猫と鷹の婚姻遊戯〜細君の牙は夫君の翼に隠すに限る〜

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

 なぜ女であるという理由だけで後ろへ下がらねばならぬのですか?


 貴美子きみこには理解ができません。


 殿方であるというだけで、貴美子よりも無条件で強いのでございますか? 殿方であるというだけで、貴美子よりも無条件で賢いのでございますか?


 そんなはずがない。そんなはず、ありえるはずがございません。


 貴美子はそんなつまらない理屈のためだけに後ろに下がったりは致しません。


 絶対に! 致しません!!




  *  *  *




 ──などと、みっともなくごねていた時期もございましたわね。


鷹羽たかば』貴美子と呼ばれるようになって約半年。


 ふとそんなことを思い出したのは、女学校の廊下ですれ違った学生達の中から、親に決められた許嫁いいなずけへの不満の声が漏れ聞こえてきたからなのかもしれない。


 何でも、軍人である彼は何かにつけては『女たるもの』と講釈を垂れ、『かしましくお喋りをするな』だの、『俺に向かって偉そうに意見を述べるな』などと彼女を言葉で抑えつけようとしてくるらしい。『あんなのじゃいくらお家柄が良くても願い下げよ!』という威勢の良い声が聞こえていたが、あれは正味不満が半分、残りの半分は己の許嫁の家柄を自慢したいだけだろう。


 ──あの薄桃色の小袖と、マガレイトに結った髪。ひと学年下の、さかき様のお嬢様かしら?


 ということは、その不満の『彼』というのは、島原しまばら海軍少将の御子息のことだろうか、と、貴美子は漏れ聞こえた会話から推測を転がす。


 御一新、と呼ばれた世の動乱が落ち着いてしばらく。


 元号が明治と改ためられ、言葉上だけは女性が学をつけ、世に羽ばたく機会を与えられるようになった。


 それでもまだそれは男側が、身勝手に、耳障りが良いように上っ面を繕っているだけで、実際の所まだ『女』という生き物は肩身が狭い箱の中に押し込められて生きている。


 今貴美子がいるこの場所だって、所詮しょせんは箱の中だ。年若い娘が自由に学びを得られる場のように見えて、実際は男どもが女側に『許可』を与えて、一時的に家よりもほんの少しばかり広い箱の中に解き放ってみただけ。


 昔から貴美子は、自分がそんな狭い世界の中で生かされていることが辛抱ならなかった。


 貴美子には兄が三人いるが、昔から一番勉強ができたのは貴美子だった。『女である』という理由だけで兄達と同じように学ばせてはもらえなかった、貴美子なのである。


 武術も、書や絵といった諸芸も、商売や対人関係、だって、兄妹の中で一番優れていたのは貴美子であったはずなのに、家の人間は誰も貴美子のことを認めてはくれなかった。


 理由は至極単純。


『お前は女であるのだから』だ。


 ──それは今でも気に入らない。だけど、正面切って反抗してみた所でどうにもならないということは、に理解させられてしまった。


 だから今は、美しく、つつましく、さかしらに、貴美子はそのを使うことにしている。


猫屋敷ねこやしきさ……あ、いえ、鷹羽さん!」


 そんなことをつらつらと考えながら、編み上げブーツのかかとが立てる音とともに廊下を進んでいた、その瞬間。


 後ろから落ち着きのない足音とともに、足音以上に落ち着きのない声に名前を呼ばれた。いや、この場合、正確に言うならば『旧姓』と呼ぶべきか。


 貴美子は上品に足を止めると、計算し尽くした淑やかな笑みとともに声の方を振り返った。『藤波ふじなみ女学院のマドンナ』の二つ名に相応しい微笑みを以って声の相手を見遣れば、声から予想した通り、貴美子の学級の担任である女教師がバタバタとこちらへ駆け寄ってくる所だった。


