第3話 四つ足法師ヨツとベイル・マーカス
トリアナンの夏はどろどろに湿っていて、帝都育ちには慣れることができない。
夏場は油っ気の強い食べ物が好まれるのもまた、筆者の腹を重たくさせていた。トリアナンの食事は腹にもたれる。
『鳥の羽』と呼ばれているスープにつかった蕎麦ならまだマシなのだが、季節に合わせて油で炒められたものに変わっていた。
あっさりした出汁で食べたいのだが、生憎と今はコレだと言われてしまう。
風に冷たさが乗るようになったのは、ここ数日でのことだ。
ようやく夏が過ぎて、さらりとした蕎麦。いや、鳥の羽が屋台に出るようになった。
書類仕事はまだまだ残ってはいるものの、腹がぐぅと鳴るので中座して屋台へ足を運んだという訳だ。
若いころは寝食を忘れていたというのに、ようやく今になって自分を優先できるようになった。
長椅子が一つきりの小さな屋台はトリアナン庁舎の近くに出ていて、
頭の禿げあがった店主が鉢巻を巻いているということだけが目印だ。
「一つ、熱いのを頼む。酒はいらんよ」
店主は短く「イッ」と応答した。はい、それとも、へい、どちらか分からない。もしかしたら、もっと長い返答のつもりかもしれない。
商売人は急ぎすぎるほどが良い。法務官は急ぎながらも正確であらねばならない。
「もし、お揚げをひとつ」
ふと、隣から鈴を転がすような声。
なんとはなしに目を向けて驚いた。
「イッ」
店主は作り置きの「お揚げ」の皿を素早く取り出す。
お揚げとは蒸した穀物に酢を混ぜて、茶色い鶏皮のようなもので巻いた料理だ。始祖皇帝の時代が発祥で、現在は帝国全土で親しまれている。
あっさりとはしているが、酢の匂いがどうにも好きにはなれない。
小ぶりのお揚げが二つ、皿の上に鎮座している。
「ありがとうございます。ああ、良い匂いだこと」
一人分の尻を空けて隣にいたのは、新雪のごとく真っ白な毛並の
古い言葉で
「あら、お兄さんもお揚げがお好きなのかしら?」
筆者の視線に気づいたものか、狐人の女は黒い鼻先をこちらに向けた。小さな笑みで、口元の牙が覗く。
直立する狐という見た目だ。しかし、その瞳には知性の鋭さがきらり。
「いや、それは苦手なんだ」
「ほほほ、それはそれは。こんな美味しいものが苦手とは、損をなさっておいでで」
狐人は古びた
各地を転々としながら、時戻しの治癒術を
「ああ、お揚げか……。それはどうにも苦手なんだ」
どうにも、としか言いようがない記憶がある。
あれはまだ、筆者が二等法務官になったばかりのころ。お揚げ、にまつわる怪奇な記憶がある。
「ご一緒するのも何かのご縁。このお店のお揚げは格別ですよ。お一ついかが?」
狐人は人好きがするというのか、ふんわりとした調子で言う。
頂こうかという思いが
「それには及ばないよ。お気持ちだけ受け取る」
「あらあら、でも……。食べた方がよいのでは? 口にされれば、こころの濁りも解けましょうに」
その物言いに、おかしみを感じた。
狐人の女が流し目を送ってくることもあって、筆者は意地の悪い気持ちになった。ひとつ、お揚げを食べられなくしてやろう。
筆者が二等法務官であったころ、いくら食べても腹が太くなることもなかったあの頃にあった話だ。
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ある貴族家で奇妙な相続に立ち会うことになった。
これは名を伏せる必要があるため、爵位なども伏せて記す。
当主が老齢で亡くなり、長男に家を引き継ぐ際のことだ。
遺言状は生前に出来上がっていたこともあり、これといって大きな問題はない。ただ、家格が大きいこともあって立会人として呼ばれたというだけ、そうとばかり思い込んでいた。
お屋敷に着くなり気づいたのは、いやに家人に落ち着きがない。
何かを恐れているのか、奥方と次期当主の顔色は悪い。
相続自体はなんら問題ない。むしろ、後ろ暗いことを見つける方が難しいというものだ。それなのに、何を恐れているというのか。
当時は刑事法務官としての案件が多かったことからも、余計なことを考えたものだ。しかし、儀礼の間で相続手続きの書類に署名と
貴族家の相続を行う際、前当主の遺髪の前でというのが一般的だ。言えの伝統によっては、家宝の剣の前でということもある。
家独特のしきたりがあるものなのだが、そこは異質であった。
前当主の遺体が眠る棺が、儀礼の祭壇前にある。
前当主のご遺体は厳めしい顔で、眠っているようにも見えた。微かな屍臭から遺体であることには間違いない。
「亡くなったのは、ひと月前とありますが」
氷室を使うか、魔法使いに頼めば遺体の保存ができないでもない。しかし、それはかなり珍しいことだ。
尋ねてみたが、どうにも次期当主である青年からはまともな返答がない。「いや、あのう」などと口ごもっている。
先代は非常に厳格という評判だったためか、跡継ぎはひどく頼りなく見えた。
