胡碧のひと

錦戸彩

第1話

日本に来れば、フランス人になれる。私は、そう信じていた。顔を知られることのない国で、わたしはフランス人になれる。

白い顔、金の髪、私は、たぶんフランス人だと、確実に自信を持てる。

もちろん、自分の血に、誇りがないわけではない。私の名前は、エレーナ、エレーナ・シュシャン。

名前だけ見ると、生粋のフランス人のようで、わたしは、自分を偽るような気持ちになる。罪の意識に苛まれ、複雑な気持ちになってしまう。

私は、イラン人の移民を母を持ち、フランス人の父を持つ、

混血のフランス人、エレーナ。

エレーナとは、「太陽の神」という意味の名前だ。

古代ギリシャ語のHelieという言葉が、ラテン語化したものだ。

つまり、ラテン語する過程で、Hが落ちて、「Elena」エレナとなる。

古代ラテン語では「Hele~」ヘレ、という接頭語は、輝き・太陽の生命力・松明の意味がある。

父は、この「太陽の光」に、わたしを見たのだという。

それは、旧約聖書の創世記一・三「神は言われた。光あれ」という御言葉を見て、

光を思い描き、私がこの世の光となるように、と名付けたのだという。

わたしが光に?嬉しくも、悲しい。

父は、フランスの大学で、鉱物資源について教えている。

鉱物資源とは、地下に眠っている人々に有益な鉱物資源のことだ。

再利用が叫ばれているので、父は忙しい。

父と母の恋物語はふたりの大学時代に遡る。父と母とは、父の通う大学で出会ったのだという。母は移民で、貧しかったので、大学生活をしながら、父の大学の学食でアルバイトをしていた。父は拙いフランス語を話す母に恋をしてしまったのだという。

最初は、ぎこちない、メルシーボクの挨拶から。次第に自分のことや、大学の授業について話すようになり、ついに結婚にまで至ったという。ここだけのはなし若い頃の母は、それはエキゾチックでフランス人から見ても美しい顔を持っていたらしい。

