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《書き下ろし》比翼・鷭兄弟SS【昔日に祈りは落ちて】


『拾捌※』のネタバレを含む番外になります。本編読了後の閲覧を推奨。

本編より10年前、幼い黄季と次兄・青燕(せいえん)のSSです。


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「黄季に、馬に乗る術を、教えてやってほしい」

 そう告げられた瞬間。

 生まれて初めて、痛みを覚えるくらいに、己の無力を悔いた。


  ※  ※  ※


 馬上の風は、いつも真っ先に季節の変化を教えてくれる。

 まだ先かと思っていた秋の深まりを頬に当たる風で感じた青燕は、草原のはるか先を見据えて目を細めた。

 空には南へ渡る最後の鳥達の姿があり、日々枯色を濃くしていく下草の中には小動物達の気配がある。まだ日が高い時間帯であるおかげか、近頃ぐっと増えた狼や野犬の気配は感じ取れない。

 久々に仕事を離れた場所で馬に乗っているせいか、自分が身をひたす空気がいつもよりもゆったりとしているような気がした。

 商隊の護衛任務で馬に乗る機会は多いが、任務中はどうしても気を張り詰めているし、任務を離れた場所で馬に乗る機会は中々ない。以前は弓の鍛錬の一環として、あるいは狩猟や害獣駆除の依頼を受けてこうして馬に乗る機会もあったが、商隊護衛任務の指名を受けるようになってからはその機会も減っている。

 今日も青燕を指名した『任務』でなければ、こうして青燕が馬上の人になることはなかっただろう。

「青兄!」

 そんなことを思った瞬間、その『任務』を生んだ末弟が駆け寄ってきた。……と言っても、その駆けさせた足は末弟自身のものではなく、末弟が乗った馬の脚である。

 その駆け方、乗り方を観察していた青燕は、末弟に覚られないようにそっと目を細めた。

 ──黄季の中では、馬術も武術の内だったか。

「青兄、やっぱり馬の上からじゃ難しいよ。的と足場、両方が動くんだもん」

 初めて単身で馬に乗ったのがつい先日であるとは思えない堂々たる乗りこなしで青燕の隣に馬をつけた黄季は、八歳という齢そのままの幼さでプクリと頬を膨らませた。

 そんな黄季の左手には、手綱とともに弓が握られている。だが実年齢以上の腕前を誇る弟の手元に獲物らしき物はない。

 青燕は黄季の訴えに耳を傾けてから周囲に視線を巡らせた。だが残念なことに、良い的になりそうな獲物が今の青燕の視界の中にはない。空を行く鳥は射程圏を外れてしまったし、小動物達は気配を感じこそすれ姿は見えない。せいぜい狙えそうなのは、歩数にして三十歩ほど先の草の上をヒラヒラと遊んでいる蝶だけだ。

 ──どうせなら、食い手のある物か、金に替わる物が良かったんだが。

 しかしまあ、黄季に手本を示すならば、あれでも十分だろう。

 そこまで考えた青燕は、背に負っていた黄鵠を手の中に移した。無言のまま矢を番え、弦を起こす自分の一挙手一投足を、まるで吸い寄せられるように黄季が見つめていることが分かる。

 その視線を意識しながらも、青燕は気負うことなく矢を放つ。だがそんな青燕と黄鵠が打ち出す矢は鋭い。

 キュインッと、鳥の鳴き声のような弦鳴とともに青燕の手元を離れた矢は、あやまたず蝶の胴を抜いた。矢に打ち抜かれた蝶は、今まで遊んでいた空間にもがれた羽を散らし、草むらの中に姿を消す。

 ──命中。

 とはいえ、肉が取れたわけでもなければ、毛皮が取れたわけでもない。矢を一本無駄打ちしただけだ。

 黄季に手本を示すためとはいえこれは良くなかったと思いながら、青燕は黄季に視線を落とす。

「観察と、予測。……賢い馬は、乗り手のわずかな重心の移動で、心の機微を図る」
「はい!」

 元気よく答える黄季は、青燕が見せた技に瞳を輝かせていた。

 そんな可愛い末弟に微かに目元を和ませた青燕は、わしわしと黄季の頭を撫でてやってからポンッと背中を押す。それが『もう一度やってこい』という合図であると分かっている黄季は、踵で馬の腹を蹴ると元気良く駆け出していった。

