終
寝室へ足を踏み込むと、スゥ、スゥ、と穏やかな寝息が聞こえてきた。そのことに『おや』と思いながらいつも以上に足音を忍ばせて寝台に近付けば、先に寝支度を終えていた
「……おーい」
吐息に混ぜるように
──昨日は大活躍だったからな。
『武侠仙女』の名を取る彼女も、慣れない場所での捕物は疲れたのだろう。ぐっすり眠れることは良いことだ。
小さく苦笑を浮かべながら、
「お前なぁ……。この間から思ってたんだが、さすがに無防備すぎにも程があるんじゃねぇのぉー?」
俺、これでも一応男なんですがー? 何でお前はそもそも寝台がひとつしかないってことに疑問を呈してこないんだー?
紅珠が熟睡しているのをいいことに、涼は言いたい放題囁やきかける。
だがその実、こんなことをわざわざ口に出さなくても、紅珠がなぜこんな態度であるのか、涼は理由を察していた。
『あんたは昔から、女としての私には興味がない』
まさしくこの場所で、紅珠自身が口にした言葉。
涼は紅珠を女としては見ていないのだと、紅珠自身は思っている。ただの同期の腐れ縁で、自分達の間でそんな間違いが起こるはずがないと、心の底から信じている。だから同じ寝台にいても無防備に眠ることができるし、強制された婚姻を『救難信号』とあっさり解釈してみせた。
「だってお前、俺がお前を女扱いしてたら、隣にいることさえ許してくれなかっただろ?」
その信頼が嬉しくて。距離感が心地よくて。
でも時折、同じくらい、それが苦しくて悔しい。
「……お前に女としての興味がねぇわけねぇだろ、バーカ」
本当は
あの場で涼が『
この一年と少しの間、紅珠を思わない日はなかった。それこそ、この衣は紅珠に似合うだろう、あの飾りは紅珠にピッタリだ、なんて、着せる予定のない衣や装飾品を
──我ながらさすがに救いようがねぇなとは思ってたんだが。……まさかこんな形で日の目を見るなんてな。
漏れ聞こえてくる彼女の噂が、『武侠仙女』の活劇譚が、この冷たすぎる場所で唯一、涼の心を支えてくれる
『あんったねぇ! 何っでそんな理不尽押し付けられてんならさっさと私を呼びつけないのよっ!?』
そうでありながら、己の手元に紅珠を呼びつけはしないと、固く心に決めていた。
だって、彼女には広い空と眩しい光が、何よりも似合うから。『私は絶対
──いつかは、帰してやらなきゃな。
そう思ってきたはずなのに、結局涼は紅珠をこんな形で自分の元に呼びつけるハメになった。完全に己の技量不足だったと、紅珠には申し訳なく思っている。
紅珠に輿入れを強制しておきながら迎え入れるのにひと月もかかったのは、ギリギリまで紅珠を巻き込みたくなかったという理由の他に、各所への根回しに時間がかかったという理由もある。
呪術師としての紅珠の籍は、いまだに明仙連に残されている。事が片付いたあと、紅珠が望めばいつだって元の生活にそのままスポリと戻してやれるように態勢を整えてから、涼は紅珠をここへ招き入れた。
明仙連が誇る『八仙』が紅一点、『武侠仙女』
涼が惚れ込んだ彼女は、自由に空を舞えるからこそ美しい。嫌な
そうでありながら、今この時点ですでに彼女とのこの生活を手放したくないと望んでしまっている強欲な自分がいることを、涼は自覚していた。
「……」
涼は紅珠を見つめたまま、ゆっくりと紅珠へ指を伸ばす。
強気な性格がそのまま表れた顔立ちは、眠っているとあどけなさの方が強くて、愛らしかった。スラリと伸びた健康的な四肢と、案外細い腰回り。柔らかな体の線が見えてしまう夜着姿は目の毒に他ならない。手入れが行き届いていないせいで艶に欠ける髪は、これから手入れをしていけば見違えるほどに美しくなるだろう。
当人は自分のことを『女っ気に欠ける』と評しているが、ふとした瞬間に見せる仕草や表情はたおやかで、普段の跳ねっ返りな姿との落差に何度心臓が跳ねたかも分からない。内面から
──今なら触れても気付かれない。
そう思っていながら、伸ばされた涼の指は紅珠には触れず、紅珠の顔の傍らの寝台の上に置かれた。ついた手の方へ少しだけ体重を預ければ、涼の態勢は紅珠に覆いかぶさるような形になる。
この寝台に初めて二人で並んで寝た日。覆い被さった涼を、紅珠は鮮やかな手際で組み敷いた。
だが今ならば。
紅珠が寝入ってしまっている今ならば、あんな風に反撃はされない。
……皇帝の血を引く者が望めば、人を一人手元に囲い込むことなど、簡単にできてしまう。皇帝の血を引く男ならば、もっと簡単に相手の一生を自分に縛り付けることができてしまう。
──逃がしたくないならば、触れてしまえばいい。
心の底から響く声は、甘く、重く、まるで蜜を煮詰めたかのようにドロリとしていて。
「……」
視線を落とせば、すぐ目の前に薄く開かれた唇があった。
触れようと思えば、今すぐに。いとも簡単に触れてしまえる場所に。
──柔らかいん、だろうな。
無意識のうちに、体は紅珠の方へ
それでも涼の体は、紅珠と拳ひとつ分以上の距離を開けたまま止まってしまう。
触れたいという欲は、当然体の奥に
結局涼は今宵も紅珠の寝顔を眺めるだけ眺め倒して、そっと寝台を軋ませないように身を引いた。
きっと今の自分は、惚れ込んだ女に向かって相当甘ったるい顔を向けてしまっているに違いない。
「鈍感紅珠のバーカバーカ」
お前が今を以て無事なのは、俺の鉄壁の理性のお陰なんだからな? 俺が相手じゃなかったら、今頃お前、大変なことになってんだから。
だから今は精々、俺の隣で平和に惰眠を貪りやがれってんだ。
そう胸中で並べ立ててやった涼は、腹いせとばかりにバスンッと紅珠の隣に身を投げ出した。さすがに体が跳ねたのか、わずかに紅珠が唸るような声を上げたが、やはり紅珠は目覚めることなく安らかに眠り続ける。
そんな紅珠を流し見て再び小さく笑みを刻んだ涼は、万が一にでも紅珠の体に触れないように距離を取ってから、自分と紅珠の体をすっぽり包み込むように掛布をかけた。寝台の傍らの卓に置かれた燈明の灯りを吹き消し、自分の枕の位置を調整すれば、あとは睡魔の訪れを待つばかりである。
「じゃあな、紅珠」
そう言葉をかけても、明日再び目を覚ませば隣には紅珠がいてくれる。
泣きたいくらいの幸せに唇に笑みを刷きながら、涼は意識を手放した。
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