虚航を征く
金沢出流
虚航を征く
フローリングから白い草が生えていた。手で触れようとすると消えてしまう。白いというより、色のない、という印象の草。硬いフローリングを突き破るようにではなく、フローリングに寄生しているかのように、載って、生えている。そして風もないのに揺れている。
キッチンの上ではぬいぐるみが踊っていた。三体のぬいぐるみ、二足歩行のネコのような、左から白、黒、赤色のぬいぐるみ。こちらに手を振るように踊っている。ねえ、ボクたちかわいいでしょ、とアピールしている。
ボクは川崎宗則。野球選手だ。メジャーリーグベースボールのカナダ唯一の球団、トロント・ブルージェイズに所属していた。しかし先日、解雇された。さて、これからどうするべきか。
日本に戻るか、マイナーリーグで足掻くか、だ。
野球をやめるという選択肢はない、そんな選択肢は見えない。野球をしていない自分というのは、野球に関わっていない自分というのはもう川崎宗則ではない。
それにしてもうんちがでない。トイレの壁と天井が少しずつ迫ってきている。全方向から圧力を受けて、きしみ、楕円に迫ってくる。便秘だ。便秘なんて初めてのことだ。野球選手としては致命的だろう。もう三時間はここに籠っている。直腸にはもう到達しているが、硬く、大きすぎて、排便がむずかしい。とても痛い。しかし出産よりはマシだろう。もうあとがない、さっさと捻り出してトイレからも、この苦悩からも脱出したい。そしてクイーンズパークでランニングをするんだ。
イチローさんといっしょに野球がしたかった。それがオレの夢だった。チームメイトにはなれた。一年だけ。対戦相手にもなることができた。
イチローさんのあの記念球、日米通算4,000本安打の記念球、ほしかったな。あの時、ちょうど内野を守っていたボクの手元にきたものだから、魔が刺して盗もうとした。けどむりだった。それはそうだ。
そうだ、あの時の歓声、自分が浴びたモノでもないのに、いまだ忘れられない。あふれるドーパミン、強烈な快感。
そう考えるともうこれで十分なんじゃないか、とそう思えてくる。夢は叶えたのだ。中途半端ではあるかもしれないけれど、イチロー4,000本安打というあの場に居合わせたのだ。野球選手として。対戦相手として。
でも、それでもだ。川崎宗則にしかできないことがまだあるのではないか?
尻が痛い。野球へのモチベーションが下がりつつあることを感じていた。それは語弊があるか。モチベーションは低くはない、でも身体の衰えでパフォーマンスは下がっている。ピークは過ぎた。ここからボクは成長しないだろう、現状維持すら危うい。自身にはもうのびしろはたぶんない。だからモチベーションが低いというより、徒労感がカラダにどうしても付き纏ってくる。
人気はそこそこある。でも実力が重視されるMLBに於いて席があるほどの人気はない。
指導者? 自分にそれが向いているとは思えない。
どうしたらいいんだ。でない。便秘なんてほんとうに初めてだ。うんうん唸る。
数時間して、硬球ボールのように硬くなった便を観念して左手を用いてほじくり出したら一気に便秘が解消された。
手を拭き、ハンドソープを用いて、洗う。そして、ボクは金沢出流になった。
「おんぎゃあ!」
出産したばかりのうんちが産ぶ声をあげていた。
トイレを流した。流れなかった。水だけが流れていく、もう一度流す、流れない。くそでか一本糞だ。ボクは諦めて、トイレのドアを閉めた。
水の流れる音の向こうで、うんちは叫んでいた。
意味がわからない。
個人用の宇宙船のような楕円形のあのトイレ、ちゃんと下水道に繋がっているのだろうか。
ボクは川崎宗則になっていた。これもまた意味がわからない。
妄想というヤツだろうか、初めての経験だ。
もちろん妄想自体ははじめてではないけれど、じぶんが他人だと思い込む妄想ははじめてだ。
そういえば川崎宗則がブルージェイズからFAになって、まだ移籍先が見つからないというニュースを読んだ。その影響だろうか。
あいもかわらずフローリングに寄生した白い草はいまも、風もないのに揺れている。
ぬいぐるみが踊っている。くろしろあか。
部屋が縮んで、迫ってきている。
幻覚というヤツだろう。
次の診察で、薬が増えそうだ。一体何種類の薬を服用しているのか、じぶんでもよくわからなくなってきた。
疲れた。お尻が痛い。ロキソニンを飲む。ボクはねむることにした。
つづけて、就寝前に処方されている睡眠導入剤や、便秘薬、あとジプレキサを飲んだ。
ジプレキサというのは第二世代の抗精神病薬なのだが、これの副作用がきつい。とんでもなく眠くなるし、カラダが動かなくなる。それに食欲増加。
体重増加の副作用がなかなか精神的に辛い。もともと54kg程度だった体重が、一年間の服薬で、今は66kgだ。自身の体重の未知の領域を更新し続けている。
元々痩せ型だったボクの、痩せているじぶん、というアイデンティティと、現実の太った自分とに齟齬が生じていて、たいへん気持ちがわるい。
いい機会だからジプレキサを変更できないか、主治医に相談しよう。
もろもろの薬をエンシュアリキッドで流し込み、ボクは眠りについた。
次に目覚めたら、眠りについてから20時間余りが経過していた。過眠だ。カラダがバキバキする。
トイレへと向かえば白い草もキッチンのぬいぐるみもいなくなり、圧力に縮んだ部屋も、元に戻っていた。
そうして朝の薬を用意し、整理していると解った。
一昨日、ボクはジプレキサを飲んでいない。妄想の理由は服薬ミスだったのかもしれない。ジプレキサはやめられないかもしれない。
一年ののち、ボクの体重は74kgまで増えていた。
太ったじぶんを認められずにいたら、目を逸らしていたら、ここまできた。
ついに、履いていたジーンズは履くことができなくなった。成長期以外では着ていた服が入らなくなるなんていう経験をしたことのないボクは、大きなショックを受けた。
ここにくるまで気づかなかったが、ジーンズのウエスト部分は限界まで伸びていた。
フローリングから白い草がまた生えてくる。寄生するように。右手で触れると消えてしまう、離すと、またいる。風もないのに揺れている。ぬいぐるみは踊っていない、部屋が縮んで、迫ってくる。
ボクはトイレに逃げ込んだ。
逃げ込んだ先でも、壁が迫ってくる、天井が落ちてくる。トイレの個室の、角が縮んで、いびつな楕円形になる。おちつけ。床に落ちた髪の毛を数える。一本、二本、三本……。
ボクは目を瞑った。
こんどはまぶたのうらで、ぬいぐるみが踊りはじめた。しろ、くろ、あか。
「ボクは川崎宗則、シカゴ・カブスに所属するプロ野球選手だったが、解雇された」
虚航を征く 金沢出流 @KANZAWA-izuru
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