「まぁ、高桑たかくわ先生。そんなにお急ぎになって、どうなされたのです?」


 この場合、『生徒の模範となるべき教師が廊下を走るなんてはしたない真似、するものではないのではなくって?』と言いたくても、あまり率直に物を言ってはならない。


 この国には『男尊女卑』という言葉以上に『年功序列』という厄介な思考が根強く浸透している。


 中身がなっていなかろうが、歳上は無条件で敬われるモノ。


 だから下手に歳下が年上をたしなめようとすると、たとえそれが正論であろうともこちらが叱られる。今の場合はおっとりと天然を装っておくのが吉だ。


「良かったわ、猫や……鷹羽さん。すれ違いにならなくて!」


 ──いつになったらこの人、わたくしの今の名前を覚えるのかしら?


『立派なまげを乗せた頭の中は空っぽでいらっしゃるの?』という言葉や、『こちらの問いかけにさっさと答えてくださらないかしら』という言葉も胸中に浮かんだが、我慢、我慢。


 ──それに、何となく用件も予想がついていますし。


「ね……鷹羽さんの旦那様が、お迎えに来ていらっしゃいます。すぐに向かって差し上げて」


 内心を綺麗に隠しておっとりと微笑んでいると、案の定予想通りの言葉が飛んできた。『すぐに向かって差し上げて』も何も、貴美子は今まさしく玄関に向かっていたわけだから、今この瞬間こそが貴美子に無駄足を踏ませている最たる時間であるのだが、やはりそこを指摘するのは藪蛇やぶへびというものだろう。


 ──まぁそれに、伝えられなければ裏門からひっそり帰るつもりでしたし。


 その場合、待ちぼうけを喰らわされた『旦那様』に多大な厭味いやみを言われることになっただろうから、やはりこの伝言は受けておいて良かったものなのだろう。ザマァ見ろと思わなくもないが、あの人の厭味はネチネチと鬱陶しいから、腹いせと厭味を天秤にかけるならば厭味を聞かない方がまだいいのかもしれない。


「嫁に入ったというのに女学校に通わせてもらって、さらに仕事に都合がつけば迎えにまで来ていただけるなんて。こんなに贅沢なことはないんですからね。しっかりとお仕えなさい」

「はい」


 放っておけば『未来の良妻賢母たるもの〜』と授業でも始めそうな担任に対し、貴美子は淑やかに微笑んだまま丁寧に頭を下げた。そうすれば気を良くした担任はさっさと貴美子を解放してくれる。


 ──『しっかりお仕えなさい』……ねぇ。


 廊下を足早に進みながら、一部分だけをリボンで止めた流し髪をサラリと片手で払う。周囲に人気がないのをいいことに、今の自分はきっと猫を脱ぎ捨てた表情のない顔をさらしていることだろう。


 ──わたくしほど夫君に尽くしている妻というのも、中々いないと思うけども。


 玄関まで足早に進み、気が乗らないものの仕方がないから表門に向かって足を進める。玄関付近から人気が増えたから、淑やかな笑みは標準装備だ。


 そんな自分に視線が集まっていることも、道行く女学生達が自分をチラチラと見つめてはキャイキャイと黄色い声を上げていることも、ついでに表門の方が何やら騒がしいことも、貴美子は気付いている。


