待合室の人

桐生甘太郎

待合室の人





あ、今日も居る。あの人。


私は、いつも第2火曜日に通っている病院で、同じ時間に同じ人を見掛けて、そう思った。


それは、仕事の疲れで罹ったうつ病だったけど、そういうものは長続きするのね。そろそろ2年になる。


元々、疲れを溜め込みやすかったというのは、最近になってやっと自覚出来た事。そういうのに気付くのも、大事らしい。ずいぶん長く掛かったみたいだけど。私の場合。



その日も、小さな駅前の心療内科は混んでいた。


駅ビルのエレベーターを最上階の3階まで上がると、奥へ続く通路へと分け行っていく。すると辺りは静かになり、なんだかむしろ、陰鬱な気分になってくるのだ。


心療内科の自動ドアは開け放してあり、中の患者の姿が見えないように、カーテンだけが入口に掛けられている。私は、8人程が席を占めている隅の方で、やっと座れた丸いパイプ椅子に休んでいた。


入れ替わり立ち代りに患者があり、その日を担当している、私の主治医と、もう一人の先生で、手早く患者をさばいているみたい。


受付のお姉さんは、清潔な服装をしているけど、受付奥の事務室だって、扉が開いたのを見れば分かるけど、とんでもなく狭くて、仕事は大変そう。あんなに狭い所に詰め込まれたら、それだけでお給料が欲しいと思っちゃう。



私はいつも、その心療内科で、会う人があった。それは白髪のお爺さんで、一番隅のパイプ椅子に座って、呼ばれるのを待っている。でも、その人は、いつも私の後に呼ばれるみたいだった。


もしかして、予約外で来てるのかなと思ってたけど、本当に具合が悪い患者さんで、長い相談が必要なのかも。そういう患者さんは、気の毒だけど、時間を取るためには、後に回すしかない。


私は何度も、そのお爺さんに、「今度は、午前の最後に来た方がいいですよ」と言いかけたけど、本当にそんな理由かは分からないし、心療内科に来る人が、突然見知らぬ人から声を掛けられても辛くないのかなんて、もう分かる。だから、どんなに長く待っていても、声を掛けられなかった。



その人は今日も居た。いつもと同じ服装で。それもちょっと変な話。でも、色々な人が居て当然だし、変な見方はしたくない。私は一度、にこりと微笑み掛けてもらった事もある。



それは、真冬の火曜日。その日は前日にやっぱり眠れなくて、病院に行くのはやっぱり辛いし、苦しくて、受付での手続きの時にも、やっと一言、平静を装って「はい」と言えただけだった。


そして振り返って、あらかじめ探しておいた席に着く前、そのお爺さんがやっぱり私の予約時間に来ていたから、お爺さんは、私を見ると、にこっと笑ってくれた。私も、笑い返せた、かな。上手く笑えたかは分からない。それほど、具合が悪かった。ごめんなさい。




今日もお爺さんは待っている。この医院は、自分の予約番号まで、あと何人なのかが分かる。順番に番号はやってくるから。私は今日は、18番。私の診察時刻は10時台だから、番号はいつも早い方。


お爺さんの番号、何番なのかな。早く診てもらえるといいのに。


どんな病気なのかな、とかは、考えた事は無い。病気はたくさんあるし、年嵩の人が罹りやすい病気とかには、私は詳しくないし。



私は、まだ28歳。とはいえ、もう28歳。そろそろ、婚期を逃したわね、なんて皮肉を言われても、苦笑いしか出来ない立場。女ばっかり、なんで言われなくちゃいけないのかしら、なんて悩んだりもしたけど、最近では、諦め半分吹っ切れ半分で、「知ったこっちゃないわよ。来ない相手に言って」と毒づいている。もちろん、心の中だけで。



でも、私の今の問題は、「来ない相手」なんて頼りない問題じゃない。来月から就職となるので、その前に薬をどうするのか、最終的な確認を、主治医の先生と相談しなきゃならない。


私の先生は女性の先生なんだけど、女医さんっていうのは、クレバーじゃないと生きていけない業界なのか、やっぱりちょっと、厳しい。「これは減らしましょう」と言って薬を減らす事になると、それはもう曲げられない。「先生、それはちょっと…」と覆そうと試みても、「ちょっと、出せません」と言われてしまう。


でも、もちろんお医者さんだし、的確なアドバイスはしてくれる。気持ちは辛いけど、割り切って助言された事を実行してみる度に、とても苦しいけど、楽になっていく自分が居た。初めは、「そんな事出来たら病院に行ってないわよ!」と言いたくなる事もあったけど。


あーあ。待合室で待ってると、辛いから、愚痴みたいな事しか思いつかないな。でも、今日の診察は頑張らなきゃ!紹介状も受け取らないと。引越ししてからの、仕事だし。


私はそこで、もう一度ため息を吐きたくなった。引越し。転職。転院。もう気が狂いそう!普通の人だって、引越しは大変なのに、病気を抱えて、手続きだの、買い物、ごみ捨てに、挨拶、また手続き、引越ししたら、新しい病院ですって!


