進歩の果てに進化する

秋待諷月

進歩の果てに進化する

 技術の進歩と法規制は、いつの時代もいたちごっこだ。

「あっ……あーあ」

 文書保管庫に押し込まれていたファイルを引っ張り出した途端、中から大量の紙束が溢れ出し、バサバサと音を立てて雪崩れ落ちた。紙製ファイルの無残なまでの変形ぶりから察するに、収容キャパを完全にオーバーしていたのだろう。湾曲してしまった綴じ具を哀れみながら、僕はその場で膝を折り、床に散らばったステープラー留めの書類をもたもたと掻き集める。

 重ねた紙束の一番上に載せた文書には、「公式競技種目における疑似反重力機能付走力増強運動靴の使用規制について」という堅苦しい見出しがのさばっていた。

 発出の大元はスポーツ庁。発出日付は六年前――令和十五年九月九日。

 なんの気無しに三枚の鑑を撥ね、現れた通知本文書のさらに下に添付された参考写真を見て、僕はようやくピンときた。

 ああ――「これ」か。

「おいおい、何やってるんだよ。大丈夫か、古池こいけ?」

「あらら、大惨事だぁ」

 しゃがみ込んだまま書面を眺める僕の背後から、投げられたのは二つの声だ。

 驚きと心配が入り混じった野太い声の主は、角刈りの厳つい大男・森下。跳ねるような明るく楽しげな声は、ハンサムショートの茶髪が似合う長身の女・草野のものである。

 二人はまず散らかった床を、それから、返事も寄越さずに文書を熟読する僕の顔を覗き込んで、やがて怪訝そうに首を傾げた。外見はまるで似ていない二人の息の合いようが可笑しく、僕は笑いを噛み殺しながら、二人から見やすいように書類を軽く掲げる。

「あったなぁこんなこと、って思ってさ。もう六年も前なんだな」

「ん? ……あー、覚えてるよ。高三のときだろ」

「私の友達、このせいで最後の大会ボロボロだったんだよね。泣いてたなぁ、あの子」

 写真を見た森下が懐かしそうに言い、草野がほろ苦く肩をすくめる。僕たち三人は同い年である。だから当時のことは、僕の中にも切ない記憶として残されていた。

 写っているのは一足のランニングシューズだ。七年前、大手スポーツメーカーから売り出されるや、たちまち一大センセーションを巻き起こした。

 いわゆるスマートシューズと呼ばれるもので、靴底とインソールに仕込まれたモジュールが、ランナーの体格や足の形、フォーム、接地角度や重心、コースコンディションまでも解析し、スプリングやソールと連動させて理想的な走りを自動補助する。

 さらに特筆すべきは、イオンクラフト機構を応用した疑似反重力アンチグラビティ発生アウトソール。靴底の装置が生み出す推力で着地時の反動を増強し、ストライドを飛躍的に伸ばすこの技術は、試用したランナーの自己ベストを平均で五~十パーセント縮めるという凄まじい性能を見せつけた。

 通称、「イオン・シューズ」。〇.〇一秒を争うトップランナーたちが、これを見逃すはずがない。彼らはこぞってシューズを買い求め、自らの走りに融合させた。結果、販売開始から半年後の大会では選手の八割以上がイオン・シューズを着用し、記録という記録が軒並み更新される事態になったのだった。

 一般庶民でも背伸びをすれば手が届く額だったこともあり、この頃には学生――当時の僕らと同世代の陸上選手の中にも、このシューズの使用者が見られ始めていた。

 だが、その段階になって示されたのが、今、僕たちが眺めているこの通知だったのである。

 主旨はつまるところが、公式大会におけるイオン・シューズの着用禁止。理由は単純明快で、「公平性を保つため」。

 最新技術の粋を集めている割に安価とは言え、それでも低所得層には非現実的な価格だ。公式の、特に学生が主役である大会において収入格差が顕著に現れることを、世論は良しとしなかった。

 連盟や協会からではない、国直々の強硬な規制は、それだけシューズの性能が突出している証明に他ならない。そしてまた、それだけに、一度でもこのシューズを履いたランナーへの影響は甚大だった。

 シューズは簡単には替えの効かない大切な相棒だ。イオン・シューズに合わせて走りを調整していた選手たちは、突然のお触れに対応しきれず、大半が大会を目前にして調子を狂わせてしまった。

 競技選手生命は短い。誰もが大会一つ一つに全てを賭けて臨む。細心の注意を払って最高の状態を作り上げてきた選手たちにとって、この仕打ちはあまりに残酷だった。

「そう言う草野は? このシューズ、履いてなかったのか」

 青春時代に思いを馳せ、しんみりしている僕の左横で、無遠慮に問うたのは森下である。あのねぇ、と、草野は呆れ顔だ。

「私が履くと思う?」

「履かないだろうな。こんなじゃじゃ馬、シューズから願い下げだろ」

「蹴り飛ばされたいのは、どこの無神経ゴリラかな?」

 低く囁き、草野がゆらりと片足を持ち上げるのを見て、森下の顔から血の気が引いた。鍛え上げられた草野の足はしなやかさと強靱さを併せ持ち、太腿は男である僕よりも太い。本気で蹴られた日には顎くらい簡単に砕けるだろう。「スミマセンでしたぁ!」と即座に頭を下げた森下の判断は正しいが、己より一回りも小さい僕の体を盾にするのはいかがなものか。

