散華散華

すらかき飄乎

散華散華

 疊を踏んでこれはと思つた。

 思はずさい顏貌かほを見合はせたが、二人とも眉根を寄せて口をつぐんだまゝ

 一足踏出ふみだごとに、すつかり朽ちた足下あしもとが、護謨引ゴムびき水枕みづまくらよろしくぶくり〴〵と浮き沈み、ぎし〴〵と根太ねだうめく。

 あしのうらの神經がにはかに先銳化する。

 靴足袋くつたびの薄い布を通して、そゝけたがざら〴〵とさはり、黴臭かびくさしめり氣が神經線維にじく〴〵浸潤する。


 かく、燒香をませ、一言二言悔みを云ふと、早々に退散した。


 靴足袋がどうも氣持ち惡くつて不可いけない。いつその事脫いでしまひたいが、さういふわけにも行かず、厭々乍いや〳〵なが其上そのうへに靴を重ねた。

 何だかからだ彼方此方をちこちが痒くなつた氣がする。


 しばらく見ぬ內に康三さんは、隨分老け込んだ。連合つれあひを亡くしたからばかりだとは思はれぬ。

後生良ごしやうよしのお時さんでございましたから、お氣落しでございませう。善い人程早く召されますもの」

 その言葉にうなづいては見たものゝ、はたと氣が附けば、さいはお時さんを知らぬのである。康三さんにつたのも今日が初めてなのである。

 怪訝けゞんな目を向けると、流し目を曳きつゝかほを背け、一人ですた〳〵步いて行つた。


 背中を目で追掛おひかけると、左手には刈取りの濟んだなだらかな棚田がひろがり、右手にこんもりと小さなもりが見える。其頂そのいたゞきにはたしほこらまつつてあつた筈だが、元々は古墳なのだといふ。

 又、此所こゝからは見えないが、もりの向う側には、五町步ごちやうぶ程の池があり、この集落をかこむ山に降つた雨が泉となつて、滾々こん〳〵涌出わきでてゐる。

 棚田も、杜も、池も、元はと云へばこと〴〵く康三さんの家のものであつたのだが、小作爭議さうぎつゞいたのと、あまりに康三さんが人が善いのとで、悉皆すつかり人手に渡つてしまつたらしい。


 康三さんは僕や妻の顏を一度も見ぬまゝに、聞えるか聞えないかのこゑで、ぼそ〴〵と悔みのれいを述べた。二七日ふたなのかを過ぎてゐるといふのに、白小袖しろこそで淺葱あさぎかみしもをよれ〳〵に著込きこみ、少しく破れた額烏帽子ひたひえぼしかぶつたさまは、さながら亡者であつた。


 小趨こばしりにさいに追着くと杜の蔭から池が開けた。

「おい、どういふことだい。一人で先に行くなんて……」

「あら、魚がゐるわねえ。鯉だわね」

 はぐらかすやうに池の端にしやがみ込んだ。言葉附ことばつき或種あるしゆ職業婦人しよくげふゝじんたやうな蓮葉はすはな響きをびてゐる。


 何かゞ喰違くひちがつたやうな氣がする。


 のぞくと池の水は飽迄あくまでんで、幾尋いくひろあるかも判らぬ深い水底みなそこ判然はつきりと見渡される。しかるに、一向に淸淨しやうじやうなる趣は無い。池の內側の壁や底は皆溶岩質であるが、痘痕あばたになつた岩肌に鼠色の苔のやうな物がぼや〴〵と生え、搖らめいてゐるのが、何となく汚らしい。

 澤山たくさんの魚が見える。大方は眞鯉まごひである。緋鯉ひごひは見えない。中には、三尺以上もあらうかと思はれるものもある。又、所々に鱒が見える。鱒は殆どが白子アルビノで、金色を呈してゐる。

