創作について考えていると、ときどき「新しいものを書かなければならない」という強迫観念に出会う。
誰も見たことのない設定。
これまでになかった人物。
新しい価値観。
新しい物語。
既存の作品に似ていると言われることは、どこか敗北のように感じられる。
「あの作品に似ている」
この言葉ほど、作家を不安にさせるものも少ない。
自分では自分の作品を書いたつもりなのに、その背後から別の作品の影を指摘される。
すると急に、自分が何かを盗んだような気分になる。
だが、そもそも完全に新しい作品など存在するのだろうか。
私たちは、何もない場所から物語を作っているわけではない。
生まれたときから無数の物語に囲まれている。
昔話を聞く。
漫画を読む。
映画を見る。
ゲームをする。
音楽を聴く。
誰かの恋愛を見て、家族を見て、成功や失敗の物語を見て、それらを通して「人間とはこういうものなのだ」と学んでいく。
創作者も例外ではない。
むしろ創作者ほど、多くの作品によって作られている。
だから創作とは、本当の意味では、無から何かを生み出すことではない。
すでに自分の中に堆積しているものを、別の形に組み替えることである。
ここで、一つの仮説を考えてみる。
サブカルチャーには、十五年から二十年ほどの周期で、似た様式が再び現れることがある。
もちろん厳密な法則ではない。
統計があるわけでもない。
流行の周期を測れば必ず十八年になる、という話でもない。
反例はいくらでもあるだろう。
ただ、そのような周期が生まれる理由として、一つ思い当たることがある。
創作者が、自分の思春期に好きだったものを、大人になって再び作るからである。
十三歳、十五歳、十八歳。
その頃に強く心を動かされた作品は、単なる「好きだったもの」では終わらない。
それは、その人の美意識の基準になる。
何を格好いいと思うか。
何を青春だと思うか。
どんな人物に憧れるか。
どんな場面で泣くか。
どんな関係を美しいと感じるか。
そうした判断の基準は、後になっても簡単には消えない。
本人が忘れていても残っている。
そして十数年が経つ。
読者だった人間が、作者になる。
観客だった人間が、監督になる。
リスナーだった人間が、音楽を作る。
そのとき、思春期に受け取ったものがもう一度現れる。
だが、それは同じ形では戻ってこない。
なぜなら、作る人間自身が変わっているからである。
そして世界も変わっている。
ここに、創作の奇妙な反復が生まれる。
過去の作品が、そのまま複製されるのではない。
過去に形成された美意識が、現在の世界を材料にして、別の作品として現れる。
たとえば、若者がバンドを組む物語を考えてみる。
ギターを持つ。
仲間を集める。
ライブハウスに立つ。
文化祭で演奏する。
音楽を通して自分を表現する。
こうした物語は決して新しいものではない。
何十年も前から繰り返されている。
だが、同じ「バンドを組む」という題材でも、その時代ごとに物語の形は変わる。
ある時代では、バンドは既成社会への反抗かもしれない。
親や学校や常識に対抗するための場所になる。
別の時代では、スターになるための手段かもしれない。
音楽を通して成功し、世界へ出ていく物語になる。
そして、また別の時代では、バンドは他人と関係を持つための装置になる。
世界を変えるためではない。
革命を起こすためでもない。
ただ、他人と同じ場所にいるため。
自分の存在を誰かに認識してもらうため。
一人ではできないことを、一緒にするため。
題材は同じである。
しかし、その題材に託された欲望は変わっている。
ここに時代が現れる。
『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品を考えてみる。
そこにある装置だけを取り出せば、驚くほど古典的である。
ギター。
バンド。
ライブハウス。
文化祭。
下北沢。
若者が音楽を通して仲間を作っていく。
だが、その中心にいる後藤ひとりという人物は、かなり現代的である。
彼女は他人の視線を過剰に想像する。
失敗すれば、人生そのものが終わったかのように感じる。
他人からどう見られているかを、自分の頭の中で延々とシミュレーションする。
対面ではうまく話せないのに、承認されたいという欲望だけは強く持っている。
そして面白いのは、作品世界そのものが、ある程度まで彼女の認知に引っ張られていることである。
彼女は自分を、誰にも相手にされない透明な人間だと思っている。
しかし少し距離を置いて見れば、かなり奇妙である。
ピンク色の長い髪。
制服にジャージ。
いつもギターを背負っている。
ほとんど喋らない。
しかも、いつの間にか学校の人気者とバンドを組んでいる。
学園祭では異様に上手い演奏をする。
本人の認識では「誰にも気づかれない陰気な生徒」である。
