萩ヅカ

朝吹

萩ヅカ(上)

 

 その若人は海に面した洞窟に閉じ込められていた。

 天気の良い日にはごく稀に、洞窟の外に出されてくる。着物を頼りなくまとい、草鞋わらじをはき、両手首を荒縄で結わえられて、犬でも曳くようにして邑人が里山を連れ歩く。

 生まれつきなのか、永い間洞窟に押し込められているせいなのか、若人は小さな歩幅でしか歩けない。

「萩の君だ」

 邑の子どもたちは萩の君と呼ばれる若人が洞窟から外に出されてくる度に、珍しい鳥でも見るようにして、ぞろぞろと附いて歩いた。萩の君の歩き方がひ弱いと云って、笑い声を上げた。

「髪も長くて、女人みてえだ」

 乙彦おとひこはもう子どもではなかったが、気がつけば、萩の君の跡をいつも附いて回っていた。

 幽閉されているせいで萩の君の膚は抜けるように白い。草鞋の中で泳いでいる足指の爪の先まで、霙で磨かれたかのように血の気がなかった。

 萩の君が里に来ると、邑の女衆は厭わしそうに顔を背けた。どんな若い女よりも萩の君の方がうつくしい。

 虜囚の荒縄を曳くのは多聞たもんという身丈の大きな乱暴者だった。

「陽気がええで、風にあててやってるんだ」

 くびきを架けた優美な若駒を見せびらかすようにして、多聞は自慢げに萩の君を連れ廻した。

 田畑を耕している男衆は、土手の上に多聞と若人が現れるなり、鍬や鋤を持つ手をとめた。男たちは赤黒く日焼けしたその顔に、つきたての餅の匂いを嗅ぐような、ひくついたものを浮かべて萩の君を見送った。

 里を一周すると、また萩の君は海に通じる切通しの緩い坂を下り、多聞に連れられて海崖の洞窟に姿を隠してしまう。

 海に向かって幻のように去ってゆく萩の君の後ろ姿は、乳房と尻を揺らす女とはやはり違っていた。


 月が眩しいほどに白い夜には、萩の君のことばかりを乙彦は想った。

「おとう」

 乙彦は隣りで寝ている父に訊いてみた。

「萩の君は、なんで洞窟に閉じ込められているんだ」

 乙彦の問いかけに、父は眠そうに応えた。

「あれか。あれは海神さまの嫁こだ」

「嫁こ。萩の君は男だろうが」

「なんでもええが」

 それ以上のことを乙彦が訊く前に、父は寝入ってしまった。

 邑人の中には、乙彦のことをじろりと眺めて、萩の君と似てるな、と云う者もいた。

 時折、乱暴者の多聞が、乙彦が見ていることを知りながら萩の君を引き寄せて、萩の君の腰をさすることがある。

 裾からのぞく萩の君の膝裏には、萩の花びらが貼りついていた。


 寝ようとして、うとうとするうち、やがて多聞の毛深く太い手は乙彦の手に代わり、気がつけば乙彦が萩の君の四肢をさすっていた。萩の君の首が傾き、黒髪の合間に垣間見える唇がひらかれて、やがて岩盤から滴り落ちる水滴に合わせるような、ひそやかな声が洩れはじめる。萩の君の上に覆いかぶさる多聞の猛った動きを、乙彦の瞼の裏が醜く映し出す。


 洞窟に幽閉されている若人。


「萩の君はな、海の國のお人じゃ」

 父の語らぬことを、邑の老人が乙彦に教えてくれた。

「浜に打ち上げられたのよ。海に戻そうとしても一度陸に揚がった者はよう戻らん。多聞が抱え上げて海崖の洞窟に連れて行き、それからずっとあいつが世話をしとる」

「おとうは、『海神の嫁こ』だと」

「昔からそう呼ぶんだ」

 では、嫁といっても本当の海神の嫁というわけではないのだ。考え込んでいる乙彦に、老人は告げた。

 海の國の人なのに『萩の君』と呼ぶのがふしぎじゃろう。浜で見つかった時に、萩の花を手に持っていたからじゃ。

 