 魚にも、何とはなしの汚らしさといふべきか、見てゐて何やらなまぐささがこちらの鼻迄つたはつて來るやうな印象イメヂを受けた。


 しばらく眺めてゐると、鯉が足下あしもとに集まつて來た。水面に浮かび口をぱく〳〵開いて、餌をねだるていである。

「…………」

 さいが何をか呟いた。

「む? 何だね?」

「オクレヨ、オクレヨ……」

「何なのだい? 僕には判らない」

「だから、食べる物が欲しいのですよ、魚は」

「あゝ、それはさうだらう。でも、どうして君が御吳おくれよなのだね?」

「あら、よくつてよ、知らないわ…… ――オクレヨ、オクレヨ…… 本當ほんたうに、ご存じなくて? 可笑おかしなこと」

 見る〳〵うちおびたゞしい鯉が僕らを取圍とりかこみ、水が黑々と染まつた。

「オクレヨ、オクレヨ……」

 其處彼處そこかしこからぱくり〳〵と泡をつぶすやうなかそけき音が聞こえる。鯉はまるで闇を呑込むやうに口々を動かしてゐるのだが、或いは、闇其物やみそのものが其處彼處でぱくり〳〵と無邊際むへんさい洞穴ほらあなかつ開き且亦かつまた閉ぢてゐるやうでもある。

 帽を脫いで、さつと振つてみた。一面、びち〴〵とたゞならぬ騷ぎがおこる。餌でも降つて來ると思ふのであらう。

 興を覺えて、騷ぎが幾らかしづまりかけると、其度そのたびに帽を振つてかれらをあふつた。

「オクレヨ、オクレヨ……」

 畜生の哀しさか、何度遣つても同じ事で、何所迄どこまでも餌が貰はれると思つて大騷ぎをするのである。


「貴方は殘酷な人ね」

 手巾ハンケチを口にて、恨めしさうにさいが見上げる。

「何、面白くてね。無論、魚には氣の毒な事だが……」

空喜からよろこびなのですわ、あれは。裏切られる前の、束のの空喜び…… 殘酷だわ」

「まあ、氣の毒な事ではあるがね…… 畜生のごふかも知れぬ」

「ずいぶん莫迦にして入らつしやるのね。可哀さうに」

 僕は物狂ものぐるほしいやうな、遣切やりきれないやうな心持こゝろもちさかんに帽を振續ふりつゞけた。

「莫迦にされながら、お慕ひもし、かうして一所懸命お仕へもしてゐるのですわ…… それを業だなんて、無邪氣にわらつて仰言おつしやる」


 僕はさいと目を合はせぬやうに、顏をげたまゝ帽を振つた。

「オクレヨ、オクレヨ……」

 何時いつにか、僕自身が口の中でさう呟いてゐた。


 考へてみれば、生きて行くといふ事はいづれにせよ、殘酷ざんこくな事ではある。萬物ばんぶつの靈長とは云ひでう吾人ごじんまた、畜生と同じくごふからは逃れようもない。永遠に報はれぬ苦界くがいではあるが、何所どこかで報はれるのではなからうかと、無慚むざんな期待にすがつてゐる。

 さいも、僕自身も。或いは、死んだお時さんもさうだつたかも知れぬし、あの亡者まうじやたやうな康三さんですら――


「オクレヨ、オクレヨ……」

 ふと思附おもひついて、足下あしもとの小石を三つ四つつかむと、ばらりと水面にいてみた。それ尺餘しやくよの鯉がぱくり〳〵とくはへて、悠然いうぜん水底みなそこへ向かつて行く。

 何やら、誰だかの怨嗟ゑんさが沈んで行くさまのやうに、僕には思はれた。さうして、深くて冷たい所で、幾星霜いくせいさうをかゞつひやされるのであらう。好むと好まざるとにかゝはらず――

 もう一度小石を撒いた。

 途端に全ての鯉が、蜘蛛の子を散らすやうにさつと離れて行く。さうして二度と戾つては來ない。


 僕はぽつねんと殘されてしまつた。


 何時のにやら空が大分だいぶかぶさつて來てゐる。雲閒くもまぼんやりと、黃色い半月が架かる。

 厭に黃色い其月そのつき――

 胴衣チヨツキ衣兜かくしから時計を取出とりだして見た。

 三時廿分にじつぷんを少しく過ぎて、止つてゐる。それからどれ程の時閒がつたのだらう。


 氣が附けば、さい何所どこにも見當みあたらない。


 片附かない天窓あたま一寸ちよつと傾けてみた。

 僕丈ぼくだけがぽつねん――


 何だか判らぬ乍らも、大方が諒解される氣がした。




                         <了>






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

散華散華 すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