そして何より、女性としての奥ゆかしさが、父を惹き付けたのだ。

フランス人のわたしが、日本に来たのには理由(わけ)がある。

大学卒業後、日本の福井県、鯖江市の国際交流委員となったのは、

鯖江市の高等専門学校に留学したことが大きかったと思う。

また、高校生の時に弟のアシルと始めた弓道の影響でもある。

アシルとは、わたしの双子の弟だ。アシルはわたしに似ている。

二卵性でありながら、顔も容貌(かたち)も手や肢の形まで似ている。

わたしたちは惹かれ合いながら、反発し合い、時に喧嘩しながらも、

仲直りして、ここまで来た。アシルが射る。わたしが外す。

わたしが射る。アシルが外す。わたしたちは微笑み合いながら競ってきた。

何故、わたしとアシルが、アーチェリーではなく、弓道に惹かれたかというと、

的を射ることが目的ではなく、的を射るまでの姿勢、目線、佇まいなど、

「在り方」が指標になっているからだ。その点が素晴らしいと思っている。

弓道では、的を射ることが出来たとしても、その佇まいが美しくなければ、合格とは認められない。

吐く息、吸う息、その呼吸、動作、一つ一つが均衡を保もち、安定し、

バランスを取っていなければならないとうのが私を正す。わたしを惹きつけて離さない。

私は、この精神性を鍛えられる弓道に、アシルと夢中で打ち込んでいた。

そして、この佇まいを鍛える方法として、日本の「禅」と出会ったのだ。

私は、日本に行ったら、座禅を体験してみたいと、密かに思っていた。

わたしは、鯖江に向かい、空港から、電車を降りると、鯖江の国際交流委員の建物で、

座禅を組みたいと相談した。すると、すぐにボランティアの女性が座禅の体験先を紹介してくれた。

国際交流委員とは、鯖江市の国際交流協会に属する。協会は一九九三年に始まった。

人との繋がりを重視した、ボランティアによる市民主導団体だ。

ボランティアの女性が紹介してくれた、座禅体験のでき場所は、

萬慶寺というお寺で、曹洞宗の大本山永平寺の直末寺、鯖江藩主、間部氏の菩提寺だということだ。

享保六年(一七二一年に幕府が福井藩預所と直轄領の鯖江藩への村替えをお命じになり、

間部詮言が越後国・村上から鯖江市に土地を移され、その折に随行した陽光和尚が、

萬慶寺の元となる万松庵を興された。その後、三代目藩主・間部詮方によって今の寺名、

萬慶寺に改められた。

現在残る山門は江戸時代後期、一八四九年に建造されたもので、鯖江市では数少ない二階建ての楼門形式だ。

その山門を抜けると本堂の前と本堂横に二つの枯山水庭園がある。石組と砂の構成で、

本堂や山門や西の山々の借景と組合せて見ると、とても雰囲気のある庭園で、

この時は枝垂れざくらが、まだつぼみだった。

七代目藩主の間部詮勝という人の書いた天井絵が有名で、

天井絵には、「風神」「龍神」「雷神」があり、指定文化財にも登録されている。

私が鯖江の国際交流委員になったもう一つの理由は、弟のアシルから逃げるためだった。

私たちは、兄、姉、私、弟の四人兄妹だったが、弟は特別な存在だ。

父の兄である医者の伯父には、子供がなく、母に四人目の子供が出来た時点で、

伯父と弟との養子縁組の話が決まっていた。弟は、自分が、本当は母の子なのだとは知らない。

年も近く、いとことして育った私たちは、真実の姉弟でありながら、「恋愛」に近しい感情を持っていた。

特に弟は、情熱的に、私を求める気持ちを抑えるのに、必死なようだった。

的を射る時、考えるのはアシルのことだ。その時わたしの胸は高鳴り、同時にそれを抑える。

その時だけはわたしだ。その一瞬だけは、わたしだ。その時だけはわたしがわたしでいられる。

大学を卒業したところで、わたしはアシルとこれ以上お互いに一緒に居るべきではないと悟った。

私は、彼から離れることを選択した。混血であることへの侮辱、クラスの女子からの嫌がらせやいじめなども、煩わしかった。

私はフランス人でありながら、フランス人にはなれない。半分ずつの血が愛しいように、弟のことが愛しかった。

自分の分身のような弟。しかし、日本に行けば、私はフランス人になれる。弟にキスされた、その日、私は日本へ行くことを決めた。

ボランティアの女性と話し、萬慶寺での座禅体験は、一週間後と決まった。

しかし、私は、気持ちが逸るのを抑えられなかった。座禅が組める。

精神を集中し、アシルへの想いも、自分が混血であることも、その弟への恋心も、すべて忘れて、無心になれる。

萬慶寺への行き方を教えてもらうと、わたしは、地図もプリントアウトしてもらった。

国際交流協会から、萬慶寺までは、福井鉄道福武線で、西山公園駅から西鯖江駅まで三分、そして西鯖江の駅から徒歩十分だ。

