第5話

 エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。木漏れ日は遮断され、陸人と和奏を見送った智志は元の薄暗いエレベーターに一人取り残された。

 匣はガタンと揺れ、スピードを上げて上昇してゆく。智志はランダムに光る階数のランプを無心で見つめている。


「お兄さんはとても難しい病気だったね」

 スピーカーの声が智志に語りかける。この声の主はいったい何者なのか、なぜたまたま乗り合わせた人たちの心の痂皮を知っているのか、そんな疑問はもう浮かんで来なかった。

「急性骨髄性白血病だよ」

「君が小学四年生のときだ」

「そうだよ」

 智志は泣き出しそうな笑みを浮かべる。


「ぼくはドナーになりたかった。でもなれなかった。兄弟でもドナーの条件に合わなかったんだ。両親は悲しんでいた」

 真夜中のリビングで、智志じゃ駄目なのと母が父に泣きついていたのを見た。自分が役に立てる、兄を助けることができる、そんな期待は無惨に裏切られ、自分が否定されたような気がした。


「そして、ぼくは兄を殺した」

 智志は血が滲むほどに強く唇を噛む。エレベーターはスピードを上げて上昇を続ける。

 チン、と音がして扉が開いた。


 目の前に広がるには星の瞬く夜空だった。ずっと下には雲がたなびいている。ここが目的地なのだ。智志は何の躊躇いもなくエレベーターから飛び出した。

 不思議なことに身体は落下せず、宙に浮かんでいる。


「兄ちゃん」

「智志」

 天の川のほとりに立つ兄の浩司が振り返る。ベッドの上で息を引き取ったときに着ていたパジャマ姿だ。天体が好きだった浩司は月や星、ロケットの絵が散りばめられたこのパジャマがお気に入りだった。

「大きくなったなあ」

 小学六年生のままの浩司はまだ元気な頃の顔を紅潮させてにっこり笑う。


「ぼく、役に立たなくてごめんよ。風邪をひいたのに兄ちゃんのそばにいてごめんよ」

 白血病は感染症が大敵だ。風邪ひとつで命に関わる。

 智志は大好きな兄から離れたくなくて、風邪をひいたことを隠していた。浩司とデイルームでトランプをして遊んだ。ババ抜きをして、最後はババの押し付け合いになって二人でたくさん笑った。

 その数日後、兄は肺炎で命を落とすことになった。


「ぼくが死んだ方が良かった」

「馬鹿言うな、ぼくが死んだのは運命だよ。お前はぼくの分まで生きろ」

 浩司は智志を見上げて、両手を握りしめる。小さな手の温もりに智志の頬に涙が止めどなく流れる。兄が死んでから、泣くことを忘れていた。自分が殺したのに、寂しくて泣くなんて卑怯だと思っていたからだ。


「さあ、家に帰るんだ」

 浩司が指差す先に星空に浮いたエレベーターが扉を開けて待っていた。

「一緒に行こう」

「駄目だ、行けないよ」

 浩司は寂しそうに頭を振る。答えは分かっていた。智志は涙を拭う。

「兄ちゃんのこと、忘れないよ」

 智志は名残惜しげにエレベーターに乗り込む。


「ばいばい、智志」

 浩司が手を振る。智志も泣きながら手を振った。扉はゆっくりと閉まり、匣の中は真っ暗闇になった。階数ボタンのランプがひとつ光を放つ。

 エレベーターはゆっくりと下降を始め、自宅のある八階で停止した。扉の先はいつものエレベーターホールだった。

 扉を出て振り返ると、エレベーターには「整備中」の札が掛けられていた。


 それから時々、智志は陸人と和奏とすれ違い、会話を交わすようになった。

「明里は今、隣町に住んでいるんだって」

 陸人は明里に夏休みになったら本を返しに行く、と手紙を書いたという。

「これから母のところへ行くのよ」

 和奏は母親との思い出の詰まったアルバムを抱えていた。

 二人の笑顔に、選択の先に困難が待ち受けていたとしても、きっと乗り越えられる、智志にはそんな気がした。


「白血病のドナーになる」

 智志は思い切って両親に切り出した。兄と同じように苦しんでいる人たちを助けたい、と伝えると両親は驚き、涙を流した。

 浩司が死んでから、彼と病気の話題を出すことを家族の誰もが避けていた。誰もが自分を責めていたのだ。止まっていた時が動き出した、そんな気がした。


 人はみな小さな後悔を積み重ねて苦しんで、それでも誰かに後押しされながら強く生きていくのだ。時々、あの間延びした声が恋しくなることがある。

 しかしあれ以来、エレベーターの非常ボタンを押しても何の反応も無い。

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匣の中 神崎あきら @akatuki_kz

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