萩ヅカ(中)


 夕飯は魚の煮つけだった。

「母さん、この辺に『おとひこ』という名の子、いるかな。甲乙の乙に、彦根の彦」

 食器を流しに運ぶついでに彗太は母に訊いてみた。

「大和が今日、公園で乙彦くんと一緒に遊んだって云うんだけど」

「さあ、知らないわ」

 過疎化がすすみ、園児は年少と年長を合わせても六人しかいない。母は村の子どもの名を全て憶えている。

 大和は床の上で射撃ゲームを組み立てていた。園児向けの雑誌の付録だ。この次に弟が求めるものが彗太には分かる。大量の輪ゴム。

 萩の花を飾った一輪挿しを手にして、母が訊いた。

「やっちゃん、この萩の花どうしたの」

「あの公園に萩は咲いてないだろ。まさか近くの家の庭から勝手に取って来たんじゃないだろうな、大和」

 大和は口を尖らせた。

「おとひこ君がくれた」

「そんな子、本当いたのか」

「やっちゃん、その工作は途中にして、お父さんと一緒に先にお風呂に入って来て」

 母は一輪挿しを棚の上においた。

 翌日、幼稚園から帰って来た大和は、「公園に行く」と云ったきり姿を消した。


 

 小さな海辺の村に報道記者がうろつき、パトカーと警察官が押し寄せた。

 町内放送が、もう憶えてしまった定型文をまた放送する。藤崎大和くん、年齢、通っている幼稚園、当日の服装。見かけたら連絡を。

「彗太」

 恭平が家に来た。彗太は庭先に出て行った。昔ながらの家は母屋と外門が遠い。

「お前は学校に行けよ」

「大和くんの捜索に参加すると云ったら、先生から欠席の許可が出たぞ」

 恭平は近くから彗太の顔を眺めた。

「大丈夫か、彗太」

 彗太は頷いた。二日間ほとんど寝てない父母よりはましだ。食事は近所の人たちが食べきれないほど折詰にして差し入れてくれる。

「考えたんだけど、萩塚はぎづかを探してみたらどうかな」

「萩塚か」

 萩塚は、裏山の頂上付近にある洞穴だ。

「山なら、もう警察と青年団が探したよ」

 しかし彗太と恭平は裏山に向かって歩き出していた。


 道の途中で、婦人会の人たちと出くわした。

「弟を探してくれてありがとうございます」彗太は頭をさげた。

「ええんよ、そんな……」

 水路をのぞいていた村のおばさんたちは嘆息して、「神隠しみたいで心配やね。はよう見つかるといいけど」と顔を曇らせ、また田畑の水路に散っていった。

 初秋の山は、強い日差しを残しながら空気が乾いている。日陰に入ると薄物一枚では寒いほどだった。

 細い山道を登るにつれて村の全景と線路の向こうの海が下界に見えてくる。

 村人はそこを『萩塚』と呼んでいるが、由来は誰も知らない。塚というわりには何もない。萩塚は、山の岩肌に口を開けた、ただの洞穴だ。

 萩塚に着いた頃には、二人は息を切らしていた。

「あれ」

 恭平が首をひねった。

「こんな柵あったっけ」

 黒い口を開けている洞穴の入り口は、腕が一本通るくらいの間隔で角材の格子が組まれ、内部に入れないようになっていた。見た目は座敷牢だ。

「落盤の危険性があるって前から云われてたじゃん。役場が設置したんじゃないの」

「こんな処には大和くん、いないよな」

 野生の萩の花をかき分けるようにして洞穴に近づき、念のために二人は格子戸に顔を近づけ、隙間から洞穴の中を覗いた。  

「うわっ」

 彗太と恭平はのけぞった。中に、子どもがいる。

 女の子。

 最初そう想ったのは、子どもの髪が長かったからだ。暗くてはっきりとは見えないが、洞穴の中に居るのは十二、三歳くらいの少年だった。古びた着物をきて、筵の上に正座をしている。

 少年は蒼白い顔をして、外の世界にいる二人を見詰めていた。

「君、どうしたの」

「名まえ云えるかな」

 何度か訊くと、想いがけず少年から返事が返って来た。おとひこ。

 彗太は叫んだ。

「いなくなる前日に、大和が『おとひこ君』と公園で遊んだと云っていた」

「じゃあ、この洞穴の中にやっくんも?」

「大和、中にいるなら返事しろ。兄ちゃんが来たぞ」

 彗太は格子を揺すった。しかし角材の格子は頑丈な上に、根元まで苔むしていて、昨日今日置かれたものではなさそうだった。


 少年はどうやってこの中に入ったのだ?