立派な門構えが見えてきた。山門だ。雲行きが怪しくなり、ザーっと雨が降ってきたので、

私は雨を避けるように、屋根のある境内に座った。枝垂れ桜が雨粒を含んで、ぽつぽつと雨だれを垂れている。すると、

「もしかして、エレーナさんですか」

朗々とした声で、はっきりと、私の眼を見据えながら、若いお坊様が声を掛けてきた。

「はい、私、エレーナです」

吃驚して立ち上がると、堪能なはずの日本語が、つい、片言になった。ドキドキとこめかみが脈打つ。非道く暑い。お坊様はさらに言う。

「もしよければ、座禅、組んでいきませんか?」

香水ではない、焚き染めた香の香りが、わたしの鼻を掠めた。

「これ以上、近づかないで!」

わたしは、心の中で、そう叫んだ。黒髪の日本人のお坊様は、背筋が伸び、清廉としていて、フランス人にはいないタイプだ。

その魅力に屈することにし、エレーナは観念した。

「…はい、組んでいきます」

「では、靴を脱いで上がってください」

お坊様の声は、なおも朗々と響く。扉を開けると、畳と木の芳しい香りがした。

「今は、会社の社員研修や夏休みに子供たちの座禅体験を行うのみになってしまいましたから、

エレーナさんのような熱心な座禅体験者がいると、私も嬉しいです」

お坊様は端正な顔つきで、にっこりと微笑むと、少しだけ頬を紅潮させた。

「私は、この寺の住職の息子で、英寿といいます」

「わたし、エレーナです」

自己紹介に、わたしは、もう一度、片言の日本語になる。

わたしは急に、座禅を組めることになり、足はふわふわとし、こめかみは、脈打った。

英寿さんは、本堂に案内すると、すっと、座って言った。胡坐を掻くと、

「座り方は、結跏趺坐(けっかふざ)といって、両足を組むやり方もあるのですが、

難しければ、半跏趺坐(はんかふざ)という片足を組むやり方でも、いいですよ」

と言った。

エレーナは、すでに本で読んで座禅の組み方を知っていた。片足を組み、座敷の上に座ると、気が引き締まる思いがした。

「半跏趺坐をしっておられるんですね」

英寿さんは、嬉しそうに、声を弾ませた。

「はい…」

エレーナは、赤くなると、目は、半眼といって、見開かず細めず、自然に開き、視線はおよそ一メートルほど先を見た。

視線の角度は約四五度に落とす。雨が落ちている。しっとりとした空気と、暖かな共感だけが伝わってくる。

しんと静まり、雨の音、鳥の囀りだけが聞こえる。

すると、みし、と人の気配がして、

「エレーナ」

親しんだフランス語の発音、聞き慣れた声が聞こえる。振り向くと、そこに、弟のアシルが立っていた。ずぶ濡れだった。

「アシル」

エレーナもフランス語で発音する。

「何故、ここにいるの?」

戸惑いを隠せない。

「エレーナ」

こく、と、アシルは唾の固まりを飲み込むと、

「エレーナに会いたくて、来たんだ」

と、みし、と畳を踏み、みしみしと近づくと、エレーナを抱きしめた。彼が土足で部屋に入ってきたので、

エレーナは、自分が踏みつけられたような気分になり、慌てて

「靴は脱いで!」

抱きしめられていることも忘れて、エレーナは畳の自分を思い、悲しくなった。

「アシル、ずっと隠して来たけど…」

アシルを身体からぐいと引き離し、エレーナは見上げて、睨みつけた。そして息を吸って、一息にこう言った。

「あなたと私は姉弟よ」

アシルが視線を落とすのがわかった。

「あなたは、伯父さんの養子に入った私の本当の弟なの。だから、あなたを愛してるけど、あなたの気持ちには応えられない」

エレーナは、一度ゆっくりと瞬きしてから、アシルをじっと凝視めた。

アシルは、喉に詰まった固まりを、もう一度ゴクリと飲み込むと、呟くように、

「知ってた」

と、ぎこちなくいうと、力なく微笑んだ。

赤くなった瞳をエレーナから背けると、朝もやのように、抜け殻のようになった躯を、

ふらふらと揺らしながら、その場を立ち去った。

エレーナは、アシルの黒い足跡を見ると、涙が溢れてきた。

久しぶりに愛するフランス語を話した後だった。ここまで来たのだ。

わたしを追って。フランスから日本まで。恋しいフランス、恋しい弟を思うと、

涙は止どまることなく、ぽつぽつと畳に音を立てた。

そして、エレーナは、アシルの姉として生まれた自分を呪った。ただ悔しかった。

英寿もザーザーと降る雨音だけを聞きながら、アシルの黒い足跡を見つめ、きつく口を結ぶと、ただ黙っている。

エレーナはぎゅっっと目をつぶり、噛み締めた唇から、絞り出すように日本語を話した。

「何故、」

涙がまた零れた。

「日陰に咲く花と日向に咲く花があるのでしょう…」

ぽつ、ぽつ、と雨だれが落ちる。

「とても…とても不公平、です」

涙が流れた。英寿さんは、目を伏せながら静かにこう言った。

