君が愛した僕の嘘

 白状すると、怖気づいたのは俺だ。

  

 実際に顔を見たら、今から彼をがっかりさせるんだ、という実感がわいてきて、逃げ出したくなって、走って逃げようとする足をかろうじて押さえつけながら、桃うさぎのアカウントから逃げ道を作ろうとしていた。まっすぐな目をした若者は俺の醜い正体に気づかないまま無邪気に隣でスマホの画面を見ていた。この顔を曇らせるために、わざわざ金を使わせて、こんな遠いところまで連れ出して、俺は本当に悪くてひどい大人だと思う。

 一瞬でも思ってしまったことが恥ずかしい。こいつなら、俺のことをちゃんと考えてくれるんじゃないか。こいつなら、俺のを理解できるんじゃないかと。

 でも、きっとこのには無理だ。


 だましてごめんアッキー。


 俺は書きかけの文言を消して、ポケットにスマホをしまい込み、雨の降る外へと走り出る。冷たい雨が身体を打つ。



 俺はそのまま桃うさぎのアカウントを消した。一刻も早くアッキーの目の前から去る必要があった。桃うさぎに愛着がなかったわけじゃない。だけど、これから先ずっとアッキーを手放した日のことを思い出すよりは、アッキーごと、桃うさぎを俺の人生から切り離パージしてしまった方がいいと思ったのだ。

 思ったよりアッキーは俺の中に根を張っていた。スマホが震えない夜は苦しかったし、弱音まじりのポエムを垂れ流すこともできなくなった。新しいアカウントを作ることも考えたが、アッキーにまた巡り合ってしまいそうで、何度もやめた。


 あの日を境に俺の人生は凍りついてしまい、恋愛はおろか人間関係までうまく行かなくなり、ついに会社を辞めた。

 それから今まで──目を開けてるのに死んでいる、なのに死んでない、そんな矛盾を孕みながら、生きたしかばねのように暮らした。



 そんな折のことだった。姪が結婚式を挙げると言ってきたのは。


「いくつになったんだっけ」

「22」

 電話越しの姪の声は低く大人びていた。

「──おじさん、知ってた?」

「なにが」

「私の初恋はおじさんだったんだよ。5歳の時」


 細かい記憶は全部抜け落ちていた。不透明な壁の向こう側に置いてきてしまっていた。2度と取りに戻れない「向こう側」に置き去りにしたもののことを、俺は忘れかけている。そうして姪に取り出してもらわなければ思い出せなくなってしまうくらいには。

 

「それは気づかないな」

「『大きくなったら優紀くんと結婚する』って言ったじゃん」

「そうだったかな……」


 そこでなにかのパズルがうまく噛み合って、俺はアッキーのことを思い出していた。

「……22か」

 アッキーもそのくらいの歳になっているんだろうか。と、ふと考える。あの時俺が「桃うさぎだ」と名乗り出ていたらどうなっていただろうか、俺はここにいただろうかと。




 結婚式に出るための費用を親に都合してもらい、様にならない借り物の衣装を着て、普段縁のない煌びやかなホールに立つ。

 姪は美しく、甥になる若者は緊張の面持ちだ。拍手と涙と喜び、そして少しの感傷が入って、宴もたけなわの席。

 俺はずっと遠くを見ていた。遠くというか、「向こう側」を。俺がついぞ関わることのなかったあらゆるものを封じ込めた、見えない壁に寄りかかって。

 

「あの」

 隣に座っていた男が、声をかけてきた。

「俺たち、どこかで会いませんでしたか?」

 俺は男を見た。男も俺を見た。

「どこかで?」

「ええ、どこかで……昔」

 男は若く、姪と同じくらいに見える。席に名前が付けられていて、「石崎彰人」と書いてある。俺の中で、何かが琴線に触れた。

「……あきと、って読むのかな」

「──はい」

 ゆるく頷いて、男は小さく笑った。

「今日を、ずっと待ってたのかもしれません、俺」

 俺は言葉が出ない。ゆっくりと瞬きをすると、沈み込んでいくような感覚と共に、失われていた何かが蘇ってくるのがわかった。


「ずっと、探してました。ずっと」


 ……俺も。


 その一言が出ない。けど、彼はきっと俺の言葉を待ってくれるだろう。

 俺は彼のことを知っている。だから、わかる。

 頷く。それだけでよかった。

 ……俺たちの間には、他に何も要らなかった。



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僕が愛した君の嘘 紫陽_凛 @syw_rin

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