第13話 我、試験航行を遂行ス
「まったく、気の滅入る夜だ」
その日は酷い濃霧の夜だった。
せっかくの月夜もこうなっては、手を突き出した先さえも定かではない。
寒冷湿潤なこの地であれば珍しくもないし、この海で生きる者として慣れた物である。が、それでもこの肌にへばりつく様な霧の夜は、こうして漁に出るのも億劫だとヤンセンは一人ごちる。
二十年はこの地で漁師をしているヤンセンにとって、この海はまさに自分の庭である。視界不良で多少の不安はあれど、僅かに差し込む月明かりの下を、ヤンセン一人と漁具を積み込めば一杯の小さな船で、ヤンセンは難なく海原を進んで行く。
と、その時であった。前方の闇から何か音が聞こえることに気がつく。
(なんだ……?)
耳を澄ます。と、やはり何か聞こえる。
巨大な何かが、波を掻き分けこちらに進んで来る……そんな音が。
さっと船の舳先に立ちランタンで海面を照らす。が、何も見えない。
……いや、それは今、ヤンセンの前に姿を現そうとしていた。
それは、船であった。
もっともヤンセンにはそれは分からない
初めは鯨か何かが、海面から飛び跳ねているのかと思った。
しかしそれは違う。
ヤンセンの乗るこの小船は10メートル弱といったところだが、その目の前に現れたものはその十倍、100メートルはあるように見える。
濃霧に溶け込むような灰色の外郭は丸みを帯びた形状で、見るからに頑丈そうである。
明らかに木製ではない。
そして重要な事はこの船が海中から突如として現れ出たという事である。
(なんだ……これは?)
ヤンセンの疑問に答えるかのように、それは轟々と排気音を立てると、彼の小船とすれ違う様にしてゆっくりと加速してゆく。
濃霧の垂れ込める海面をその巨大な船体が突き進む様はさながら海原を真っ二つに割いていくかのようだった。
ヤンセンは目の前の光景にただ唖然とする他ない。
彼が我に返った時、それは既に遥か彼方まで遠ざかっていた。
ヤンセンは呆然と、その姿が見えなくなるまで見送る。
その存在が見えなくなるとヤンセンはようやっと我に返り、急いで小船を反転させ港へと引き返すのだった。
****
「艦長、浮上完了いたしました。
甲板員展開します」
「うむ、甲板員は対空・対艦警戒を厳にせよ。……各所から浸水報告はあるか」
「ありません。懸念の後部魚雷管室も浸水は無し、……一応の潜航の可能はこれで確保できたようです」
牧島の報告に、小野瀬はゆっくりと頷く。
この日、伊163潜の修理作業が一応の完了をみた事を受け、一度試験航海を行う事になった。
結果は良好。安全の為に潜望鏡深度までではあるが一応の潜航能力も確保し、伊163は潜水艦としての機能をここに取り戻したといえる。
甲板員に続き艦橋へと上がった小野瀬と牧島。そこで牧島が思い出したように口を開く。
「そう言えばリューリャの言っていた街もこの辺りの海域沿岸でしたね」
「……あぁ」
「何でもリオラの森を含む辺境を支配する封建領主の館がある街とのことですが……」
「……あぁ」
何処か上の空で煙草を咥える小野瀬。
牧島はそれに怪訝な顔を浮かべ、「艦長?」と、問いかける。
「どうかしたんですか?」
「いや、……なんでもない。ただな……」
小野瀬はそこで煙草の火を揉み消し、ぽつりと呟いた。
「……ただ、私はここに来て未だ悩んでいるらしい」
「悩む、とは?」
「私達がこの世界に干渉することに対してだよ」
「……我々の存在は、この世界に悪影響を与える、と?」
牧島の台詞に小野瀬は頭を振りつつ答える。
「世界などと……その様な大仰な事は考えておらんよ」
「では何故?」
「……我々は、骨の髄まで軍人
であったという事だ。
軍人は、国益の為に存在する。そしてそれは、我々の行動原理でもある。
なら、その奉仕すべき国がこの世界の何処にもないのだとしたら? 私達は、一体何の為に行動しているのか……」
それがずっと小野瀬の心に引っかかっている事であった。
元の世界に帰還すべく行動する事は正しいと思う。
ただ、その為にはこの世界で自分達の存在を認めさせ、後ろ盾を得ねばならない。
だがそれはこの世界の営みに自分達も加わるということ。
それでは元の世界に戻るという、大前提が瓦解してしまう事になるのだ。
そして、その事を思う度に小野瀬は迷いを覚えるのだった。
小野瀬は思い直すように口を開く。
この艦の最高指揮官として迷いを持つことは許されないと自分に言い聞かせながら。
「……いや、これは私の感傷だな。
……忘れろ。今はただ、この伊163を無事泊地に送り届ける事だけを考えねばならん」
「艦長……」
牧島が何か言いたげな目で小野瀬を見つめる。だが、彼はそれを振り切るように霧に覆われた海に目を移す。
「航海長、本艦はこれより泊地に帰還する。方位東北東、目的地リオラの森泊地」
「……はっ! 宜候!」
ねっとりとした濃霧。それは伊163の行く末を暗示しているように小野瀬には感じられ、どうしようもない焦燥がその胸中を支配するのだった。
孤狼、異世界をゆく~伊163航海日誌~ ほらほら @HORAHORA
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