「…それも、巡り合わせというものです。太陽は、すべての存在に公平です。時間が変われば、日陰の花にも陽が当たります」

英寿さんの瞳も、アシルの目のように赤くなっていく。

「人間にも、陽が当たる時と、そうでない時があります。それは、とても公平なことです」

じんわりと滲む涙を堪えながら、英寿さんは、雑巾を取りに流しへ行った。

エレーナはたまらずに、自分の中のかたまりを一気に吐き出した。

「何かをしなければと思うのですが、何をしていいかわからないのです」

すると、英寿さんは、雑巾でアシルの足跡を丁寧にこすりながら、こう言った。

「何もせず、ただ座り、春が来て、草は伸びる、と言います」

「何もせず、ただ座り、春が来て、草は伸びる…」

英寿さんは、雑巾を裏返し、繰り返し、アシルの足跡をきれいに拭いている。

「何をしていいかわからないのであれば、ただ人生に身を任せてみるのがいいと思います。

将来のことを難しく考えず、「何か」がやって来るのに任せるのです。ただ季節は行き過ぎ、

雲は流れていきます。無理に何かを起こそうとしてはいけません」

エレーナは焦っていた。何かしなければ。早くアシルを置いていかなければと。

そうでなければ、わたしは、このままだめになる。私は私でいられなくなる。

英寿は、雑巾でアシルの足跡をすっかり元に戻すと、

「今日は、これから、精進カレーを作るんですよ。もし、良ければ、食べていきませんか?」

と気を取り直したように尋ねた。

「…はい」

黒鳶色の縁をした碧い目は、まだ沈んでいたが、少し元気を取り戻し、きらきらとした。エレーナにすこしだけ笑顔が戻った。

英寿は、そんな異国人を眺めながら、この人も自分と同じ人間だと感じていた。楽しい時は笑い、悲しい時は泣く。

理不尽なら、怒りもするし、悔しければ、くちびるを嚙む。

同じ人間だと思うと、この異国人を、このまま帰してはいけないと思った。

英寿は萬慶寺の跡取りだ。小さい頃からこの寺で遊び、この寺を継ぐために、生まれてきたと自負している。

しかし、自分に厳しく接するうちに、人を愛せなくなっていた。

人は好きだ。優しくもしたい。しかし、こと禅の道や、仏道に関することになると、

人が変わったように、自分にも人にも厳しくしてしまう。

しかし、この異国人に、自分は禅の道を、優しく諭している。

英寿は精進カレーを食べていかないかと聞きながらそんな意外な自分の一面に驚いていた。

英寿は、この異国人が、姉弟でありながら愛し合っていることを、ただ、雰囲気を見ただけで悟った。

言葉はわからなかったが、二人が愛し合っていること、しかし、それは、許されないことを、静かに傍観していた。

しかし、その巡り合わせと、天の無情さに、胸が痛んだ。愛し合っているものが離れることを愛別離苦という。

愛し合う幸せと、離れる苦痛。英寿はそれを思うと、自分が幼馴染の小春と別れたことを、今更ながらにふつふつと思い出していた。

小春は幼馴染だ。五歳上の姉のような存在で、英寿は幼心に、いずれは小春をお嫁さんにするのだと、決めていた。

しかし、小春には同じ年の恋人ができてしまったのだ。小春が大学四年生、英寿が高校三年生の時だった。

英寿もまたエレーナのように、高校生という自分を呪った。

子供の自分が恥ずかしかった。それからは、恋もせずに、仏門に帰依してきた。

跡取りのことは、頃合いをみて、見合いでもして、形だけの結婚をすればいいと思っていた。

なぜなら、英寿の心には、小春が住んでいた。ずっと小春が住んでいた。

春も夏も秋も冬も、共に過ごした幼い記憶だけが支配していて、英寿を苦しめた。

しかし、その柔らかな記憶だけは、誰にも邪魔されない、英寿だけの特別な暖かな日差しだった。

英寿は、雨に濡れる枝垂れた桜を見た。満開だったころに、小春と、桜餅を一緒に食べた記憶があった。

小春は、美人というわけではなかったが、一緒にいると、ほっとした。

姉とは思わなかったが、自分が守らなければならないと感じ、英寿は世話を焼いて、大人ぶっていた。

そんな幼い自分を雨に濡れるつぼみのさくらを見ながら、甘酸っぱくも苦い気持ちで、視線を外した。

瞼を閉じれば、幼い自分が、まだ小春を守っていた、嫁に行った小春を想っていた。

エレーナが、じっとこちらを見つめていることに気づき、英寿は、はっとした。

「すみません、精進カレーを作りますね」

「弟がすみません」

「弟さんでしたか」

「はい、わたしを心配して、日本まで来たようです」

「そうですか…」

「あの、カレー、お手伝いします」

「ああ、はい…」

何気ないやり取りをしながら、二人は一緒に台所に行った。精進カレーの材料は、すでに笊(ざる)に盛られている。

