境界線

福山典雅

境界線



 少しずつ色が強くなる。


 僕は迫りくる死の色彩を感じていた。


 ICU(集中治療室)での毎日、無機質に生命の行方を記録する多くの機械に囲まれている。もう見るのも飽き飽きした点滴と薬の管、随所に取り付けられた検知コード。


 お粗末で無味な敷居のカーテン越しに、同じく死に囚われた人々の寝息や呻き声が微かに聞こえて来る。僕の使用する人工呼吸器の作動音は大袈裟で、反対に心音のモニター音は頼りない。


 今は深夜、僕は身動きも出来ずに薄暗いぼんやりとした天井を眺めていた。


 これが僕の終わりの光景か。


 無意味な闇の中で想う事、


 逢いたい、家族に、君に。


 僕の中を占める多くの思い出が、木漏れ日の様に優しく蘇る。


 だけど、長すぎる苦しい夜を打ち破る事も出来ず、


 僕は終わるのか。


 重くのしかかかる病に促されるまま、ただ静かに瞳を閉じると、茫漠とした暗闇が揺らめいた。


 僕はふと夢を見た。


 いや、そうじゃない。


 これは多分夢じゃない。


 僕は確かに、そして間違いなくそう感じた。


 暖かに広がる想いを心に満たし思い出す。


 ここは僕の、家族の、家だ。


 何度も帰りたいと思っていた家族と住む家に僕は戻っていた。胸の一番深い部分がざわめいた。


 そうか、と僕は悟ったがそれでも構わない。


 僕は家に戻って来た。





 深夜の我が家は勿論誰も起きていない。


 僕は間接照明で照らされた廊下をそのまま音を立てずにゆっくりと進み、仕事で遅くに帰って来た時の習慣のままに、まずは子供部屋のドアを静かに開いた。


 そこには天使の様に無邪気に寝ている幼い我が子達の寝顔があった。


 泣きそうだった。いや、泣いた。


 愛しい小さな兄妹が、ベッドで一緒にぐっすり眠っている。下の子は寂しがり屋だからよくお兄ちゃんのベッドに潜り込む。お兄ちゃんは文句を言いながらも、いつも我慢していて可愛いものだ。


 僕は二人を起こさない様にふわりと乱れた布団をかけ直し、優しくその頭を撫でてあげた。言い様のない愛しさと、たまらない深い想いが湧きおこるが、僕はどうにか感情を飲み込み、滲む視界のままに眠る二人の顔をじっと見守った。



 そしてリビングに入ると、ソファでうたたねしている妻の姿があった。


 僕は彼女の隣にそっと座った。小さな寝息を規則正しくたて、手元には読みかけの小説が置かれていた。テーブルの上にはすっかり冷めてしまったコーヒーがあり僅かに香りが漂っている。


 様々な想いが胸を突いてくる。僕は一度深呼吸をしてそれらを打ち消した。今だけは忘れよう。彼女の隣でこうして過ごす最後の時間、僕は君への想いだけで胸を満たしていたい。


 不安や焦りや戸惑いを遠くへ、


 ただささやかな幸せを。


 この半年の間に僕は君に酷い苦労をかけてしまった。たくさんの辛い出来事や、思いもよらぬ覚悟や決断を迫らせ、そして表に出せない涙を人知れず多く流させてしまった。


 僕はすっかり疲れ切ってしまった君に、何もしてあげる事が出来なくなる。どうか許してほしい。もう僕にはこうして君の側にいられる時間がなくなってしまう。


 後、30分もすればきっと君のスマホに病院から連絡が入る。お願いだ、取り乱して悲しまないで欲しい。僕はね、君の側にいた。この最後の時に届かぬ想いを君に語っていた。この瞬間がどうか伝わればいいのに。


 深夜のリビングで僕は彼女の横顔を眺めながら、静かに想いを巡らせた。






 僕も君もたくさんの時間を共に過ごして来た。本当ならずっとこのまま穏やかに人生を重ねてゆきたかった。


 今でも朝起きた時にいつも思う。僕は毎日君の事を思い出し、恋をしている。おかしいよねって笑わないでくれ。僕は君をいつも感じている。


 すれ違う多くの人々の中から、偶然と言う運命に導かれるままに、僕は君に出逢えた。かけがえのない瞬間だった。


 今でも待ち合わせをして、君を街角で見ただけで僕は恋をする。君と少しお喋りしただけで好きになる。偶然、手が触れただけで僕は優しい気持ちになれる。


 君がこうして側にいるだけで、他に何も望まない。


 僕は最後のこのひと時を、とても、とても、大切に感じていた。


 


 人生にはね、


 辛い事や、乗り越えられない事や、


 酷く傷つく事だって、たくさん存在する。


 でも、僕はそんな時こそ、


 君と二人で生きてる事を感じていた。


 君と二人だから耐えられるって思っていた。


 君と二人だから苦笑いで忘れることだって出来ていた。


 君が僕をどれだけ救ったかわからない。


 君が僕をどれほど励まし、勇気づけたかわからない。


 君の無防備な寝顔を見つめながら、


 僕はこの世界の誰よりも幸せなんだって思えているんだ。




 覚えているかい、二人でキャンプに出かけて、パチパチ弾ける焚火を囲い、満天の星空の下で、僕はとても緊張して君にプロポーズした。


 鮮やかに煌めく天蓋いっぱいの星の光を取り込んだ輝く指輪を、僕は君の震える薬指にはめた。


 君は泣きじゃくって、僕はおろおろしたけど、幸せな夜だった。


 僕は決して忘れない。


 君が僕の胸に顔を埋め、君の暖かさを感じる度に、僕は愛を見つけていた。


 穏やかな銀色の月明かりが満ちた素敵な夜だった。


 僕はいつまでも変らず君に恋し続けると誓った。


 子供達が生まれ、家族と言う形を知り、僕はパパと呼ばれ、君はママと呼ばれ、とても幸福な日々だった。お弁当を作る君を手伝うふりをして、子供達とこっそりつまみ食いをするのも楽しかった。