 ──近いうちに黄季も、あれくらいのことはできるようになる。

 その背中に視線を置いた青燕は、今度は隠しきれない痛みに目をすがめた。

 同時に脳裏を過ぎるのは、この『任務』を命じた父の言葉だ。

『青燕』

 道場にいる父が自分を呼んでいる、と門弟から伝えられて出向くと、珍しいことに道場からは人気が消えていた。人払いがされていると覚った瞬間には、きっと今から聞かされるのは良くない話なのだろうということも、分かっていた。

『黄季に、馬に乗る術を、教えてやってほしい』

 囁くようにそう告げた父は、青燕に背中を向けていた。いつだって人の目を見て話す父がそんな態度を取るのは、総じて表情を見せないためなのだと、青燕は知っている。

『お前が一番上手い。手本を見せるには、お前が最適だろう。黄季に追物射を仕込んで、乗馬と、弓を教えてやってくれ』
『……萌(ホウ)も、白(ハク)も、黒(コク)も、まだですが』

 なぜいきなり末弟の黄季なのか。仕込むならば彼の兄達が先なのではないかと、青燕は言外に問うた。

 だが同時に、なぜ父がそんなことを口にしたのか、青燕にはすでに答えが分かってもいた。

『あの子は、早ければ十五になるのを待たずに、馬に乗ることになるだろう』

 この夏に鷭家に届けられた勅書の内容は、青燕も承知している。

【『鷭の麒麟児』が十になったら軍部へ仕官させよ。それを以て当代の鷭一族は放免となす】

 武を以て国に関わるべからず。

 自分達がその生き方を貫く代償として、国に取られることになった末弟。一度技を見ただけで己のものとすることができる、見稽古の天才。誰よりも『鸞』としての素質を秘めた末弟の噂は皇帝の耳にまで届き、皇帝は己の手元でその才を飼い殺すことを決めた。

 皇帝の勅命を覆す力は自分達にはない。『鸞』であった時代から、そんな力は自分達にはなかったという。

 一家の力を集結させれば、あるいは皇帝の首を物理的に落とすことはできるかもしれない。それが元々五獣筆頭の名を負っていた自分達の実力だ。

 だが、そんなことをしたところで何になると言うのだろうか。皇帝を弑逆したところで、家族揃って幸せになれる道などないというのに。

 ──父上は、十五になるよりも早く、黄季は将に上がると、見込んでいる。

 自分達にできることは、軍に入った後の黄季が少しでも楽に生き伸びられるように、周囲の身勝手な思惑でその稀有な才を潰されないように、自分達が持つ技を黄季に叩き込むことしかない。父や兄が黄季に余計な武具を握らせず、ひたすら剣と弓に絞って稽古をつけているのもそのためだ。

 ──いつか。

 視線の先で、弓を構えた黄季が空に向かって矢を放つ。青燕と寸分変わらぬ所作で弓を引く黄季の手元からは、黄鵠が立てる弦鳴とよく似た弦音が上がっていた。

 その矢に射抜かれた鳥が、ドサリと地に落ちる。青燕に比べれば威力に劣るが、矢はきちんと鳥の胸に突き刺さっていた。

「青兄!」

 己の成果を見届けた黄季が、弾けるような笑みとともに青燕を振り返る。『見ててくれた? 俺、できたよー!』と元気よく手を振ってくる黄季に、青燕は小さく笑みをこぼした。

 ──いつか、お前が、何にも囚われることなく、その腕を振るうことが許される未来が来たら。

 その時は、黄季が望むがままに、心行くままに馬を駆けさせて。

 その供として、己が傍らに在れたならば。

 ……それはどれだけ、幸せな未来なのだろうか。

 青燕は胸の内に湧いた感傷を黄季に覚られないように噛み潰すと、軽く手綱を捌いて馬の足を進めさせた。その先で待ち構える黄季は、いつの間にか馬の制御まで安定させている。

 その成長が嬉しくて……同時に、末弟の代わりとしてこの身を差し出すことさえ許されない、凡庸な己がひどく悔しい。きっとこれは、他の兄弟達も日々噛み締めていることだろう。

 ──だけど、今、この瞬間だけは。

 どうやって褒め倒してやろうか、ということに意識を切り替えながら、青燕はゆったりと馬を駆る。

 そんな青燕の視線の先では、変わることなくブンブンと手を振り続ける末弟が、弾けるように笑みを浮かべ続けていた。


【了】

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