警察が来て、私を蜂の巣にして、すべてが終わるのだろう。道で銃を撃ちまくった罪だ。そんなことは罪にならないかもしれない。これも多層現実のひとつとして数えられるかもしれない。ARニュースにこんな馬鹿がいましたと、街中に笑いものになる未来が来るかもしれない。

 私は苦しい表情を浮かべている。カラスの影が私を追い越してずっと遠くへと飛んで行く。眉間に皺を寄せて、手で顔を覆った。そこでうずくまる。銃を頭に当てる。カウントダウンだ。何回数えようか。

 こうして私は人生を終わらせました。

 こうして私の人生は幸せだったに違いありません。

 私と名乗る彼女にだって幸せな未来があったかもしれません。

 私はもう、何も思い残すことはないと瞼を閉じた。

 明日のほんとうのニュースに私はなるのだ。

 なにがほんとうなのか。

 なにがフィクションなのか。

 多層現実のひとつに私の失態が載せられた日に、私の体はコピーされた。生体コピーではなく、情報存在となってコピーされたのだ。多層現実にまたがる私たちはそうして、あらゆる場所で失態をやらかす存在となった。時には正義のヒーローになって、時には悪のヴィランとなって。私というエンターテイメント、ザ・ショーがARニュースの記事になってから久しい。私はキャラクターAとなって、交換可能で、代替可能なAであった。

 私たちと言い続けるのも辛くなったので私と便宜上名付けた存在は、ARニュースを読んで腰掛けているあの幸せな少女に戻る。私だって平穏な日常が欲しい。コピーにだって休息は必要だ。大人に休暇が必要なように。あなたへの憧憬が私にとってどんな意味を持つのかは私には分からない。増殖を続ける私には、何か答えが与えられるわけでもない。

 いま、どんなにあなたを探しても、あの日の私たちにはきっとなれない。時空が曲がったとしたなら、繰り返す時空が私をあの日に巻き戻してくれるかもしれないが、この世界の物理法則はそのようになっていない。太陽の近くならば何かが重力の作用で変わっていたかもしれないが、私たちを引き合わせる引力には足りない。

 終わってしまった過去へは戻れない。

 タイムマシンは作れない。

 私たちはどんなに会いたくても会えない。

 現実を受け入れて、失態を犯す日々に戻ろうじゃないか。

 いつだって私はそうやってきたんだから。

 あなたのいない世界に私は戻ることにする。増殖する私たちは、ARニュースの見出しで踊る文字になっている。ダンスを、誰も相手をしないダンスを、踊り続けていくのだ。ビートが、リズムが、私の首筋に流れる汗を、止まらなくさせる。鼓動を終わらなくさせる。

 ほんとうにくそったれ。私はきっとコンピューターのなかでずっと踊りを続けていく。それが何を意味して全体性を獲得するのかを知らないままで。

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