 どん、どぉん。

 太鼓のような音が沖合から鳴っていた。天地が逆さまになって海から雷が空に昇っているような音だった。

 父が井戸を覗きに行った。

「水に変わりなし。大丈夫だべさ」

「そんならええが」

 邑人は安心したが、乙彦は不安が拭えなかった。ひりつく何かが邑全体を覆っている。

 乙彦は寝静まった家人をおいて、邑を抜け出すと、月明かりを頼りに切通しを抜けて海崖の洞窟へと向かった。

 洞窟に辿り着いた乙彦は、角材が格子状に嵌った洞窟の牢の前でその名を呼んだ。萩の君。

「萩の君、来てくれろ」

 洞窟の中に乙彦の声が響く。

「萩の君」

 やがて、奥の暗がりから萩の君が現れた。幽霊のようだった。乙彦は息を呑んだ。

 種火から火を取り、貝殻に入れた油に紙縒りを立てたものを萩の君は星のように手にしていた。女のようだと想っていたが、長い黒髪に縁どられたその顔は、やはり若い男のものだった。

「あんの、おらさ……」

 乙彦の言葉は途切れた。心臓の音が脳天にまで回って脈打っているのが分かる。どん、どぉん。

「あの、おら」

 急に不安に駆られた乙彦が夜の海を振り返った。獄の格子にかけていた乙彦の手に冷たいものが重なった。萩の君がすぐ近くにいて、牢の中から乙彦の手に手を重ねて、乙彦を見ていた。


 どぉん。


 沖から潮が立ち上がる。乙彦は立っている大地が割れたように想った。

 邑の田んぼの真ん中に鎮守している大岩は、大昔の大海嘯がはこんで来たものだと老人が云っていたことを想い出した。

 乙彦は逃げようとした。乙彦の手を格子の隙間から伸びてきた萩の君の細い腕が凄い力で掴んだ。

 どぶん。

 背丈の何倍もの海が真上から乙彦に被さってきた。暗黒の渦巻に巻き取られていく直前に、乙彦は、崖の合間の切通しから猪のように洞窟に向かって走って来る多聞の姿を見た。

 波の勢いで乙彦は吹き飛んだ。外れた獄の門から人魚のように萩の君は外に出てきた。荒れ狂う水の中を泳ぎ、乙彦を抱えて鮎のように萩の君は漆黒の海をすべった。襲来する波の壁は嵩を増して、陸にぶち当たる音は鼓膜を割った。

 萩の君は、多聞が藻搔きながら水地獄の中に堕ちてゆくのを嗤いながら見ていた。

 翼もないのに乙彦を連れて萩の君は夜の海を飛んでいた。

 乙彦が最後に見たものは、深い海の底で陽の光を浴びている白い城の影だった。



 間延びした鐘の音がして、校内放送が授業の終わりを告げた。

 鞄を持って廊下に出た藤崎彗太けいたのもとに、幼馴染の恭平が寄ってきた。

「彗太、帰ろうぜ」

 恭平とは幼稚園から高校までずっと一緒だ。

「ああ、どうして俺は男子校にしたんだろう」

 全国の男子校の生徒が口にするのと同じ嘆きを吐き出して、恭平は水着姿のアイドルの画像を彗太に見せてきた。

「お似合い」

 画面を彗太の顔の横に並べた恭平が悔しそうに感想を口にする。邪魔くさくなって彗太は恭平を押しやった。

 モデルさんのようやね。

 何処に行ってもそう云われるのだ。彗太は聴き飽きていた。

 彗太と恭平は、単線の電車に乗り込んだ。

 秋の日差しが車内を眩しいほどに照らしている。沿線は視界の片側に耀く海を抱えて低速で走った。


 無人駅で恭平と左右に別れ、彗太は、緩い坂道を家に向かって歩いた。海と村との間には崖が二つに裂けたような切通しがある。昔から、海神さまが通る道だと伝えられていた。

 よくある海辺の片田舎。名所旧跡も何もない。半世紀前のままで時を止めており、さすがに藁ぶき屋根こそ消えたが、郷愁を誘う村としてツーリングの雑誌に時々紹介される。

 家の近くのがらんとした小さな公園に、弟が独りで遊んでいた。

 弟の大和やまととは年が十歳以上も離れている。彗太にとって大和は弟というよりは、家にいる幼児という感じだった。

 そのせいだろうか。いつも彗太は奇妙なほど強くこう想うのだ。


 迎えに行ってやらなければ。


「大和。幼稚園は終わったのか」

「ケイにいちゃん」

 兄の姿を認めた大和が身体を左右に振るような幼児特有の走り方で彗太に抱きついてきた。

「おとひこ君と遊んでいたんだよ」

 公園の砂場に残された文字の跡を大和は彗太にみせた。

「こんな字を書くの」

 乙彦。

 何処の子だろう。はじめて聴く名だった。

 見廻したが、公園にはやはり弟の他には誰もいない。

 大和が手にしているおもちゃのブリキのバケツの中には、ひとふりの萩の花が入っていた。



》(中)

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