第17話 踏み出す一歩[其の弐]

 コーポ綿津見わたつみ。西洋を彷彿とさせるこの煉瓦造りのアパートは、秋乃たちが暮らす綿津見ちょうのほぼ中心部に存在する。

 最近リフォームしたばかりだという、二階建て六戸のアパート。その二〇二号室を訪ねるため、秋乃は先日切絵町きりえちょうで購入した自転車を走らせていた。

 青狐寮あおごりょうからアパートまでの経路は、湊が予めメールアプリで伝えてくれていたため、秋乃はほとんど道に迷うことなく、アパートを見付けるに至った。合流したら、湊に礼を言わなければ。

 鳥居内は現実世界そとと比べて、気温の変化がやや緩やかだ。七月も二週目に入ったが、まだ二十度台が続いている。ありがたい。

 駐輪場の空きスペースに自転車を停めて、二階へ続く階段に進む。程なくして、秋乃はが待っている二〇二号室のドアの前に立った。

 家主、もとい班長は男性だと聞いているので、どうにも緊張感が拭えない。秋乃はそっとインターフォンを鳴らして、中からの反応を窺った。

 反応はすぐに返って来たが、秋乃が想像していたものとは相当な齟齬があった。

「秋乃秋乃秋乃秋乃!」

「ひっ!」

 強い既視感は、秋乃にここから先の展開を予見させた。大声とともに、ドタドタと迫り来る足音が誰のものか。言うに及ばずである。

 ドアが勢いよく開け放たれた。

「秋乃! よく来たな! 入れよ! みんな待ってるぞ!」

 勝手知ったる他人の家にもほどがある。

 曇りのないピュアな笑顔で、湊は秋乃を屋内に招き入れた。

「湊」

「どしたー?」

「ここ、湊の家じゃないわよね?」

「? オレの家は青狐寮A棟だ!」

「知ってる」

「へ?」

「なんでもない」

 湊に案内され、通されたのは十二帖ほどのリビングだった。男性の部屋らしい、と言って良いのか分からないが、全体的に簡素で落ち着いた印象を受けた。主張の強過ぎない配色をした家具や、きめ細やかに整頓された生活用品や雑貨から、家主の性質の片鱗が窺い知れた。

 リビングには、既に三人が座って待機していた。大人の男性と女性、そして要だ。

 三人が一様にこちらを見る。最初に口を開いたのは男性だった。

「初めまして。早瀬秋乃さん」

 癖のない黒髪。チタンフレームの丸眼鏡。ライトグレーのパーカー。彼の身なりは、このリビングの雰囲気にぴったりと嵌っている。

「さて、これで揃ったわね」

 男性同様、女性がにこやかに言う。

 お洒落な女性だ。特にウェーブの掛かった髪と、シックなアクセサリーが秋乃の目を引いた。

「早瀬さんもアップルティーで良いかしら?」

「はい」

「湊が大の林檎好きだから、湊がいる時は、だいたい皆でこれを飲むの」

「まあな!」

 会話に入りつつ、湊はそそくさとテーブルの周りに用意されたクッションに腰を下ろした。

「秋乃も座れよ!」

「う、うん」

 隣のクッションをバシバシと叩く湊。彼の無垢な勢いに押され、秋乃は言われた通り席に着いた。

「改めて――初めまして。ぼくは湯川拓巳ゆかわたくみ。ここの班長だよ」

「副班長の戸松芽衣とまつめいよ。よろしくね」

 二人がそれぞれ名乗った。秋乃は真摯に頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「うんうん」

 拓巳が緩く頷く。ふと、彼の視線が要の方を向いた。考え事でもしているのか。要は吊り目を伏せ気味に、ずっと沈黙を続けているようだった。

「要君」

 拓巳に話し掛けられると、要はようやくこちらを見た。

「はい」

湯川班ここが君の新しい・・・居場所になれるように、ぼくたちも頑張るから」

「……ありがとうございます」

 拓巳に謝意を述べる要。けれど、心なしか空気が重い。秋乃の知らない事情があるのだろう。下手に触れない方が良さそうだ。

 何気なく湊の方に視線を逃した秋乃はしかし、ここでも意図せず違和感を覚えた。

「湊……?」

 湊はニコニコ顔でアップルティーを啜っている。

 別段おかしなところはない。好きな物を飲んでいるに過ぎない。――筈なのに、何かが違う・・・・・何かが妙・・・・だ。何故だか分からないが、そんな気がしてならなかった。

 秋乃は、胸中にくすぶる違和感の正体を探った。

「ねぇ、湊」

 導き出した答えは、自分でも拍子抜けするくらい単純で、言語化も容易いものだった。

「ん? どしたー?」

「ひょっとして、落ち込んでたりする?・・・・・・・・・・

 瞬間、湊の顔から表情が消えた・・・・・・。時を同じくして、拓巳と芽衣の顔が強張った。

 何が起こったのか。何が起こっているのか。秋乃は頭が真っ白になるほど平静を失って、この場に凍り付く他なかった。

「オレが……落ち込んでる?」

 体を芯から冷やし、為す術を失った秋乃に、湊が問うてくる。無機質な声。普段の無垢な大声は、もはや面影すらない。

「ち、違うならいいの。なんとなく、そういう風に見えただけで……」

 しどろもどろに答える秋乃。湊がおかしい。今の湊は、秋乃たちが知っている湊ではない。たったそれだけのことに、酷く恐怖しながら。

 しかし、この変化は序の口に過ぎなかった。

「……まただ……」

「え?」

 無機質な声が、震えを伴う。湊の視線が、下を向く。

「なんでまだいるんだ、いつまでオレの中にいるつもりだ、出て行けよ、早く、出て行け、早く、出て行け出て行け出て行け出て行け出て行け出て」

「湊君っ!」

 秋乃も要も絶句する中、弾かれたように行動したのは拓巳だった。彼は早急に身を乗り出し、湊の目の前にある物を突き出した。

 黒い兎の形をしたブローチ。それが一瞬の輝きを放つと同時に、嵐が去ったような静寂が訪れた。

 耳鳴りがするほどの静寂は、湊が元に戻るまで・・・・・・続いた。が、時間としては短いものだったのかも知れない。

 もう何度も見たきょとん顔。その顔で、湊はこの場にいる全員を見回した。何があったのか・・・・・・・全く理解出来ていない・・・・・・・・・・表情をして。

「ん? どしたー?」

 先ほどの変貌は跡形もない。いつもの湊だった。

 秋乃は内心怯えていた。自分の知らない湊が、確かにここにいた。突然現れて、消えた。

「ほら、お茶。冷めるよ?」

「? おう」

 拓巳に促され、湊は再びティーカップに口付け、まだ腑に落ちない様子で、好物のアップルティーを飲み進めていく。

 秋乃と目が合った芽衣は、何も言わずに苦笑するだけだった。



【To be continued】

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死者たちは祭壇でおどる 福留幸 @hanazoetsukino

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