だが、同級生から見れば、
「普段は無口なのに、実はバンドをやっていて、ギターがやたら上手い謎の人物」
でもありうる。
むしろ十分に目立っている。
ただ、話しかけ方が分からない。
このずれを、作品はあまり説明しない。
「実は後藤さんは周囲からこう見られていました」と答えを与えない。
彼女の自己認識がどこまで正しく、どこまで歪んでいるのか。
その境界を曖昧なままにする。
ここに、作家の選択がある。
もしこの作品が、
「現代の若者は他者の視線を過剰に意識している」
と説明を始めたら、たちまち別の作品になる。
後藤ひとりは、一つの社会現象の例になってしまう。
しかし作品はそうしない。
彼女の不安を、社会学的な説明ではなく、身体の崩壊や妄想や奇妙なギャグとして描く。
つまり同じ時代を描いていても、
何を問題として見るか。
どこまで説明するか。
何を笑いに変えるか。
何を説明せずに残すか。
その選択によって作品は変わる。
ここに作家性がある。
そして、その作家性は、過去から完全に自由なものではない。
むしろ過去から受け取ったものを、どのように変形するかによって現れる。
この意味で、「影響を受けている」ということは、必ずしも創作上の弱さではない。
問題は、似ているかどうかではない。
何が変わったかである。
同じ構図。
同じジャンル。
同じ人物類型。
同じ物語装置。
それらを二つの時代に置いたとき、どこが変わるのか。
その差分の中に、時代が現れる。
そして同じ時代、同じ題材を複数の作家が描いたとき、どこが変わるのか。
その差分の中に、作家が現れる。
だから作品を読むとき、本当に面白いのは、
「これは何に似ているか」
で終わることではない。
むしろ、
「似ているのに、なぜこんなに違うのか」
と問うことである。
過去との差分が、時代性になる。
同時代との差分が、作家性になる。
この考え方を取るなら、「新しさ」というものも少し違って見えてくる。
新しさとは、過去に存在しなかったものを作ることではない。
そんなことは、おそらくほとんど不可能である。
愛。
嫉妬。
友情。
孤独。
成長。
裏切り。
成功。
失敗。
人間が物語にしてきたことなど、何千年も前からそれほど変わらない。
人物類型も似ている。
物語構造も似ている。
ある人物が何かを望み、妨害され、傷つき、変化する。
基本的な構造だけを見れば、昔から同じことをしている。
それでも新しい作品は生まれる。
なぜなら、「同じこと」が同じ形では経験されないからである。
承認されたいという欲望は古い。
だが、承認の形は変わる。
愛されたいという欲望も古い。
だが、愛を確認する方法は変わる。
孤独も古い。
しかし、二十四時間誰かと接続できる世界で感じる孤独と、手紙が何週間も届かない世界で感じる孤独は同じではない。
欲望は反復する。
状況は変わる。
そして人間は、その変化した状況の中で、古い欲望を新しい仕方で経験する。
創作は、その差分を描く。
だから新しさは、無から生まれるものではない。
反復の中に生まれる。
古いものが、同じ形では戻ってこられない。
その変形こそが新しさである。
これは、創作者個人についても同じである。
作家は、自分が好きだったものから逃げられない。
好きだった作品。
好きだった人物。
好きだった場面。
好きだった音楽。
それらは、後になって作品のどこかに現れる。
だが、問題はそれを消すことではない。
むしろ、なぜ自分はそれを好きだったのかを見ることである。
なぜ、この関係に惹かれたのか。
なぜ、この人物を格好いいと思ったのか。
なぜ、この結末が忘れられないのか。
なぜ、この時代の物語を、今でも青春として感じるのか。
そこまで考えれば、影響は単なる模倣ではなくなる。
自分の美意識が、どこから来たのかが見えてくる。
そして、その美意識と現在の自分との間には必ずずれがある。
十五歳の自分が好きだったものを、三十歳の自分がそのまま好きでいるとは限らない。
昔は格好いいと思ったものが、今見ると滑稽に見える。
昔は当然だと思った関係が、今では不自然に感じられる。
昔は感動した結末に、今では違和感を覚える。
このずれが重要である。
なぜなら、作品はそこから生まれるからだ。
昔の自分と今の自分。
過去の文化と現在の文化。
受け取ったものと、自分が作りたいもの。
その間に生じる摩擦が、作品を変形させる。
だから創作とは、影響から自由になることではない。
影響と現在との間に生じたずれを書くことなのかもしれない。
ここで、十八年という仮説に戻る。
もし本当に、ある種の文化が十五年から二十年ほどの周期で戻ってくることがあるのだとすれば、それは単なる懐古ではない。
かつてその文化を受け取った子どもが、今度は作る側に回ったからである。
そして彼らが作るものは、記憶の複製ではない。