里芋、人参、蓮根、かぶ、トマト、春菊、車麩、しょうが、唐辛子、ゆず、それに、

赤味噌と塩、白練りゴマ、ココナッツミルク、カレー粉が、きちんと並べられて、常温に戻されている。

「印度やスリランカで生まれ、今や世界の国々で広く愛されているカレーは、風土や文化に柔軟に変化しながら現代に伝わっています」

エレーナに、英寿は熱っぽく話した。

「では、まさに禅と同じですね」

エレーナは、嬉しそうに微笑んだ。

「はい、まさにその通りです」

英寿もうれしそうに答えた。

二人は並んで調理した。英寿は作務衣に着替えてきて、エレーナと一緒に里芋と人参、蓮根、かぶの皮を剝いた。

トマトと唐辛子は赤いルビーのようで、ピカピカと輝いた。春菊は青々としている。

それを、車麩と一緒に一口大に切る。大きな鍋に、サラダ油を熱し、みじん切りにしたしょうがとカレーペーストを炒める。

炒めるのは、エレーナの役割だ。そこに一口大に切った里芋、蓮根、かぶ、を入れ、油が馴染んだら、水を加えて、串が通るまで、煮る。

ぐつぐつと、音のする鍋を前に、英寿は歌った。

「あぶく立った、煮え立った、煮えたかどうだか食べてみよう」

「なんですか、それ?」

「わらべ歌ですよ。さて、むしゃむしゃしてみますか?」

「はい」

エレーナは、串を通したかぶを、一口に頬張って、熱そうにした。

「おいひい、でふ」

トマト、唐辛子、春菊、車麩、ゆずの皮、を加えて、また煮立たせると、

それに、赤味噌と塩、白練りゴマを溶き、ココナッツミルクを一気に加える。

ミルクターメリック色の、色とりどりのカレーが出来上がる。出来上がったのは、

夕方になって、雨も小降りになった頃だった。

ご飯はあらかじめ炊いてあったので、大きな釜からそれぞれにご飯をよそい、

英寿、英寿の父の住職、英寿の母親とエレーナの4人で食べた。

住職は言った。

「これは美味しそうなカレーだ」

お寺の炊事係は、飯炊きなどと呼ばれて、新米の役回りとされる。

低く見られることが多いが、調理が重要な修行とされる禅宗では、重要な役職とされ、

日本曹洞宗の開祖道元は古来より修行経験が深く信仰のある僧が任命されてきたことを述べている。

食事を作ることも、立派な修行であり、禅の精神なのだ。

「エレーナさんは、どうして、日本の鯖江に?」

英寿の母親が、エレーナに尋ねた。

「はい、わたしは、鯖江の高校に留学した経験がありまして」

「まあ、そうなの」

「鯖江の国際交流委員をしています」

「それで、座禅に興味があるのかね?」

「それは、フランスで弓道をしていて…」

楽しい時間だった。温かく、エレーナは日本の家族になった気持ちになっていた。

英寿は、にこにこし、何だか、誇らしい気持ちになった。エレーナを女性というよりも、

同志のように感じ、友情が芽生えるのを感じていた。もちろん、エレーナのことは嫌いではない。

が、小春のことが頭を擡げ、暗い影を落としていた。しかも、相手はフランス人だ。

しかし、英寿は、フランス人のエレーナに、日本人女性以上に日本人らしい奥ゆかしさを感じていた。

それが何かはわからなかったが、ずっと探していた何かを見つけたような、何か予感があった。

エレーナは、英寿さんの家族に囲まれて、何だか温泉にでも入ったようなぽかぽかした気持ちになっていた。

自分が歓迎され、愛されていると感じ、アシルのことが胸に引っかかっていたが、気が紛れた。

英寿さんのことは、気になる存在だが、恋人がいるのではないかと思うと、無暗に、恋愛対象とみることもできずいた。しかし、二人で作った精進カレーは美味しくて、初めての味だったが、円やかなゴマの味、ココナッツミルクの甘みが、カレーの辛みを引き立てている。

唐辛子はからかったが、爽やかな辛さだ。野菜も、春を待つ野菜たちが滋味深く、美味しかった。

食後、エレーナは、英寿と座禅を改めて組むことにした。

二人で並んで、本堂に座ると、ぽた、ぽた、と雨が上がった。

暗い本堂で、ろうそくの灯りだけが、ゆらゆらと、二人を包んだ。

エレーナも英寿も、半跏趺坐で座り、英寿はふと、ふううと、風が吹くのを感じた。

じじっと言って、ろうそくが揺れる。すると、二人の影も揺れた。

ふと、ろうそくに、二人の視線が集まる。踊る影に、二人の視線が交わった。静寂だった。ろうそくが消えた。

シンとした静寂だった。

「エレーナさん」

英寿が言った。

「はい…」

エレーナが答える。

「ここに住みませんか」

「…え?」

「寺に住みませんか」

「…はい」

「煮炊きをしてほしいんです」

「わかりました」

「寺には、離れがあって、そこに住めます」「わかりました」

英寿は、ほっとした。

エレーナは、静かに言ったが、こめかみはドキドキと脈打っていた。わたしがお寺に住む?