でも、後ろは向きたくない。やっとここまで良くなれたんだもの。仕事をしても、大丈夫だと思えた。やっと、5年くらい前の自分に戻れた。


5年前は、元気だった。まだ、新卒入社からは1年。やっと慣れてきて、職場は嫌な事もあるけど、少しずつ、自分の役割が分かってきた辺り。


でも、その頃上司が変わって、それがとんでもなくキツイ人だった。周りの同僚だって音を上げて、辞めたいって言った人も、なんとか辞めさせられないかと言った人も居た。


私はその中で、仕事は仕事ときっちり思い込んだつもりが、やっぱり辛い気持ちはどこかにあったみたい。ある日から、会社に行く前に吐き気が襲うようになって、とうとう11月の始めに、ベッドから動けなくなってしまった。


どうして動けないの。会社に行かなくちゃ。


そう思って、思い続けても、体は動かなくて、涙ばかり出た。仕方なく会社に電話をしたら、理由を聞かれたから、私はもうなんの余裕もなくて、聞かれた事に素直に答えてしまった。


まるで子どもみたい。ベッドから起き上がれなくて、体が動かないんです。でも、その通りだったし、結果として、うつ病だった。


病院に行ったのは、母の勧めだった。母はそういう事には詳しくなかったけど、最近は、精神医学の事も、一般の人に情報が開かれて久しい。


それから、なんとか来院して、診断を受けたら、「生活の役に立てて下さい」と、自立支援医療制度を受給するように勧められて。重い病気の人は受給出来る、医療費負担を1割にしてもらえる制度。そんな物がある事も知らなくて、その頃実家に頼っている立場としては、有難かった。父母は、そろそろ年金生活が近かったし。


とにかく、今日は就職先での振る舞いを先生に相談しなきゃ!


「18番の方、1番へお入り下さーい」


「あ、はい」


私は呼ばれたので、通路奥にある1番診察室へ入った。



うう、やっぱり緊張する。今さらに、私の駄目なところを、つつかれたりしないかしら…。そんな心配は、杞憂だった。



「神内さん、大丈夫そうですか?」


先生は開口一番、そう言った。私は、久しぶりに担当医から素直に心配されて、ちょっとたじろぐ。


「え、どうしてですか?」


「だって、一大イベントじゃないですか。いえいえ、三大ですよ。転院、引越し、就職、だもの。本当に、転院だけでもずらさなくて、大丈夫ですか?やっぱり、少しずつやってくるのも、辛いかな?」


びっくりしちゃった。まさか、あの先生が、私をそんなに心配してくれていたなんて。


「ええ、大丈夫です。一気に出来ちゃったほうが、楽っていうか、あの、辛い時間は続かないし」


「それもそうですね。それで、大きな本題ですけど、何か就職にあたって、薬の事で、不安は?」


「あ、やっぱり、ちょっと頓服薬が欲しくて…うつの時の…」


「そうですか。あった方が気が楽だから出すけど、神内さん。それをね、会社に無理やり行くためには使わないで。分かってますよね?」


私は、少し前に先生に言い聞かされた事を思い出していた。「元気が出てくると無理を出来るから、どうしても頑張ろうとしちゃうけど、そんな事はもう、今後一切やめるつもりでね」と。


「はい。会社は、保健士さんともお話し合いをして、話は通してありますし。休みは、多分もらいやすいと思います」


そこで私は、「なるべくなら休みを多くもらうのはやめたいですけど」と言うのは、我慢した。それでまた心配を掛けてもいけないと思った。先生は目の前にあったPCをいじって、診察の内容を記入しようとしている。


