第4話

「もしかして、この話はあなたのことじゃ」

 智志が遠慮がちに和奏に尋ねる。

「そうみたい」

 和奏は諦めた様子で自嘲する。家族の込み入った話だ、他人に聞かれたくはないだろう。智志は気の毒な思いで和奏の見つめる。


「優しかった母親の性格はガラリと変わり、気難しくて疑い深くなりました。彼女は何をやっても猜疑心の籠もった目で見られ、心無い暴言を吐かれました。母親の体力は落ちて日常生活もままならなくなり、とうとう彼女は」

「母を施設に入れたのよ」

 和奏はスピーカーの声を遮るように結論を口にして、ため息をつく。


「もう何年も会っていないわ」

 母のことを忘れてしまいたかった。変わり果てた母を目にするのはあまりにも辛かったのだ。和奏は目を伏せる。

「どうして会いにいかないの」

 智志は責めるでもなく、穏やかな声音で問う。それは無邪気な疑問を投げかける子供とは違う、優しさに満ちた声だった。和奏は無愛想な男子高校生にこんな気遣いができるのか、と内心驚いた。


「最初は毎週母に会いに行ったわ。でも、ある日私のことがわからなくなっていたの」

 和奏は涙ぐむ。病気が原因とはいえ、笑顔の母にあなたはだあれ、と言われたときの衝撃に心が耐えられなかった。和奏はそれ以来、母に面会に行っていない。


「何度でも覚えてもらうと良いよ」

「えっ」

「忘れたなら、何度でも自己紹介すればいい」

 智志の言葉に和奏はハッと顔を上げた。これまで、楽しい思い出ばかりを振り返ってはもう二度と戻らないと悲観にくれていた。思い出はそのままに、母と新しい関係を築けばいいのかもしれない。


 チン、と音がしてエレベーターの扉が開いた。スピーカーから間延びした声が響く。

「橋本和奏さん、あなただけが降りられる階です」

 エレベーターの先には、陽だまりのテラスで椅子に座る小柄な老婆の姿があった。

 随分と白髪が増えた。会わないうちに母がこんなに老け込んでしまったなんて。老母の後ろ姿に、和奏は胸がぎゅっと締め付けられる。


 和奏は扉の前に立ち尽くす。足を踏み出すのが怖い。今さら母に何と言おう。

「お母さんは生きている、後悔するのは早いよ」

「今からやり直せるかな」

「うん、きっとできるよ」

 智志に後押しされ、和奏は陽の当たるテラスへゆっくりと歩き出す。一度立ち止まり振り返ると、穏やかな笑みで自分を見守る智志と目が合った。


「君も誰か会いたい人がいるのかな」

「うん、会えるといいな」

「そう、会えるといいね」

 和奏は目尻に滲む涙を拭いながら微笑む。


「お母さん」

 和奏の声に老母がゆっくりと振り向く。しばらく会わないうちに顔にいくつもの深い皺が刻まれていた。瞼に隠れそうな丸い瞳には、昔と変わらない優しい色を湛えている。

「あんたは誰かな」

「そうね、長い間会っていなかったものね。わたし、和奏よ」

「和奏さん、よろしくね」

 母の穏やかな声に、和奏の瞳から涙が堰を切ったように流れ出す。


 忘れても良いんだ、何度でも母との関係を築き直そう。和奏はしわくちゃの母の手を強く握り締めた。


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