イデア計測

小林蒼

voyagers:航海者たち

 ずっと孤独な旅をしてきた。

 宇宙を一三八億光年先へと進むアークのなかで、私は微睡まどろむ意識を活性モードに切り替えた。私はずっと抽象的な海を見ている。それが思考の原風景だからだ。 荒涼とした、なにもない世界とつめたい宇宙、遠い数多の星々はずっと孤独だった。私みたいだ。私はふたりに焦がれていた。幻肢痛のようなものかもしれない。

 人間だったときの記憶を思い出している。何故そうしているのか、それが人間としてどんな意味を持つかは、私はとうの昔に忘れてしまった。

 記憶のなかのあなたが笑いかける。

「今は違うよ」

「え?」

 あなたは水平線を眺める。海と空の、濃さの違うブルーが重なる。

 あなたの横顔を見た。栗色の髪が波風に揺れている。波音が私の耳から消えた。

「ト・エオン。あることは、無‐時間の世界だ」

「永遠ではなく?」

 あなたの表情をじっと見ている。落ち着いた安らかな顔はゆっくり目を閉じる。あなたの中にいる人は誰ですか? 私だったらと考えるとくすぐったい気持ちになる。

「このままさ、どこか行けたらいいね」

 無時間という永遠を見続けるほど、私は大人になれたのだろうか。私のなかの止まった時間は、物理法則のうえで運動し続ける光だ。電子の回転も、もういちどそこに戻れたならと考えるだけの不可逆な実行命令に過ぎない。私はいつも夢に見ている。それはあなたとの時間が永遠に戻らないこと。うまく掴めない時間のなかでただ溺れていくことなのだと知っている。

「記憶が私の過去の意識を作るなら……」

 私は真空で声にならない声を発した。

 ここは広大な闇だ。どこまで分け入っても、明確な現実をそこに浮き上がらせることはない。それでもふたりで見た海はいまもここにある。波音が私たちの言葉をかき消していく。冷たい波間に身を沈めて歩いてみせる。

「あなたはどこにいるのですか、もし私とふたたび出会えるならば、私をあの日に戻してくれるならば、私はきっとあなたを引き止めただろう」

 セルオートマトン宇宙には無限の道筋が広がっている。旅路はどこまでも続く。

 私は遠くの眺めを見ていて、遠くにおいて近くの眺めを見ていて、遠くにおいて近くの眺めを見ているという眺めを近くにおいて見続けている。私にとって「ここ」という場所があるなら遠くと近くが絡まり合った空間のことだ。私は歩き続けている。

 近づくために歩いたのか。

 遠ざかるために歩いたのか。

 それはわからない。

 この空間において私はここという誰にでも与えられている居場所を捨てざるを得なかった。私はずっと歩き続ける。遠くという場所も近くという場所もここにおいては何も設定されていない場所を、ただ歩く。

 かつて私に問いかけた人々は時の流れの果てに消え、私だけの存在だけがひとつの時間と空間として存在している。

 私はきっと待ち焦がれている。

 私はずっと待ち焦がれていた。

 ここから見えるすべては、遠くのものが大きく、近くのものが小さく、物理法則すら歪んだ空間の果てなのだ。私は実数的に考えるのを止めた。複素数的に考えるしかない。そうして今まで空間のパースペクティブに消えていったすべての記憶が私のまえに姿を現すのだ。私の持つ記憶がいったいどれだけの意味を持つのか。私は誰に問われることもなく、歩き続ける道すがらに想起される情報が網目を持つ。それはたとえば友情のお話だとか、恋愛のお話だとか、幸せなお話だとか、そういったものを遠ざける。

 ただ私は歩いている。

 あなたは言った。

「自然もまた記憶をするんだ。量子コンピューターという自然の物理法則を用いた計算機によって人類が知ったことだ」

「計算する宇宙がある」

「そうだ、その宇宙の箱庭は実宇宙と変わりがないとしたら、本当の宇宙という議論に意味はない」

「実宇宙はきっとある」

「ほんとうにそうかな?」

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