魑魅ちみ魍魎もうりょう、という言葉がある。


『魑魅』は山の怪、『魍魎』は川の怪を指す言葉で、いにしえからこの国の人々は自分達の身近な場所に『ヒトならざるモノ』が存在しているのだと信じてきた。


 細く開かれた引き戸の向こう、廊下の暗がり、かまどの内。注連縄しめなわや鳥居の向こう側。夕暮れの赤い光に透かした景色の先。


 そういう場所には、魔が潜む。


「世の中が明治と呼ばれるようになった時、真っ先に捨て去られたのがそんな『おそれ』に起因する風習だった」


 ガス灯が夜の闇を切り裂き、人々の目は開かれた。今まで妖魔奇怪の仕業にされてきたことは皆科学の名の下に理論的に解明され、古き風習は皆まやかしだったのだと一刀両断されていく。近頃は皆が口を揃えたかのように『それらのモノに脅かされるなど恥ずべきことだ』『ヒトは文化的に、科学的根拠を元に生きていくべきだ』と口やかましく叫ぶようになった。


「そんな彼らの態度こそが、恥ずべきものなんじゃないかなと俺は思うわけなんだけども。その辺り、生粋の呪言師である貴美子きみこさんはどう思っているんだい?」

「さぁ、ねぇ?」


 馬車の振動に身を預けたままゆったりと足を組み、窓枠に肘をついたままつらつらと言葉を紡ぐ孝明たかあきに、貴美子はそっけなく返してやった。そんな貴美子に気分を損ねることもなく、孝明はただ面白そうに肩をすくめる。


「生まれついて見鬼けんきの才を持ち、霊力を繰って呪霊を薙ぎ払ってきた貴美子さんには、俺達とは違った世界がえているんだろうね」

「……あなた、いつまででいるつもり?」


 ただ、放置しておけばいつまでもこの調子で孝明が喋り続けることも知っている貴美子は、要所要所、必要最小限で最大効力を発するように釘を突き立てることにしている。


「どこの世界でも、己の立ち位置を正確に把握できていない人間から消されていくものよ」

「おや、の言葉は重みが違うね」


 だが今回は貴美子の釘の選び方がよろしくなかったらしい。


 不愉快な言葉に貴美子はキッと孝明を睨みつける。そんな視線を受けても孝明は子猫の可愛らしい抵抗を愛でるかのように笑みを浮かべていた。


 この笑みを向けられたのがそこらの娘であったら、視線が合っただけで腰砕けになっていたことだろう。だが貴美子は笑みを浮かべた孝明の目の奥が少しも笑っていないことに気付いている。


 ──後天性の、呪言師体質。


 この国では古くから、人々をヒトならざるモノから守る術師がひっそりと存在してきた。時代が降るにつれて表舞台から身を引いた彼らだが、この世界に夜がやってくる限り、という存在が消えることはない。


 西洋かぶれのインテリ気取り達が言うほど、この世は単純なものではない。


 闇がある限り、そこにはあやかしが潜み続ける。人々が闇に恐怖を抱き続ける限り幽鬼の発生は後を絶たず、人々が畏れ続ける限り神霊はそこに在り続ける。


 だから彼らとヒトのあわいに立つ呪言師も、完全に消え去ることはないのだ。


「……茶化さないで。これはあなたの師としての助言よ」


 貴美子の実家である猫屋敷ねこやしき家は、古くから祓いの技を伝えてきた呪言師の旧家だ。その家に生まれる者も、嫁してくる者も、皆生まれつきヒトならざるモノを見透かし、霊力を振るう器量を持つ。猫屋敷の家の者は皆認めようとはしなかったが、貴美子はその中でも周囲より頭ひとつ抜けた実力を持つ屈指の呪言師だ。


 だが世の中には、歳を長じてから才を発現する者もいる。


 事故や病などで死地を彷徨さまよい、ヒトと死人の境界が怪しくなったことでヒトならざるモノを視るようになってしまった者。何らかの理由でヒトならざるモノとえにしを結んでしまい、ヒトという規格からはみ出てしまった者。珍しいことではあるが、『後天性呪言師体質』という事例は、昔から確認されてきたものだ。


 鷹羽たかば孝明は、この後天性呪言師体質であるという。


 ──嘘か本当か知らないけれど、落ちぶれた女神をたらし込んだとか、何とか。


 本人が語った話に曰く、昔、暮れなずむ道端に寂しげにたたずんでいた女性に親切にしたら、一方的に惚れ込まれてしまったのだという。それが元は土地の神として祀り上げられていたものの、村が廃れて信仰を失い、落ちぶれてしまった女神であったらしい。