 ついでにそれらの理由にも想像がついた貴美子は、口元に刷いた微かな笑みを消さないまま、内心だけでウンザリと溜め息をついた。


 その瞬間、甘いくせによく通る声が貴美子の名前を呼ぶ。


「貴美子さん!」


 本音を言うならば、顔を向けたくはない。ツンッと澄ましたまま声も存在も無視して、スタスタと表門を通り過ぎていけたら、どれだけいいことだろうか。


 だが『鷹羽』と名乗ることになった貴美子に、そんな真似が許されるはずがない。


 なぜならばその声の主こそが、貴美子に『鷹羽』を名乗らせる原因なのだから。


「お帰りなさい、貴美子さん、俺の可愛い子猫ちゃん。仕事に都合がついたから、迎えに来てしまったよ。迷惑だったかい?」


 続く甘い言葉に、貴美子は覚悟を決めて顔を上げた。


 表門には、二頭立ての箱馬車が止められていた。その馬車にもたれ掛かるように濃紺の帝国陸軍の制服を纏った麗人が立っている。


 軍服がとことん似合わない優男だと、貴美子は常々思っている。


 垂れ目がちの目元。凛々しさはイマイチ足りないが、整ってはいる顔立ち。軍規は一体どこへ行ったのかと物申したくなる、襟足が少し長めの髪。髪や瞳の色合いが他人ヒトよりも明るいのは生まれつきだという話だ。


 彼の名前は鷹羽孝明たかあき


 名門華族・鷹羽侯爵家の次男坊であり、貴美子の夫君。


 半年前、貴美子の実父である猫屋敷子爵が、厄介払いを兼ねて貴美子をほぼ騙し討ちで嫁がせた相手である。


 ──仕事に都合がついたから……ねぇ?


 元々女たらしで有名だった鷹羽孝明は、その女癖の悪さを叩き直すために侯爵家の次男坊でありながら帝国陸軍に放り込まれたという話だ。しかし孝明は陸軍の中で上官に部下に同僚、とにかく見境なく周囲をたぶらかして自分の派閥を作り上げた上に、女癖は治らなかったらしい。


 そんな孝明の女癖を叩き直すためには身を固めさせるしかない、という理由が、遊び人で有名だった孝明が結婚することになった経緯なんだとか。貴美子が選ばれたのは、娘を厄介払いしたかった猫屋敷の父と、適当な家格の娘と己の次男坊を一刻も早く結婚させたかった鷹羽の義父の思惑が一致したからだ。


 遊び人を矯正させるための、無理強いの結婚。貴族の結婚に愛だの恋だの己の意思など関係ないものだが、それにしたって嫁がされた娘が愛されることがないくらい、誰の目にも明白だった。いくら鷹羽の家が相手であろうとも、相手は次男。実の娘を即差し出せる家など、猫屋敷くらいしかなかったのだろう。


 ──まぁ、わたくしも、この結婚自体はと思っておりますけれども。


 孝明への返事を考えるひと呼吸の間にそれだけのことを考えた貴美子は、深く息を吸うととびっきりの笑みを浮かべてみせた。


 まるで恋する乙女が、自分だけの王子様に向けるかのような笑みを。


「いいえ、孝明さん。嬉しいわ」


 笑顔のまま孝明の元まで歩を進めれば、スッとエスコートのために手を差し伸べられる。笑顔を崩さないまま手を預け、孝明の顔を見上げれば、孝明は万事を心得たという顔で甘く笑い返した。その光景に周囲から黄色い悲鳴が上がる。


 ……多分に思惑が絡んだ鷹羽孝明と猫屋敷貴美子の婚姻だったが、思っていた以上にあの夫婦は上手くやれているらしい。


 孝明の女遊びは鳴りをひそめ、二人仲睦まじく行動する姿がよく見られるようになった。どうやら鷹羽孝明は猫屋敷貴美子にぞっこんであるらしい。いやいや、あの『藤波女学院のマドンナ』の方が『陸軍のプレイボーイ』に骨抜きにされているのだろう。


 何はともあれ、素行はともかく将来有望な陸軍中尉と才色兼備な新妻、美男美女の仲睦まじい夫婦に周囲は見惚れ、うらやむばかり……というのが貴美子が耳にする話だ。


 ──まぁ、そう見えているならば結構。


 貴美子の手を取った孝明は、貴美子を箱馬車に乗せると己も身軽に馬車へ乗り込んだ。御者が恭しく扉を閉め、御者台に座って馬に鞭を入れれば、途端に世界から二人は隔離される。