 恭平が斜めがけしていた鞄から端末を取り出した。

「警察だ、警察」

「役場じゃないか」

「まず警察に連絡だよ。あれ、通じない。彗太、彗太これ」

 恐慌状態の恭平が想い切り彗太の耳に端末の画面を押し付けてきた。

 最初は、周波数の合わないラジオの音に聴こえた。しばらくするとそれは別のものだと分かった。

 海の波音。

「何だこれ。どこにかけた」

「警察だよ」

 二人で慌てふためきながら電源を切ると、ようやく音は止まった。

 萩塚を振り返った彗太と恭平は立ち尽くした。洞穴は黒々とした空っぽの入り口を開けていた。そこに格子の柵はなく、少年の姿もなかった。



 轟々と引き潮が流れている。鉄砲水のように怖ろしい。白い腕が乙彦を護るように抱えている。萩の君だ。乙彦は萩の君の胸に顔を埋めた。

 おら、昔から同じ夢を見ていたんだ、萩の君。

 萩の君も、もしかしたら同じ夢を見ていねえか。

 水流がひとふりの萩の枝を押し流してきた。その枝を拾い上げた萩の君が、扇のように頭上に振りかざす。揺れる萩の枝葉から水飛沫が飛び散った。それは萩のこまかな花に変わって、大海嘯のひいた地に散り落ちていった。


「傷だらけだが、生きとる」


 乙彦は腐った匂いの中で目覚めた。魚や人の死骸が太陽に温められている臭いだった。

 邑の男衆が乙彦の周囲に集まっていた。半分眼を開けたまま、乙彦は彼らの話すことを聴いていた。

 水たまりに何かが落ちている。泥の上に倒れている乙彦の周囲に、小さな紫色がたくさん散っている。

 津波のひいた秋の大地を染めるほどに散らばっているのは花ではなく、萩の花に似た薄い貝殻だった。

 乙彦の四肢は担ぎ上げられ、何処かへと運ばれて行った。どうやら海から離れて、山を登っているようだ。

「海辺の洞窟は津波が来るとひとたまりもない。処を移すべ」

「柔くてすべっとしたこの膚。髪を伸ばせば十分に女だべ。こいつのことは昔から怪しんでおったんだ。海辺から独り生き残ったとは、やはりな」

 彼らの話していることが乙彦には分からなかった。分からないなりに、荒縄をかけられていた萩の君の姿が頭をよぎった。


 厭だ。

 いやだ、萩の君のようになるのは。


「おらぁ厭だ」

 暴れる乙彦を担ぎ上げて、邑人は険しい山道を登った。

「海神さまの嫁こは、大切にするだ」

「何も怖ろしいことはねえ。人柱のような生き埋めでもねえし、邑でお預かりするだけだ」

 手足をばたつかせて、乙彦は騒いだ。

「おとう、おかあ」

「おとうもおかあも、邑の者の多くが、津波で死んじまったよ」

「多聞のやつは掟を破って、萩の君を独り占めにしていたが、今度からは嫁この当番は持ち回りにすんべ」

 乙彦の四肢を掴んでいる男衆たちが欲情の笑いを洩らした。



 萩塚で見たもの、あれは何だったのか。

「きっと何かを見間違えたか、見落としたんだよ」

 怪奇現象でなければそういうことだろう。放心状態で一度家に戻った後、彗太はもう一度、萩塚に行こうと決意するだけの気力を取り戻していた。

「怖いけど、俺も行く」

 恭平まで奮い立ってくれたが、恭平には家に残って、連絡係と父母の付添いを頼んだ。大和はまだ見つからない。


 大和の行方は、萩塚にいた、あの少年に関係がある。


 乙彦くんと公園で遊んでいた。大和はそう云ったのだ。あの洞穴から少年は出入りが出来るのだ。頑丈な格子も、ちゃんと閂があった気がしてきた。それを確かめるだけでいい。

 裏山を登った彗太は、ふたたび萩塚に辿り着いた。

 午後の日差しが、洞穴の入り口を斜めに照らしつけている。

 中に蝙蝠くらいはいるのかもしれないが、想い切って彗太は洞穴の中に踏み込んだ。大和の名を呼んだが、応えはない。

 座敷牢のようなあの重そうな格子は簡単に動かせるようなものではなかった。地面を調べたが、人が居たような痕跡はまったく見当たらない。

 山鳥が飛び立った。視野が歪んだ気がした。麓から、大勢の人間が萩塚を目指して登ってくる気配がした。

 

 洞穴の前にいる彗太の姿に邑人たちが愕いた顔をしたが、彗太の方も愕いた。なんだこいつら。時代劇の百姓みたいな恰好をして。

 彗太が我に返ったのは、男たちが担ぎ上げているのが、先刻洞穴の中にいた少年だと分かったからだ。

「乙彦くん」

 名を呼んだ。乙彦が首をねじって大和を見た。その口が開いた。救けを求める眼をしている。

 これは。

 誘拐だ。

 身体が無意識に動いていた。体育の授業で習ったラグビーの要領で彗太は一番近くにいた邑人に体当たりを喰らわせた。邑人の手が離れ、乙彦が下に落ちる。

 闘争本能が急激に首をもたげてきた。状況はまったく分からないが、こいつらがきっと少年を牢に入れたのだ。弟の大和を攫ったのもこの男たちかもしれない。

 サッカーで鍛えた彗太の脚で腹を蹴られた邑人が膝をつく。彗太は乙彦の腕を掴んで背後にまわし、その肩を押した。

「山を降りれば村に警官がいる。走れ」

 自らも後退しながら、男たちに向かって彗太は吼えた。

「お前ら全員、略取誘拐と児童虐待容疑で警察に捕まれ、ボケ!」

 彗太は乙彦の後を追って山道を駈け下った。

 


》(後)

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