 神は己が惚れたヒトの子を彼岸の向こうへ引きずりこみ、己の婿にすることを願った。


 孝明はその手から何とか命からがら逃げ延びたものの、女神はいまだに孝明に執着を示し、その執着が孝明の体質を変性させてしまった。


 それまで徒人として妖魔奇怪とは無縁な生活を送っていた孝明は、一転して闇に遊ぶ百鬼を余すことなくその視界に納めるようになった。さらに厄介なことに女神の執着は他の妖も惹きつけるらしく、孝明は何をしていなくても、どこにいても、見境なく片っ端から妖怪を惹きつける『呪霊吸引体質』まで持ち合わせてしまっている。


 ──それらの脅威を逃れ、安楽な夜を求めて人の間を渡り歩いているうちについた呼び名が『稀代の人誑ひとたらし』である、と。


 当人にとって、その二つ名は不本意なものであるという。


 夜、部屋に一人でいると、孝明は必ず怪異に悩まされた。誰かと一緒にいれば怪異は起きないし、起きたとしても誰かがいてくれるならばまだ耐えられる。


 だから孝明は人の温もりを求めて渡り歩いた。昼でも夜でも決して一人になりたくなかった。一緒にいてくれるのは男でも女でも構わなかったし、孝明との関係性が何であっても良かった。


 決して相手を誑し込みたくて誑しているわけではない。自分が平穏無事にから逃げおおせるための処世術だったのだ、というのが孝明の主張だった。


 その話を初めて聞いた時、貴美子は冷たく『それこそ呪言師を頼れば良かったのでは?』と言ってやった。それに珍しく素直にウンザリした顔を見せた孝明は『鷹羽の家の体面があるし、当時は伝手つてがなかったんだ』とだけ答えている。


 ──でもそもそも、最初に女神を誑し込んだからそういうことになったのよね? 後天性呪言師体質や呪霊吸引体質がなくても、最初から女誑しだったことに変わりはないじゃない。


 そんな孝明はその素行を親に知られたことにより、帝国陸軍に叩き込まれることになる。


 だが案外それは鷹羽侯爵自身の発案ではなく、鷹羽侯爵にそう思いつかせるよう仕組んだ人間が裏にいたのではないか、というのが孝明の推測だった。


 というのも、孝明は軍に放り込まれてすぐ、とある部隊に拾われることになった。


「師、ね」


 貴美子の言葉を受けた孝明はクイッと唇の端を吊り上げた。基本的に甘い笑みばかりを振りまく孝明にしては珍しい、皮肉を多分に含んだ笑みだ。


「貴美子さんには恐れ入るよ。本職の上司や同僚達でさえしようとしなかったことに名乗りを上げるだなんて」


 その拾い主が、大日本帝国陸軍対怪異特務部隊。


 通称を『白羽しらはね』という、軍人の皮を被った呪言師の集団である。


 ──存在は風の噂で聞いていたけれど、まさかその一員の縁戚になるだなんてね。


 皮肉を浮かべていてさえ優美な孝明の顔を真っ直ぐに見上げたまま、貴美子は己の内だけで考えを転がす。


 ──この人の話ぶりを聞いていると、、お近付きにはなりたくない集団だわ。


 曰く、彼らが孝明を拾ったのは、自分達の成果を上げるための誘蛾灯として使いたかったから、であるらしい。


『白羽』の一員としての孝明の仕事は、怪異が出現しそうな場所への斥候なのだという。


 その際、隊の他の人間は同行しない。孝明だけが、いかにも何かが起きそうなきな臭い場所へ派遣される。


 そして孝明の呪霊吸引体質によって怪異がいよいよ本格的に発生すると、押っ取り刀で部隊の人間がやってくる。その人間が怪異を祓い、任務終了となるのが大体の流れなんだとか。その際、孝明がすでに怪異に襲われてどうこうなっていようが、仲間は一切孝明に斟酌しない。


 呪言師に関する知識がない孝明にも、さすがに分かった。彼らは孝明を『仲間』とは見ていない。完全に『道具』として見ているのだと。人一人をそんな風に扱っても許される立場に『白羽』はあるのだと。


 孝明を従順な誘蛾灯として利用したい『白羽』の面々は、孝明を呪言師として鍛えるつもりもなければ、知識を与えるつもりもなかった。余計な力を付けられては面倒だと考えているのだろう。さすがに任務遂行のために必要な最低限の知識は与えられたが、本当にそれだけで孝明は放置されているのだという。


