萩ヅカ(下)


 晴れていたはずの空がやけに暗い。雨が降りそうだ。黒雲に包まれるようにしてみるみる天地が暗くなる。日蝕のような暗さだった。これは嵐になる。

「待ってくれ、乙彦くん」

 何処からか不穏な音がしている。どん、どぉん。急坂の山道を駈け下りて麓に辿り着いた少年はそこで脚を止めず、古びた着物の裾を素足で蹴り上げるようにして、どんどん海に向かっていた。彗太は乙彦を追い駈けた。走りには自信があったがまるで追いつけない。あちらは少年なのに、おそろしく脚が速い。

 切通しを抜けた。海が前面に広がる。

「その先は危ない」

 彗太は叫んだ。防波堤を超えたら海に落ちてしまう。湿った風が吹きつけてきた。


 何処の子だろう。


 村の人たちが彗太を見詰める。

 彗太くんだけ目鼻立ちがすうっとして、一人だけ違わねえか? 後から産まれた大和くんはご両親に似てるのに。

 強風が吹きつけてきた。風に飛ばされた海水が時雨のように顔を叩く。彗太は遠い沖が高く持ち上がるのを見た。

 海に落ちる寸前で乙彦に追いついた。彗太は乙彦の腕を掴み、「高潮が来る」と怒鳴った。水害避難の基本は垂直方向だ。村に戻るよりも、海の崖を登った方がいい。

「持っていたのは萩の花でねえだ」

 乙彦が何か云っている。岩崖に手をかけ、彗太は乙彦を連れて崖を這い上った。雨が降り出す。子どもの頃から遊びに来て登っていた崖だ。登れば助かるはずだが、到来してくる波は高波という規模ではなく、大津波にみえた。彗太はぞっとなった。

 

「おらは海神さまの嫁ことして選ばれた。だどもおらの居た洞穴は、山の中だった」


 第一波がさっきまで立っていた海沿いの道を洗う。水嵩を増した濁流が線路を呑み込む。

「海から遠すぎた。あれから何度も津波は来たが、待っても待っても、波はおらの居る処には届かなかったんだ」

 降り出した大雨が海面を叩き始めた。

 雷鳴がする。

 乙彦を連れた彗太は海崖の中ほどにある洞窟に跳び込むようにして避難した。波の下にあったものが、地震のたびに、何億年という時間をかけて隆起して地上に出てきた崖だ。この洞窟も昔はもう少し下の位置にあったという。

 水しぶきが飛んでくる。激しい雨が洞窟の内部に吹き込む。滝の内側にいるようだった。

「あの夜も、切通しを抜けて、おらは此処に来た」

 ずぶ濡れの乙彦が彗太の背後で何か云っていた。洞窟の中は暗くてよく見えない。雨の音が強くてよく聴こえない。

 波の高さはどのくらいだ。第二波は来るのか。

 水位を確かめようとした彗太の背に、後ろから乙彦が寄りかかってきた。少年のほそい腕が腰に回る。抱き着いてきた少年を彗太は振りほどこうとしたが、びくともしなかった。

「萩の君」

 乙彦はどうしたんだ。洞窟の暗がりで彗太は焦った。

「ちょっと離れてくれ、乙彦くん」

「萩の君はあの晩、おらも連れて行ってくれようとしていたのに、おらは怖くなって、おとうとおかあのことが気掛かりで、途中でこの手を振りほどいてしまった」

 何の話だ。いやそれよりも、此処もヤバいかもしれない。度重なる津波の被害を受けて明治の頃に村は高台に移転しているが、この勢いでは駅の向こうまで津波が到達しているだろう。

「あの夜、萩の君はおらに云った。必ず迎えに来ると。だからおらは待っていたんだ。雲が震えるのが合図だ。数日後に、大海嘯が起こる」

 迎えに行ってやらなければ。

「ようやく逢えた」


 似てないね、彗太くん。

 他所から拾われて来たんでないの。


 子どもの頃からそう云われ続けた。父母は出生証明書や産まれた直後の写真を彗太に見せて噂を否定してくれた。それでも、こんなことを云う者がいた。

 海の民が赤子を取り換えたのだろう。

 昔から、彗太は同じ夢をみた。

 その夢は、喩えるならば外国人が想像で描く浦島太郎の絵本のようだった。透明な青い色調の中に、どこか未来的な白亜の城が見えるのだ。

 頭が痛い。海の國。

「萩の君」

 崖を遡上してきた海水が洞窟の中に流れ込んで来た。水の重量が彗太を海中に押し出し、突き飛ばし、竜巻に吸い込まれる木ノ葉のように海中へと引きずっていく。

 傍らを乙彦が泳いでいた。夜明けの空を飛ぶように乙彦は彗太を連れて、荒れ狂う海に潜っていた。

「深い海流に乗らねえと、海の國へ戻ることは叶わねえんだ。だから陸に揚がった海の者たちは、大きな津波の到来を待つ。そんなおらたちのことを陸の者たちは『海神の嫁こ』と呼んでいた」

