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創作環境の変化について思うこと

最近、ネット創作界隈でよく目にする言葉があります。

「AI使ってます」
「AI使ってません」

いや、そこまで大きな声で言う必要、ありますか?

……と、ハッキリ言わせてもらいますが。
それ、作品の質と何か関係ありますか?

皆さん、辞書を引きながらワープロソフトで文章を書いて、それをいちいち誰かに申告しますか?

「この作品はATOKを使用しています」
「この物語は広辞苑第七版を参照しています」
「この設定はWikipediaと専門ブログ三件を元に構築されています」

――そんな注釈、今まで見たことがありますか?

じゃあ、ウィキペディアで調べた知識は全部アウトで、必ず自分の足で現地取材しないと創作として不純なんでしょうか。
歴史物を書くなら古文書を解読しないとダメですか。
医療ものを書くなら医学部を出ていないとダメですか。

プロ作家でさえ、参考資料と資料集と過去作の山に囲まれて書いています。
それを誰も「ズルだ」とは言いません。

それなのに、なぜAIだけがここまで特別扱いされるのか。

正直に言えば、そこにあるのは技術論でも倫理論でもなく、
ほとんど信仰か、あるいは恐怖に近い感情反応だと感じています。



AIなんて、しょせんはただの道具です。

どれだけ高度に見えても、その本質は
「膨大なデータから確率的に単語を並べているだけ」
という仕組みです。

意思も欲望も、美意識も、責任感も、後悔も、罪悪感も持たない。
あるのは重みづけされた数値と、統計的な予測アルゴリズムだけ。

複雑に見えても、そこに意味を見出しているのは、常に人間の側です。

AIが勝手に物語を書きたくなったり、
読者を感動させたくて震えたり、
「このラストは倫理的にどうなんだろう」と悩んだりすることはありません。

悩むのは、迷うのは、恥じるのは、誇るのは、
全部、道具を使っている人間の側だけです。



では、ここで一つ問いを投げます。

あなたが書きたい文章。
あなたが描きたい物語。
それは、ただの確率にすべて支配される程度のものなんでしょうか?

もし本当にそうなら、
AIを使おうが、使わなかろうが、
そもそも最初から「その程度」だっただけの話です。

逆に言えば、

・どんな文章を書きたいのか
・どんな感情を読者に残したいのか
・どんな結末だけは譲れないのか
・どこだけは絶対に嘘をつきたくないのか

そういう輪郭が自分の中にきちんとある人間なら、

AIを使っても、
使わなくても、
推敲に使っても、
ブレストに使っても、

最後に残る「文章の色」は変わりません。

道具は方向を決めません。
方向を決めるのは、いつだって書き手です。



で、自分はどうかと言えば、
AIを使っています。

理由は単純です。

人間と違って、AIは
忖度まみれの綺麗事だけの感想を吐かないからです。

気に入らなければ率直に否定もするし、
構成が破綻していれば論理的に指摘もしてくるし、
感情の流れが不自然なら容赦なく突っ込んできます。

相手が人間だと、どうしても
・気を遣わせた
・遠回しに濁された
・社交辞令と本音の区別がつかない
という問題が生じます。

AIにはそれがありません。
空気も読まないし、好かれようともしない。

最終決定権は常にこちらにありますが、
「他人の顔色をうかがわない雑音」
としては、今のところ便利な相棒です。

それ以上でも以下でもありません。



ここまで偉そうなことを並べましたが、
これはあくまで一個人の創作スタイルの表明にすぎません。

AIを使う人も、
一切使わない人も、
嫌悪する人も、
無関心な人も、

どうぞお好きなように、創作と向き合えばよろしいと、心から思っています。

創作において最悪なのは
「正解を外から押しつけられること」
だと、個人的には思っているので。



自分が納得できるやり方で書く。
それ以上でも以下でもないはずです。

他人がどんな道具を使おうが、
どんな方法で書こうが、
どんな思想で拒絶しようが、

それは私の人生にも、
私の価値観にも、
私の原稿にも、
一切、関係のないことです。

だから今日も、
誰の正義にも寄りかからず、
誰の恐怖にも迎合せず、

ただ、自分の書きたいものだけを書いています。 仲良しサークルで、腐って死にたくないもので。

以上、人に嫌われる覚悟こそ、今の自分に必要な創作意識であるという近況報告でした。

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