「ほら、古池も謝れって!」

「なんでだよ。人を巻き込むな」

「水くさいぞ、古池の冷血動物」

 森下は子どものように拗ねるが、両肩をがっちりと掴む力は強く、僕は彼の前に固定されたまま微動だにできなくなってしまう。森下の腕力、特に握力は人並み外れており、その気になれば僕の肩など握り潰してしまえるに違いなかった。




 森下と草野、そして僕の三人は、一年半前、この市民スポーツセンターの事務局員として採用された同期の桜だ。そしていずれも、元・競技選手という経歴を持っている。森下は重量挙げ、草野は短距離走、僕は競泳の第一線で活躍し、一時はオリンピック出場も期待されるほどだった。


 だが、二年前――大学四年生の夏。僕たちは全員が同じ理由で、突如、アスリートとして生きる道を閉ざされた。

 あの時の絶望を、僕は生涯忘れないだろう。

 そしてそれは、森下と草野も同じなのだと思う。


 それまでの人生に賭けてきた全てを一瞬で失い、それでもスポーツを愛してやまない僕たちは、この世界からひと思いに離れることがどうしてもできなかった。少しでも競技に携わっていたい一心で採用試験の二次募集を受け、現在に至っている。仕事で地域のスポーツ振興を支える傍ら、休日には大会やスポーツイベントに顔を出してはボランティア活動に精を出す僕たちは、「スポーツ馬鹿三人組」として地元ではちょっとした有名人だった。

 なお、現在僕たちが行っているのは、物品倉庫内にある文書保管庫の整理である。勤務時間中に雁首揃えてスマホで陸上大会の生中継を視聴しているところを見つかってしまい、上司から罰として命じられたものだ。とは言え、本来であれば昨年度末に廃棄されるべき保存年限五年の文書が未だに残っているということは、放置されていた業務をこれ幸いと押しつけられたのかもしれない。

「っていうか、それどころじゃなかった。定時過ぎてるし、さっさと終わらせて決勝戦観ようぜ」

 壁掛け時計を見上げた森下が、自己防衛のためだろう、やにわに話題を切り替えにかかった。その白々しさに、草野が再び呆れ返る。

「どの口が? でもまぁ、そのとおりか。古池、それ早く片付けちゃってよ」

「あ、ごめん。今すぐに――痛っ」

 慌てて大量の紙束を重ね、揃えようとした瞬間、僕の左手に小さな痛みが走った。思わず出てしまった声に、草野と森下が目を丸くする。

「何、どうしたの?」

「紙で切ったんだよ。指の股のところ。血も出てないし、かすり傷」

「普通切るか、そんなところ? 逆に器用だなぁ」

 僕の指先の不器用さは周知の事実である。森下は揶揄い混じりに笑いながら、横からさりげなく長い腕を伸ばして手際よく書類を束ね、ビニール紐で十字に固く縛り上げた。焦れったさからではなく、僕の怪我を気遣ってのことだろう。気は優しくて力持ちの無神経脳筋なのだ。

 その森下が、一番上に載せた先とは違う文書の見出しを目にして、「そういえば」と自ら話を元に戻す。

「この年って、他にもやたらめったら規制されたよな。ほら、この『緊張緩和を目的とした体内埋込型インプランタブル自律神経調節装置』とか」

「ああ、『ナーバス・アジャスター』ね。『完全反磁性マイスナースーツ』とか『神経衝撃インパルスバンド』とか、どんどん禁止されたよね」

「スポーツデバイスの黄金時代にして暗黒時代だったよなぁ」

 規制された商品名を懐かしげに列挙する草野に、僕もうんうんと頷いて同意した。

 人間の能力を底上げする技術が進歩すればするほど、生身の人間が持つ能力との乖離も進む。次々と巻き起こる技術革命に圧倒されないよう、規制する側も必死なのだろう。

 だから、二年前に出された「あの」通知も、きっと、国にとっては仕方のない措置だったのだ。

 技術の一人歩きを押し止めるために。

 全人類にとって、スポーツの世界が「平等」であるために。




 就職一年目も終盤に差し掛かった、あれは半年前の春のこと。

 事務室に収納されていた前年度ファイルを保管庫へ移動する作業の中で、僕は初めて、かつてアスリートの僕を全否定した通知の全文を目の当たりにした。

 それはやはり、平等性の観点から、進歩する技術に「待った」をかけるもの。ただし、規制対象はデバイスではない。

 淡々と掲げられた見出しは、『公式競技種目における人体組織への生物模倣バイオミメティクス適合技術利用者の出場規制について』。




「よし、終わった。私、先に行ってるね」

 台車に廃棄文書を積み終えた草野が、僕たちに声をかけつつ背中を見せた。台車を押して颯爽と歩き出す彼女の足下で、硬いひづめがカツコツと小気味のいい音を響かせる。

「おい、待て草野。俺が運ぶよ」

 分厚い書類束を左手で鷲掴んで立ち上がり、慌てて草野を追いかけようとする森下。しゃがんだままの僕を振り返り、彼は一メートル以上もある長い腕をこちらへ伸ばした。

「ほら、行くぞ!」

 笑顔とともに差し出される、大きく真っ黒な森下の掌。

 僕は、五指の間に水掻きが張った不器用な手で、彼のその手をぎゅっと握った。






 Fin.

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