 激流を過ぎると、急に明るくなった。遠くに城が見えてきた。数え切れないほどの記憶が彗太の脳裏をさざ波となって満たし始めた。

 大和にあれを見せてやったら歓ぶだろうな。遊園地のお城なんかよりもずっと立派で天守閣が高い。

「弟はあそこだ、萩の君」

 彗太ははっとなった。



 深海は静かだった。光源もないのに仄明るく、雪が降っていた。微生物の死骸が有機物の粒子となって海中に沈降している。散華する萩の花にみえた。

 珊瑚の森を魚が泳ぐ。広がる海の野原には真珠を拾い集めている幼子がいる。

「兄ちゃんがいなくなると、弟は寂しいべ。だから、おらがあの子を此処に連れて来たんだ」

 乙彦から離れ、彗太は海底に降り立った。弟の名を呼んだ。城も橋も、かがやく白蝶貝で飾られていた。

「大和」

「ケイにいちゃん」

 大和はにこにこと、身体を左右に振って兄に駈け寄ってきた。

 彗太は大和を抱いた。涙は小さな水疱となって、雪と混じって海流にすぐに消えた。

 きれいだろ、ここ。

 竜宮城というよりは北欧神話だよな。いつまでもお前と遊んでいたかったよ。大和の名は生まれた時に兄ちゃんがつけたんだ。当時好きだった漫画の主人公。お前は、父さんと母さんの許に帰らないと。

「来年は、小学校に行くんだからな」

 彗太は云いきかせた。さよならだ、大和。びっくりしたろ。兄ちゃんが海の國の者だったなんて。でも全てを想い出したよ。

「兄ちゃんはこのお城が家なんだ。輪ゴムはリビングの抽斗に沢山入ってるから」

「ケイにいちゃんは一緒に行かないの」

「うん。大和、もう一度だけ兄ちゃんの名を呼んでくれ」

「ばいばい、ケイにいちゃん」

 ばいばい。

 清んだあぶくが海に漂った。海の國に雪が降り、光の柱の合間には、小さな紫いろの薄い貝殻が蝶のように舞っていた。



 秋の陽光を受けて、海沿いの単線は動き出した。

 通学電車に乗るたびに恭平は落ち着かない気持ちになる。誰かを誘い忘れたような気がするのだ。

 車窓の外を、海岸探索に向かう幼稚園児たちが過ぎる。縦列になっている園児の中に、おもちゃのブリキのバケツを手にした大和の姿を見つけた。

 小さな村では村中が家族のようなものだ。独りっ子の大和は恭平によく懐いて、恭平のことを「兄ちゃん」と呼ぶ。

 電車の窓から恭平は大和に手をふった。

 単線電車がゆるやかに海を過ぎる。

 磯辺では、大和がブリキのバケツに小さな蟹を入れていた。



 角格子の外で邑人たちが亡骸を見ている。

「くたばっちまったか」

「惜しいことをした」

「閉じ込めっぱなしはよくねえな。やっぱり時々は外に連れ出して陽にあてんといかんかったようだ」

「あんま長持ちせんかったな……」

 外で話している男衆の中には、多聞がそうであったように、ひと目を忍んで夜中にこっそりと洞穴を訪れていた者も混じっていた。数名で牢に押し入ってくる夜もあった。

「どうする」

「ほっとくべ。捨ておけば、いずれ朽ちてしまうさ」

「人の子ではねえしな」

 そそくさと山を降り、男衆たちは洞穴をそのままにしておいた。

 秋だった。萩の花が盛りだった。秋風に萩の花が舞った。

 長い年月のうちに洞穴を塞いでいた格子が腐り落ち、骨は獣に踏み荒らされた。細かくなった骨は枯葉に埋まり、雨や雪に流れ去り、頭蓋骨も土中に消えた。

 洞穴はただの洞穴に戻った。

 萩の花。たくさんの。

 うつらうつらと夢をみながら、洞穴の中で乙彦は待っていた。波が来る。

 いつか誰かが海に連れていってくれる。切通しを抜けて。

 そこには萩の君が待っている。おらの海の神。うつくしいひと。



[了]

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萩ヅカ 朝吹 @asabuki

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