「また、こうして、座禅を組みましょう」

「…はい」

エレーナは、英寿と、座禅を組むことが好きになった、それと同時に、自分をもっと知ってほしいと思うようになっていた。

「わたしは、」

「?…はい」

英寿が、灯をつけようと、立ち上がりながら、生返事をした。

「わたしは、弓道をするのですが、鯖江にも弓道場がありますか?」

「それなら、北鯖江に、スポーツセンターの弓道場があるはずですよ」

「明日行きませんか」

二人は、急速に近づいているような気がした。エレーナは、その日は、離れに泊まらせてもらうことにした。

布団や身の回りのものは、英寿の母親に借りた。床に就きながら、エレーナは、アシルを想った。

アシル、今頃どこで、どうしているの?フランスに帰ったの?寝返りを打ったが、

エレーナは、墨染めの衣を瞼の裏に視た。英寿の香の香りが、髪に移っていた。

エレーナは、急に、居ても立ってもいられなくなり、布団を、がばと頭まで被った。

こめかみだけでなく、胸がドキドキ脈打った。

次の日、二人は、連れ立って、北鯖江の弓道場へ行った。英寿が、手配をしてくれて、安価で弓道具一式と、弓道場を借りることができた。

弓を引く動作は「射法八節」という、八つの節に分けられる。一つひとつを正しく組み立てることになっているが、それは別々の動きではない。

この八節を、はじめから終わりまで一連の動きで、一貫した流れとして、正確に行うことによって的中率は高くなる。

正しい射行は、正しい姿勢から始まる。

背骨を伸ばし、胸を広げて左右の均衡を保ち、気力を丹田に集めて、精神統一を持続する。

そこから「自分」「弓」「的」の三者が一体となった瞬間、矢を射放つ。

「僕は初めてです」

英寿が、一連の動作をゆっくりと繰り返しながら、矢を番えて言った。

エレーナは、その立ち姿が、あまりにも様になっているので、こめかみがドキドキした。

「佇まいを正して、射ます」

エレーナは、精神を集中すると、一連の動作で、的を射た。

スパンといい音がして、的の中央近くに当たる。

「すごい」

英寿は、感心した。

エレーナは、英寿が射る番になると、途端に気持ちが弱くなり、不安になった。

しかし、英寿は、息を吸うと、矢を放った。スパンと音がして、なんと、矢が的に中った。

初心者で的に当てるなんて、至難の業だ。エレーナは目を見張った。

「…すごい」

自然と嘆息するように、声が出た。

「だめですね」

「な、なぜですか?」

「的に中りましたが、気持ちが高ぶってしまった」

エレーナは、ぐっと、気持ちを飲み込んだ。その精神の強さに、感銘を受けたのだ。

もちろん、弓道は、的を射ることではなく、佇まいを見るものだ。

しかし、初心者は、こと的を射たら喜ぶものだ。しかし、英寿は、だめですね、と言ったのだ。

「ちっともダメではないです」

エレーナは息を吸うとゆっくり吐きだした。

そして、目を瞑って、自分が英寿に惹かれていることを不器用ながら受け入れた。

昨日アシルが来たばかりなのに、エレーナはすでに、英寿を愛していた。

「……エレーナさん。次の的が中央に中ったら」

英寿の目が鋭くなる。

「結婚しませんか」

「え」

「結婚しましょう」

英寿は、一連の動作をして、矢を番え、放った。

矢は、的を大きく外れて、繁みに堕ちた。

「だめですね」

英寿が、肩を落とし、目に見えて、がっかりとした。腕に力が入ったらしかった。

「ダメじゃないです」

エレーナが、自分でも驚くくらい必死に大きな声を出した。

「ダメじゃないです。結婚します。結婚させてください」

それから、二人は、間もなく、結婚した。英寿の両親は驚いたが、反対はしなかった。

エレーナは、萬慶寺の切り盛りをはじめた。

エレーナは、英寿の傍で、座禅を組みながら、やっと、ひとりのフランス人ではなく、ひとりの人間になれたと思っていた。(完)

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胡碧のひと 錦戸彩 @aisha4200

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