第17話 踏み出す一歩[其の弐]
コーポ
最近リフォームしたばかりだという、二階建て六戸のアパート。その二〇二号室を訪ねるため、秋乃は先日
鳥居内は
駐輪場の空きスペースに自転車を停めて、二階へ続く階段に進む。程なくして、秋乃は
家主、もとい班長は男性だと聞いているので、どうにも緊張感が拭えない。秋乃はそっとインターフォンを鳴らして、中からの反応を窺った。
反応はすぐに返って来たが、秋乃が想像していたものとは相当な齟齬があった。
「秋乃秋乃秋乃秋乃!」
「ひっ!」
強い既視感は、秋乃にここから先の展開を予見させた。大声とともに、ドタドタと迫り来る足音が誰のものか。言うに及ばずである。
ドアが勢いよく開け放たれた。
「秋乃! よく来たな! 入れよ! みんな待ってるぞ!」
勝手知ったる他人の家にもほどがある。
曇りのないピュアな笑顔で、湊は秋乃を屋内に招き入れた。
「湊」
「どしたー?」
「ここ、湊の家じゃないわよね?」
「? オレの家は青狐寮A棟だ!」
「知ってる」
「へ?」
「なんでもない」
湊に案内され、通されたのは十二帖ほどのリビングだった。男性の部屋らしい、と言って良いのか分からないが、全体的に簡素で落ち着いた印象を受けた。主張の強過ぎない配色をした家具や、きめ細やかに整頓された生活用品や雑貨から、家主の性質の片鱗が窺い知れた。
リビングには、既に三人が座って待機していた。大人の男性と女性、そして要だ。
三人が一様にこちらを見る。最初に口を開いたのは男性だった。
「初めまして。早瀬秋乃さん」
癖のない黒髪。チタンフレームの丸眼鏡。ライトグレーのパーカー。彼の身なりは、このリビングの雰囲気にぴったりと嵌っている。
「さて、これで揃ったわね」
男性同様、女性がにこやかに言う。
お洒落な女性だ。特にウェーブの掛かった髪と、シックなアクセサリーが秋乃の目を引いた。
「早瀬さんもアップルティーで良いかしら?」
「はい」
「湊が大の林檎好きだから、湊がいる時は、だいたい皆でこれを飲むの」
「まあな!」
会話に入りつつ、湊はそそくさとテーブルの周りに用意されたクッションに腰を下ろした。
「秋乃も座れよ!」
「う、うん」
隣のクッションをバシバシと叩く湊。彼の無垢な勢いに押され、秋乃は言われた通り席に着いた。
「改めて――初めまして。ぼくは
「副班長の
二人がそれぞれ名乗った。秋乃は真摯に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「うんうん」
拓巳が緩く頷く。ふと、彼の視線が要の方を向いた。考え事でもしているのか。要は吊り目を伏せ気味に、ずっと沈黙を続けているようだった。
「要君」
拓巳に話し掛けられると、要はようやくこちらを見た。
「はい」
「
「……ありがとうございます」
拓巳に謝意を述べる要。けれど、心なしか空気が重い。秋乃の知らない事情があるのだろう。下手に触れない方が良さそうだ。
何気なく湊の方に視線を逃した秋乃はしかし、ここでも意図せず違和感を覚えた。
「湊……?」
湊はニコニコ顔でアップルティーを啜っている。
別段おかしなところはない。好きな物を飲んでいるに過ぎない。――筈なのに、
秋乃は、胸中にくすぶる違和感の正体を探った。
「ねぇ、湊」
導き出した答えは、自分でも拍子抜けするくらい単純で、言語化も容易いものだった。
「ん? どしたー?」
「ひょっとして、
瞬間、湊の顔から
何が起こったのか。何が起こっているのか。秋乃は頭が真っ白になるほど平静を失って、この場に凍り付く他なかった。
「オレが……落ち込んでる?」
体を芯から冷やし、為す術を失った秋乃に、湊が問うてくる。無機質な声。普段の無垢な大声は、もはや面影すらない。
「ち、違うならいいの。なんとなく、そういう風に見えただけで……」
しどろもどろに答える秋乃。湊がおかしい。今の湊は、秋乃たちが知っている湊ではない。たったそれだけのことに、酷く恐怖しながら。
しかし、この変化は序の口に過ぎなかった。
「……まただ……」
「え?」
無機質な声が、震えを伴う。湊の視線が、下を向く。
「なんでまだいるんだ、いつまでオレの中にいるつもりだ、出て行けよ、早く、出て行け、早く、出て行け出て行け出て行け出て行け出て行け出て」
「湊君っ!」
秋乃も要も絶句する中、弾かれたように行動したのは拓巳だった。彼は早急に身を乗り出し、湊の目の前にある物を突き出した。
黒い兎の形をしたブローチ。それが一瞬の輝きを放つと同時に、嵐が去ったような静寂が訪れた。
耳鳴りがするほどの静寂は、湊が
もう何度も見たきょとん顔。その顔で、湊はこの場にいる全員を見回した。
「ん? どしたー?」
先ほどの変貌は跡形もない。いつもの湊だった。
秋乃は内心怯えていた。自分の知らない湊が、確かにここにいた。突然現れて、消えた。
「ほら、お茶。冷めるよ?」
「? おう」
拓巳に促され、湊は再びティーカップに口付け、まだ腑に落ちない様子で、好物のアップルティーを飲み進めていく。
秋乃と目が合った芽衣は、何も言わずに苦笑するだけだった。
【To be continued】
死者たちは祭壇でおどる 福留幸 @hanazoetsukino
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