はて、どういうことかと
目鼻立ちのすっきりとした、気の強さが顔に出ているご婦人であった。
「マーカス法務官、我が家の伝統でございます。始祖皇帝のご加護か、我が当主はひと月は腐りませぬ」
腐る、という直接的な表現。
「は、腐らない、ですか」
満足げな顔で笑みを浮かべた奥方が続ける。
「我が家の当主は死期を伝えられます。お迎えが来ましたら、腐らぬための作法の行を行いますれば御覧のとおり」
「それは、どのような? 念のためにお聞かせ願いますか」
どうにも奇怪な話が聴ける気がしたこともあり、水を向けてみた。
奥方がにたりと笑む。歪な笑みであった。
「我が家の歴史にもございますが、始祖皇帝の時代から続く伝統にございます」
奥方は
要約すると、このような話だ。
巡礼の変と呼ばれた大昔の帝国内乱の折に、当家は粛清の首級を幾多も積み上げた。その際に、反逆者たちから呪いを受けた。
皇帝陛下の当主の魂を奪わんと、邪鬼が亡骸を喰らいに来る。その邪鬼は腐ったものしか口にできぬという。
困り果て神に祈ったところ、死してなお腐らぬ加護を得たとのことだ。
「なるほど、そのような事情でしたか」
返答はしたものの、どうにもひっかかる。
このような土着の風習じみたものは珍しくないが、論理が破綻しているからだ。奇妙ではあるが、奥方は当家の御威光を示すばかりでそれ以上は聞けそうにない。
悪事があるという確証も無く、この場でこれ以上を聞くのを諦めた。
「承知しました。相続についてはなんら問題ございません。始めましょうか」
儀礼に従ったやり取りを経て、署名と血判へ。
特に変事はなく、無事にそれも終わった。
奥方も満足げで鼻が高いといった様子である。
見送られて屋敷を出て帰途へつくというところで、なったばかりの当主が駆けよってきた。
「マーカス法務官、少し、よろしいですか?」
当主の顔付きは沈痛そのものである。
「いかがされました?」
「頼み事が一つ。少し、歩きましょう」
そうして、当主と共に通りを歩くこととなった。
本当は、違うんですよ。
死期が近づくと見えるようになるんです。なにがって、ああ、邪鬼ですよ。邪鬼。
あれは死体を食べません。それよりも、何も食べれないんでしょう。
我々貴族の青い血なんていいますけれど、何よりも家のためです。
当主の最期の役目は、邪鬼の餌袋になることなんです。
あいつはモノを食べられないんです。でも、例外があって。当主の死体、その腹の中にあるモノは食べられるんです。
父も、死ぬ間際は「お揚げ」ばかり食べていました。祖父が好きだったというので、最後の親孝行だと言ってベルトが巻けなくなるまで食べていましたよ。
私が死ぬ時は、火葬にしてください。父のようになりたくありません。
ああ、それから、証拠になるかは分かりませんけれど、これを見てください。
当主は懐から古い本を取り出した。
幾度も読み返されたであろう本だ。つんと、腐臭が鼻を刺す。
当主が開いたページには、不吉な絵があった。
骨と皮に痩せ細り、腹ばかり突き出た人間が火を吹いているという厭な絵であった。
飢饉となり、何も食うものがなくなると人はこのような姿になる。火は吹かないが、瘦せ細るのに腹ばかりが出るのだ。
「死んだら、当主は飢えた鬼になるんです。きっと、悪いことをしたから、祟りなんでしょう。もし、私が死んだら火葬で骨にして欲しいのです。私は『お揚げ』ばかり食べたくない」
当主は力無く笑って、少なくない金額を心付けとして渡してくれた。
賄賂といえば、そうなるのかもしれない。
奥方を説得するのは骨が折れるだろうな、と思う。
元からさして好きでもなかったこともあって、あれから『お揚げ』は食べなくなった。
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語り終えて狐人を見やれば、口元が笑っていて尻尾が上機嫌に揺れていた。
「あらあらあら。餓鬼のお話だなんて、法師向きのお話ではありませんか。その祟りはエンクゥという魔がやるものなのですよ」
ほう、それは初めて聞く話だ。
「お揚げは
そのように言ってから、狐人の女法師はお揚げをつまむと口に運んだ。実に、美味そうに食べる。
「……俺の負けだな。店主、ここの払いはつけてくれ」
ここで意地を張るほど恥知らずではない。敗北は潔く認めるべきだ。
「ほほほほ、お兄いさんは良い人ですねえ。わたしは
「ベイル・マーカスだ、法務官をしている。あと、おじさんでいいぞ」
「んふふふふ、わたしの好みですよ。マーカスさんみたいなひと」
筆者はため息をつくしかない。
ヨツには酒も追加でおごってやることになった。
法務官ベイル・マーカス 『債鬼の遺産』 海老 @lobster
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