 無知であるからこそ逃げ出せないし、彼らの扱いにあらがすべも孝明は持ち合わせていない。徒人の血筋である鷹羽家は孝明が置かれた状況を理解することはできないし、そもそも彼らは孝明に良い印象を抱いていない。『白羽』に拾い上げられた時点で孝明の逃げ道は全て潰されていたのだ。


 だがそこで全てを諦めてやるほど、鷹羽孝明という男はしおらしい人間ではなかった。


 唯々諾々と従うだけでは、いずれ任務先で死ぬことになる。どうにかして対抗手段を得なければと、孝明自身も考えてはいたらしい。貴美子と出会う直前の『人誑し』はその手段を模索してのことだったのだと孝明は語る。


 そんな孝明が貴美子との婚儀を機にスパッと『人誑し』をやめたのは、貴美子こそが孝明が求める最上の『手段』だったからだ。


『わたくし、貴方様の階級をみっつ、引き上げて差し上げます』


 婚儀の夜、夫婦のために用意された真新しい布団の上で、貴美子は孝明に切り出した。


『その暁にはわたくしを世間的に死んだことにして、密かにこの屋敷から解き放ってはいただけませんでしょうか?』


 そう切り出した貴美子に、孝明が理由の説明を求めることはなかった。


 問い返されたのは、もっと別のこと。


『その時に、多少のまとまった金子や、しばらくの潜伏先は必要ではないかい?』


 君は呪言師なんだろう? 先程、君と親族が揉めているのが聞こえてきたから知っているよ。


 なぁ、君、俺を呪言師として鍛えてはくれないか。この体質を抱えたままでも一人で生きていけるくらいの技量と知識を、俺に与えてはくれないか。


 それができると言うならば、俺は君が世間的に死んだ後も、君の生活を補償しよう。


『逃げ道を潰されて追いやられた俺達がそれぞれの人生に突破口を開くまで、手に手をとりあって協力していこうじゃあないか』


 それが貴美子達『夫婦』の始まり。


 ──大丈夫、成果はちゃんと出てる。


 貴美子はゆっくりと目を閉じると、深く息をした。


 先月、孝明は貴美子が挙げさせた勲功によって少尉から中尉へ階級を上げた。孝明が置かれている状況下でも、貴美子は孝明を出世させることができた。


 呪言師としての孝明は決して筋は悪くない。知識を与え、適切な指導をすれば、孝明は素直に技量を上げる。貴美子と孝明が目指す先は、決して夢物語では終わらない。


「……それで?」


 貴美子は海老茶袴の中で足を組んだまま、顎を上げて尊大に孝明を見遣った。優美な笑みの中には牙の鋭さを思わせる凄みがにじんでいることだろう。猫屋敷の中で非公認呪言師とされていながら、呪言師達の世界で『猫屋敷の白虎』と恐れられた貴美子の、呪言師としての笑い方だった。


「私の弟子は現状、どこまで何を理解できているのかしら?」


 この笑みを貴美子に据えられてたじろがない呪言師は今までにいなかった。貴美子の実力を認めなかった、実の父や兄達でさえも、だ。


 だというのに呪言師としては素人に毛が生えた程度の孝明が、貴美子の笑みを真っ直ぐに受け止め、あまつさえ余裕の笑みを見せる。


「説明するよりも先に、現場についてしまったようです、御師匠様」


 その言葉に同意するかのように、馬車の振動が緩やかに収まっていく。小窓の窓掛けカーテンの隙間から外を見遣れば、馬車はどこぞのお屋敷の門前に車体をつけたようだった。


「この不肖の弟子の説明は、現場で申し上げても?」


 わざとらしくへりくだりながら、孝明は今この瞬間の全てが面白くて仕方がないと言わんばかりに笑みを浮かべた。その妙に自信に満ちた表情に貴美子は呆れを込めた息をつく。


「周囲に聞き耳を立てられないように、精々気を付けなさいね」

「そりゃあもちろん」


 茶化すような物言いにもうひとつ溜め息を上乗せした瞬間、コンコンッと扉が外から叩かれた。その音に孝明が内側から扉を叩き返せば、カチャリと鍵が外され、扉が開かれる。


「それでは、お手をどうぞ?」


 ヒラリと先に外へ降りたった孝明は、振り返ると貴美子へうやうやしく片手を差し伸べた。光の中から薄暗い馬車の中へ手を差し伸べる孝明は、さながら西洋の童話の中に出てくる王子様のように輝いて見える。


 ──確かにこの眩しさならば、誘蛾灯にはもってこいよね。


 貴美子はその光景に誰にも聞かれないように舌打ちをこぼしながら、仕方なく孝明の手に己の手を預けて馬車を降りたのだった。

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