絵画に恋した男

大隅 スミヲ

【三題噺】「コーヒー」「魂」「再会」

 その絵を見た時、私の魂は揺さぶられた。

 一枚の人物画であり、じっとこちらを見据える瞳に私は惹かれていた。


 別に絵を見ることが趣味というわけではなかった。

 たまたま絵を描いている友人が招待券をくれたので、画廊で行われている展示会に足を運んだというだけだった。


 人物画として描かれているのは、年齢は二十歳前後の髪の長い女性であり、椅子に座ってこちらをじっと見つめている。この絵は、ダビンチのモナリザの微笑みと同じ技法を使って描かれており、どの位置から見てもその絵の中の女性と目が合う『モナ・リザ効果』によって、絵を見ていると彼女と目が合うようになっていた。

 細かい話を言ってしまえば、実際のモナ・リザ効果というものは、どこから見ても目が合うというわけではなかった。視線が合うのは絵から左右10度から5度の範囲内であり、それ以上の角度でモナリザの微笑みを見たところで、モナ・リザとは目が合わない。これは二〇〇七年にドイツの研究チームが発表したものであった。


 私は絵の中の彼女と視線を合わせながら、その妖艶な美しさに魂を奪われてしまっていた。


 この作品を購入したら幾らくらいするのだろか。

 そんなことまで考えてしまうほどに、私はこの絵に取り憑かれていた。

 もちろん、絵画を買うほど裕福な生活を送っているわけではない。今住んでいるマンションのローンも残っているし、給料だって薄給だ。だが、あの絵を毎日見続けていたいという欲求に私は駆られていた。


 少し頭を冷やそう。そう思い、画廊の近くにあった喫茶店へと足を運んだ。

 窓際の席に腰をおろし、ホットコーヒーを注文する。

 コーヒーが来るまでの間、展示会でもらったパンフレットを手に取って、中身をパラパラと見た。

 パンフレットを見ながらも、やはり頭のどこかに、あの絵のことがある。

 私はどうしてしまったというのだろうか。

 これは恋に似ているものなのかもしれない。私は自分でそんな分析をはじめていた。


 三〇歳、独身。薄給。どこにでもいる平凡なサラリーマン。特に趣味というものもなく、毎日を惰性で生きている。朝起きて、会社に行って、仕事して、仕事を終えたら家で動画サイトを見ながら酒を飲み、寝る。

 そんな毎日を送っている自分に、あの絵が手を差し伸べてくれているような気がしてならないのだ。


 絵画っていくらくらいするのだろうか。やっぱり数百万、いや数千万とかするのだろうか。あの絵を描いた画家は、有名な人なのだろうか。もし有名な画家であれば、やっぱり数千万円はするのだろう。


 そういえば、あの作品を描いた画家の名前を見ていなかった。

 私はその事実に気づき、慌ててパンフレットのページをめくって、あの絵についての情報を探そうとした。

 しかし、さらに衝撃的な事実に私は気づかされた。

 私はあの絵の画家の名前どころか、作品名すらも見ていなかったのだ。

 パンフレットには、いくつか展示されていた絵の写真などが掲載されていたが、残念なことにあの絵の写真は存在しなかった。巻末には、展示されている作品名と画家の名前の一覧はあったが、どれがあの絵であるかを判断することは出来なかった。


 もう一度、あの展示会に行って作品名と画家の名前を見てくる必要があるな。たしか、半券を持っていれば再入場が可能なはずだ。


 私はホットコーヒーを飲み終えると、画廊へ戻るために席を立ち上がった。


「お客様、忘れ物ですよ」


 レジで会計を済ませていると、女性店員から声を掛けられた。

 女性店員の手には、展示会のパンフレットがある。


「あ……」


 私は思わず声を出してしまった。

 そのパンフレットを手に持った女性店員の顔に見覚えがあったからだ。

 まさか、こんなところで再会するとは……。

 そう、それは私にとっては再会であったが、彼女にとっては初対面だった。

 彼女はまぎれもなく、あの絵の女性だった。

 化粧の仕方や表情は違っているが、そのアーモンド形の目や少しふっくらとした唇など、間違いなく絵の中にいた彼女なのだ。


「すいません、ありがとうございます」


 私は彼女からパンフレットを受け取ると、勇気を振り絞って聞いてみた。


「あの、絵画の方ですよね」

「え?」


 彼女は困惑した表情を浮かべた。


 ああ、やってしまった。

 彼女の表情が曇ったことで、私は自分が失態を犯したことに気づいた。

 絵に取り憑かれているあまり、絵画の彼女と目の前にいる女性店員を勘違いしてしまったのだ。


「あ、失礼。何でもないです」


 私は彼女に謝って、店を立ち去ろうとした。


「ちょっと待ってください」


 そう言って彼女が追いかけてくる。


「ごめんなさい、私の勘違いです。すいません」


 私は彼女の顔も見ずに必死に謝った。やってしまった。なにやってんだよ。そんな気持ちでいっぱいだった。


「いや、あの、どういうことでしょうか?」

「え?」

「さっき、絵画のって言いましたよね?」

「あ、ええ……」


 私は彼女に、画廊で開かれている展覧会に彼女そっくりの絵画が飾られているという説明をした。


 話を聞いた彼女は、最初いぶかし気な顔をして話を聞いていたが、何かを思ったらしく私にこう告げた。


「その展覧会へ、わたしを連れて行ってくれませんか」

「え、ああ。まあ、いいですけれど」


 彼女は一旦店に戻り、着替えを済ませると、私と共に展覧会の会場へと足を運んだ。


 そして、例の絵の前にやってくると、彼女はぽかんとした表情を浮かべた。


「わたしだ……」


 やはり、間違いなく絵の彼女と喫茶店の彼女は同一人物だったのだ。

 私は絵に目を奪われている彼女の横顔をじっと盗み見ていた。


 これが私と彼女との出会いであった。

 彼女の絵を描いたのは、彼女の大学時代の同級生であることが判明し、彼女はその同級生と連絡を取った。

 その後、紆余曲折、色々とあった。

 私は彼女と共にその大学時代の同級生と会ったりもした。


 そして、ふたりは結婚することとなった。


 彼女と、その夫となる画家の彼を再会させたのは、私だったのだ。


 私は、その話を彼女たちの披露宴でスピーチするために原稿を書いている。

 この結末が悲しいと思うかどうかは、読んでいるあなた次第だが、私はそれで満足していた。


 なぜなら、私の部屋にはいつでも私と視線を合わせてくれる彼女が飾られているからだ。

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絵画に恋した男 大隅 スミヲ @smee

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