第6話
「悠の部屋は今、これまでの思い出でいっぱいなのよ。でも新居に移って、家庭を持って。そこは由貴くんとの新しい思い出で溢れるわけ」
過去、未来、思い出。これまで、これから。ぼんやりと考えながら、私は視線を巡らせてみた。子供の頃から叱られたり褒められたり、コタツを出したり片付けたりした場所。小中高大、それぞれの友達を招いたりもした。これが今の家だ。新しい住み処も、こんな風に色んな記憶が染み付いていくのか。
黙って天井を眺める私を置いて、母は言葉を続けた。
「その新しい思い出を仕舞う場所をね。削ってでも置いておきたいものだけ、持っていきなさい。それでいいのよ」
「削ってでも、置いておきたい、もの」
新しい部屋に、新しい家具に、由貴との生活に詰め込みたいもの。三回くらい大きく瞬きをしてから、再びもそりと起き上がった。積み上がった山の頂きに乗るブックカバーを見つめる。ちくしょう本当に物がいい、とも思う。
ただそれは。せっかく始まる新生活でスペースを勝ち取るほどの価値があるとは、言えなかった。罪悪感も戒めも邪魔になる。部屋は新しい思い出で、胸は由貴への愛で満員御礼。母から授けられたジャッジ方法は大変万能らしく、私の目からはぽろぽろと鱗が落ちて止まなかった。
(……そもそも私。品質にうっとりするばっかりで、本来の用途を活かしてたか?)
答えは否だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。このブックカバーは数年の間、ブックをカバーしていない。もうそういうことじゃないか。
「捨てよう。……うん、捨てよう」
保留の山も、場所を割く気になるものとならないものとに分けられそうな気がした。どうしても残したい場合だけを残そう。それ以外は、気持ちは、思いきって捨てていこう。「こんなことでもないと捨てられないもの、多いから」という母の言葉が、改めて理解できたのかもしれなかった。
(悩んでたのが馬鹿みたい。案外、シンプルだったんだな)
捨てるのは、そこに新しい思い出を仕舞うため。それで、いいんだ。すっきりすっぱり気持ちの整理がついた。なんだかやる気がわいてくる。えいと腕を伸ばしてブックカバーを掴んだ。ぞんざいに扱うのは何か違うと思ったから、そっと丁寧にゴミ袋へ入れた。不燃ゴミだらけの部屋だが、これはさすがに燃えるゴミだった。
「今まで、ありがとう。そんで、さよなら」
さよなら、さよなら。今この時を以て、私の脳内にある汐見悠被害者の会も解散しよう。なんていったって私は
「母さんも、ありがと。お陰で捗りそうだ」
「あ、待って悠。これだけ、ねえ、これだけ。縦はダンジリが確実だと思うんだけど……でもそれじゃ横と合わないのよ。二文字の画家はマネかモネよね? これじゃダネになっちゃうわ」
「ダネ……? 待って、そもそも問題はなんて書いたるのさ」
「“この画家にかかれば時計もぐにゃり”。二文字目がまたヒントのないとこなのよ。“時計の絵”って検索してもよくわからないのよねぇ……どうしてかしら」
時計もぐにゃり。時計、ぐにゃぐにゃ、でろんでろん。ゆっくり、よく知るイメージが頭の中で繋がっていく。思い出した絵のタイトルは奇遇なことに、先ほどまでの私みたいだった。
「いやそれダリだわ。……ってそうか、私のせいか」
そういえば最初の方に尋ねられたなと苦笑する。あの時点できちんと問題文を聞いておいてあげればよかった。それはそうと、検索の仕方がちょっとズレてて面白い。
そっかそっかと喜ぶ母の背中を眺める。縦横のキーを読み、検索まで駆使し、それでも頭の上にハテナマークを飛ばしているような人なのに。どうして私の迷いには、核心を知らぬまま的確な答えを出せるんだろう。でもきっと本人が一番、その理由を知らない。そういう人だ。それくらいすっとぼけたお茶目さは、少しだけ見習いたくもあった。
「じゃあ私、荷造りに戻るから」
「はいはい。がんばってらっしゃい」
さあ、私もかの画家のように時を溶かしている場合ではない。『記憶の固執』をしている場合でも、もちろんない。引っ越しまで猶予はわずか。本当に大切なものだけ抱えて旅立つために、私はこの後もたくさんたくさん、捨てるのだ。
捨てる女 ─汐見悠の分別─ 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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