 幸せだった。


 何もかもがささやかだけど、過不足なく僕の心を満たしていた。君と共に歩む人生が、まばゆい時間として存在していた。


 色褪せることのない君の笑顔を見つめ続けるのが僕の唯一の望み。







 ふと寝ている君の頬に涙が伝った。


「あなた……」


 穏やかだった君の表情が辛そうに歪み、唐突に涙が一筋と流れてゆく。


 君が苦しそうに流す涙を見るのは辛い。


 だけど、君を苦しめる現実は僕のせいだ。必死で止めていた苦い感情が、もうどうしょうもなく一気に心から溢れ出し、僕も気がつけば涙をこぼしていた。


 固く拳を握り締め、悲しみや怒りや寂寥がないまぜになった想いに溺れ、僕はただ泣きながら身体を震わせた。


 嫌なんだ。


 本当は君と離れたくない。


 いくら穏やかに別れを告げようと努力しても、この気持ちはやはり消せない。


 僕は今夜が最後の時間だなんて認めたくない。


 出来るわけがない、こんな運命を受け入れる事なんて、出来るわけがないんだ。


 大切な家族を、愛する君を残して先に逝ってしまうなんて。


 僕は、まだ君と、子供達と、人生を共に歩み続けていたい。


 毎日、僕は強く願っていた。


 どんな病も苦しみも困難も、奇跡を無理矢理にだって引き寄せて、


 僕は抗い、僕は戦い、僕は諦めず、なんとしてでも、君達の側にいるって。


 僕はまだまだずっとこの先も、君と子供達とたくさんの時間を過ごしていたい。


 してあげたい事がたくさんあるんだ。


 僕はまだ愛し続けたいんだ。


 こんな別れは嫌だ。



 ピ―――――――――ッ!



 突然の大きな電子音、僕の心電図の音が頭に響いた。


 やめてくれ、そう思った瞬間、唐突に君の瞳が見開かれた。


「あなた! あなた! あなた!」


 不意に何かを感じたのか、君が身体を起こして泣きじゃくりながら僕を呼び始めた。


 ひどく取り乱してソファからずり落ち、力無く床に這いつくばると、どうしょうもなく涙をこぼしながら必死で叫んでいる。


 僕はその姿を目の当たりにし、悔し涙を浮かべながら情けなさで気が狂いそうになった。こんな君を見ても何も出来ない無力な自分を、あらん限りの歯がゆさで呪った。


 床に手をつき取り乱す君の声がリビングに響き渡る。


 僕の命が終わってしまった。


 だけど、終わりだなんて認めない。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 思わず口から祈る様に言葉が漏れた。


「頼むから、やめてくれ……」


 神様がいるなら、お願いだ、僕の人生を終わらせないでくれ。


 だが、暗く重い絶望が、死と言う絶対の運命を振りかざし、僕と家族の絆を断とうとする。抗えど叶えられず、成す術もなく僕と言う存在が消えゆく感覚。あまりに苦しい、あまりに耐えがたい。


 僕はただ君と子供達を思い浮かべたまま、悔しくて、悔しくて、激しく嗚咽した。


「パパ! パパ! パパ!」


 突然、聞えるはずのない子供達の叫ぶ声も聞こえて来た。


 僕の胸が張裂けそうになった。


 幼い二人の叫び声が、魂を貫いて僕の心を揺さぶる。


 涙が溢れて止まらず、もう死を覆せないのに、僕は夢中でただ必至にもがいた。


 胸を叩き心臓を呼び覚まし、彼女の肩をすり抜ける手を、何度も、何度も、伸ばし、僕は必死でこの世に残ろうとした。


 だけど、何をしても、どうあがいても、僕が無くなろうとしていた。


 ピ―――――――――ッ!


「あなた! あなた! あなた!」


「パパ! パパ! パパ!」


 けたたましく鳴り響く電子音と共に、狂おし気な家族の叫び声が、かすれゆく僕の意識にこびりついて離れない。僕はあらん限りの声を上げた。


「嫌だ! 僕は―――――」


 刹那、暗闇が覆った。


 




 







「あなた!」

「パパ!」


 重たい瞼を開き、僕はゆっくりと目を開いた。目の前で必死な顔の家族が叫んでいた。妻と子供達だ。歓声があがり僕の胸が痛んだ、とても暖かく優しく痛んだ。


 僕は生きていた。


 ああ、こうして家族の顔を再び見る事が出来た。


 全身を襲う拭えない苦しみすらも、この瞬間は僕を支配する事は出来ない。


 僕の愛する家族だ。決して別れる事など出来るはずがない。


 僕の全てだ。



 その後、医師が手短に説明するには、ICUにて心肺停止後、AEDによる蘇生処置により僕は蘇り、一週間の昏睡の末に、面会を許された家族の呼びかけで意識を取り戻せたらしい。


 まだ泣きじゃくる妻と子供達の顔を見て、まだ何も語りかける事は出来ないけれど、強い想いを込めて視線を注いだ。


 僕はまだ生きてみせる。

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