記憶を現在に置き直したものになる。
だから似ている。
しかし違う。
バンドは同じでも、そこで描かれる孤独が違う。
恋愛は同じでも、そこで恐れられるものが違う。
家族は同じでも、その家族に期待されるものが違う。
青春は同じでも、「青春らしい」と感じる瞬間が違う。
この差分を見ることは、そのまま時代を見ることでもある。
そしてもう一つ重要なのは、作家自身もまた、自分の時代を完全には理解していないということである。
むしろ作品の中で最も時代的な部分は、作者が「これは現代的だ」と意識して書いたところではないことが多い。
作者が説明しなかったところ。
当然だと思って通り過ぎたところ。
なぜか疑問を持たなかったところ。
そこに時代は強く残る。
たとえば後世の読者は、現代の作品を読んで、
「なぜこの人たちは、こんなに他人からどう見られるかを気にしているのだろう」
と思うかもしれない。
あるいは、
「なぜこの時代の人物は、こんなに『自分らしさ』を大切にするのだろう」
と思うかもしれない。
私たちには説明する必要すらないことが、未来の読者には奇妙に見える。
逆に、昔の作品を読むとき、私たちも同じことをしている。
なぜ、この人物は家名のためにここまで苦しむのか。
なぜ、結婚がこれほど重大なのか。
なぜ、名誉を失うことが死より恐ろしいのか。
当時の作者にとって説明不要だったものが、現在の私たちには時代性として見える。
つまり時代性とは、作者が意識して描いたものだけではない。
むしろ無意識に受け入れていたものの中に現れる。
そしておそらく、作家性も似ている。
作家本人が、
「これが私の個性です」
と思っている部分だけが作家性ではない。
むしろ本人が何度書いても繰り返してしまうもの。
どうしても気になってしまう関係。
なぜか毎回登場する人物。
何度でも戻ってしまう葛藤。
そこでいつも同じようにためらう。
いつも同じものを残し、同じものを切り捨てる。
その反復の中に、本人すら気づいていない作家がいる。
だから作家は、自分の個性を発明する必要はない。
自分の影響を消す必要もない。
必要なのは、自分が何を繰り返してしまうのかを見ることである。
何に何度でも惹かれるのか。
何を何度でも嫌悪するのか。
どんな人物を救いたくなるのか。
どんな人物だけは許せないのか。
どんな場面になると、必ず笑いに逃がすのか。
どんな場面では、どうしても笑えなくなるのか。
その反復こそが、自分の輪郭になる。
この意味で、作家性とは独創性ではない。
反復の癖である。
そして新しさとは、その反復が新しい時代にぶつかったときに生じる変形である。
だから創作者は、過去を恐れる必要はない。
似ていることを恐れる必要もない。
むしろ怖いのは、自分が何を受け取ったのかを考えずに、それをそのまま再生産することである。
昔好きだったものを、そのまま格好いいと思う。
昔感動した構造を、そのまま感動的だと思う。
昔の価値観を、そのまま普遍的だと思う。
そこに疑いがなければ、作品は単なる懐古になる。
しかし過去と現在のずれを見るなら、同じ素材から別の作品が生まれる。
だから創作者が問うべきなのは、
「これは新しいか」
ではない。
「これは何を受け継いでいるのか」
である。
そして、
「受け継いだものは、今の世界に置いたとき、どこで壊れるのか」
である。
その壊れ方に時代が現れる。
その壊れ方をどう描くかに、作家が現れる。
完全に新しいものを書く必要はない。
そんなものを書くことは、おそらく誰にもできない。
むしろ、自分の中にすでにある古いものを見る。
それがどこから来たのかを知る。
そして、現在の自分と現在の世界にぶつける。
そこで生じたずれから逃げない。
創作とは、過去を捨てることではない。
過去を現在の中でもう一度壊すことである。
その破片を拾い直し、自分なりの形に組み上げる。
そうして出来上がった作品も、いつかまた誰かの中に残る。
その誰かが十数年後、別の時代にそれを持ち出す。
そしてまた壊す。
文化は、おそらくそうやって続いていく。
新しいものが次々に生まれるのではない。
古いものが、同じ姿では生き残れないから、何度も姿を変える。
その変形の連鎖を、私たちは新しさと呼んでいるのかもしれない。
だから作家は、自分が誰の子どもであるかを恥じる必要はない。
ただし、その親と同じものを書く必要もない。
受け取ったものを、そのまま返さないこと。
自分の時代を通すこと。
自分の疑いを通すこと。
自分の認識を通すこと。
そして、昔好きだったものと今の自分との間に生じた違和感を、なかったことにしないこと。
そこに作品が生まれる。
作家とは、何もないところから新しいものを作る人間ではない。
過去から受け取ったものを、同じ形では次へ渡せなくなった人間である。