「じゃあ、頓服のお薬を出して、その他の薬は今まで通りに。紹介状、今受け取りますか?」


「あ、はい。有難うございます。頂いておきます。お代は、受付で払うんですよね」


「ええ。では、神内さん。くれぐれも無理はするなと、私が言っていたのを、思い出して」


先生は、初めて会った時と同じ顔だった。私を見て、深刻な顔をして、様子を見定めようとしていた時と同じ。まるで、関係を白紙に戻そうとしているかのように感じた。


「有難うございました。ぼちぼちやっていきます。本当に、先生、お世話になりました。それでは、失礼します」


「はい。お大事に。」


診察室を出たら、私は緊張が解けて、そして、次の病院で上手くいかなかったら、という気持ちが、どっと襲ってきた。それはもう仕方がない。


ああ、手が震えてしまいそう。そんな時、待合室に戻った私に声を掛けてくれたのが、あのお爺さんだった。


私は、お爺さんの事はすっかり忘れ、これでこの病院から離れてしまうから、自分の様子を知る医師には、しばらく会えないと思って震えていた。


そこへ、椅子から立ち上がらずに、お爺さんが話し掛けてくる。お爺さんは、顔を上げて斜めに持ち上げていて、思わず私は、お爺さんに合わせて屈み込みたくなった。


「何か、ありましたか?お加減が良くないなら、お姉さんに行った方がねえ」


お爺さんはそう言って、受付のお姉さんの方へ、右手のひらを向ける。でも、受付のお姉さんは、こちらを見ていない。PCの入力作業をしてるみたいだった。私はお爺さんに向き直って、なるべく嘘はつかず、お爺さんもがっかりしない言葉を考えた。


「大丈夫ですよ。ちょっと、今日から転院なので、緊張しちゃって。お爺さん、今日も、まだなんですか?いつも後ですよね?」


私は、実はお爺さんと喋りたかったので、少し話し過ぎてしまった。それで、お爺さんが困ったりしないかなと思ったけど、お爺さんは優しく二度頷いて、またにこっと笑ってくれた。そしてこう言う。私は、通路を塞がないように、でもお爺さんにはあまり近寄らないように。相手も緊張しちゃうもの。


「そうですか。私も、今日で終わりなんです。もういいからってね。あなたのことも、見ていられて良かった。お若いのに、ご苦労でしょう。新しい土地でも、なんとか力を抜いてね」


「ええ、有難うございます。そう言って頂けると、本当に、有難いです…」


私はその日、とても緊張していたし、大きな出来事がこれからやってくる、確実に何かを奪われる事で、それでも得ると、必死に自分を立たせていた。だから、お爺さんの優しい言葉に、思わず涙が出そうになる。それで顔を隠そうとすると、お爺さんは「おやおや」と言った。そして、初めて私の前で立ち上がる。


「あっ、お爺さん、あ、あの…」


お爺さんは、受付に向かうでもなく、医院の出口へつつっと歩いて行って、私を振り返り、にこりと微笑む。


「大丈夫。大丈夫だよ」


そう言って、お爺さんは、出口を左へ曲がり、居なくなってしまった。


会計は済んだのかな?まさか、私を待ってたなんてわけ、ないよね?


「18番の方、おいでくださーい」


「あ、は、はい!」


私が気を取り直して、自分の会計を済ませようとすると、受付のお姉さんは、なぜかとびっきりの苦笑いでこちらを見た。それは、不躾というよりは、親しみを込めてといった感じ。私は、ちょっと面食らって、自分も同じような顔をしてみる。すると、お姉さんは突然に、こう言った。


「見えちゃってたね。私も見えるの。でも、話が出来たのは、あなただけかも。多分、もう来ないと思う」


え?どういう事?


「もう来ないって?何が見えてたんですか?」


話が見えない私がそう聞くと、お姉さんは驚いたようで、慌ててこちらを心配そうに覗き込んだ。


「あのお爺さん。言い方が悪いけど、こちらの人じゃないから。帰ったのが初めてだから、もうここには来ないと思う、って話です」


お姉さんはまた急に敬語になり、手続きが滞るのも困るのか、会計の明細書や、処方箋を手早く出した。それから、私が驚きの中で声が出せないまま、こう言って、会計は終わった。


「覚えてる必要も、忘れる必要もない。ただ、悪いものじゃなかった。でも、何かあったら困るから、気をつけて下さい。それでは、お大事に」


私は、一言も発せずに、その場を離れ、放心したように歩いた。




お爺さん、この世の人じゃなかったんだ。私を心配して、あそこに残ってくれてたのかな。そう思うと、帰り道の電車の中、周りに人が居るのに、二雫、涙を止められなかった。でもそれも、すぐに終わってしまった。受付のお姉さんの言葉を、真昼の光の中で思い出す。


覚えてる必要も、忘れる必要もない。多分、それはその通りなんだと思う。私とお爺さんは、出会ったとは言えないのかもしれない。言ってはいけないのかもしれない。でも、私は今日、心を一時救われた。


お礼も出来ないんだ。そう思うと、家に帰ってから、また涙が溢れた。帰宅して、ほっとしたのもあったと思う。


私は、お爺さんの好物も知らないし、名前も知らない。優しい人だった、としか覚えていられない。でも、特別優しい人だったんだと思う。



袖すりあうも他生の縁。もしそれが本当なら、お爺さんは私と何かの縁があったんだと思う。また今度会えたら、お礼が出来るかな。私はそう思って、ひとまずは、溜まっているお皿を洗い体を持ち上げた。その時、少しだけ自分の体が、いつもより軽かったような気がした。





おわり

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