「……で?」


 その振動に身を揺られて三回ほど呼吸を数えてから、貴美子はそれまで浮かべていた淑女の笑みを捨て去った。海老茶袴の中で足を組み、窓辺についた肘にあごを載せてツンッと明後日の方向へ顔を向ける。


「今度はどこの現場へ私を引っ張っていくつもり?」

「おや。もう甘い夫婦ごっこは終わりかい?」


 そんな貴美子の態度にも孝明は余裕の笑みを崩さなかった。ただその笑みの中から鬱陶しいくらい振りまかれていた甘さが消える。


「俺の子猫はつれないなぁ」

「あなたには本性が割れているんだもの。猫の被り損じゃない」

「まぁ、その方が俺も楽で助かるけどね」


 甘い顔立ちはそのままに策略家としての笑みを刷いた孝明は、馬車の座椅子に放り出していた茶封筒を貴美子に向かって差し出した。


 小回りを効かせるならば人力車の方が、速さを求めるならば自動車の方が優れている中、孝明がなぜあえて箱馬車などという西洋かぶれで不便な代物を移動手段として重宝しているか、その理由がここにある。


「現場は椎名しいな男爵邸。今宵のパーティーに乗じて、やっこさんはを行うつもりらしい」


 箱馬車は、移動する密室だ。


 他人に聞かれたくない密談をするのに、これ以上適した空間はない。


「今宵? 随分急な話じゃない」


 茶封筒を受け取った貴美子は中身を改めながら孝明の発言に眉を跳ね上げる。


「私に推論も立てさせないまま、ぶっつけ本番をさせようって言うの?」

「まぁまぁ。だからパーティーが始まるよりも先にまずは現場へ一緒に出向こうって話なんじゃないか」

「ほとんど一緒よ。信じられない」

「すまないね。目星をつけられたのが、それこそつい先程だったものだから」


 本当に悪いと思っているのか、孝明は食えない笑みを浮かべたまま小首を傾げてみせた。


「今回も頼りにしているよ。何せ君は我ら大日本帝国軍の隠し刀なんだから」

「勝手に隠し刀扱いしないでくれる?」


 茶封筒から取り出した書類を一度バサリと鳴らしてみせた貴美子は、鋭い目つきで孝明を真っ向から睨みつけた。その表情に淑女としての淑やかさや柔らかさといったものは微塵も存在していない。あるのは抜き身の日本刀のように鋭い意思の発露だ。


「私達は互いの目的のために互いを利用しているだけ。関係に縛られて役割を押し付けられるのなんて、ゴメンだわ」

「分かってるさ、『猫屋敷の白虎』」


 その視線にさらされても、孝明は微塵も揺らながない。


 逆にその顔には、心底楽しそうな笑みがにじんだ。


「私達の結婚は、お互いの身に降り掛かった危難から逃れ、目的を達成するための紛い物カモフラージュ


 その笑みを浮かべたまま、孝明は貴美子の手元に落ちかかる黒髪に指を絡ませた。貴美子の髪を取り上げた指先は、そのまま孝明の唇まで運ばれる。


「時が来れば、僕は君を野に解き放ち、君は僕を空に解き放つ。それが僕達呪言師じゅごんし言霊ことだまを以って交わした誓約だ」

「……忘れてないならば、それでいいわ」


 微かな口付けの音とともに、貴美子の髪は孝明の手から解放された。


 女学校の同級生達ならば顔を真っ赤にしそうなキザったらしい仕草にも顔色ひとつ変えず、貴美子は己の手元の書類に視線を落とす。そんな貴美子の姿に満足そうに笑った孝明も、優雅に足を組むと窓辺に肘をついて顎を載せた。




 世間が羨む鷹羽夫婦には、世間に伏せた秘密がある。


 ひとつは、彼らが揃って、妖魔奇怪と戦う呪言師を生業なりわいとしていること。


 もうひとつは、当人達がこの強制された結婚を勝手に『契約結婚』という形に仕立て直し、極秘裏に破局前提・色事ナシの白い結婚を貫いているということであった。

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