劉禅を考える

水城洋臣

劉禅を考える

 三国時代の曹魏そうぎ孫呉そんご蜀漢しょくかんの三国の内、蜀漢を建国した劉備りゅうびの息子であり、蜀漢の最後の皇帝となった劉禅りゅうぜん

 父の建てた国を滅ぼした、というより黙って明け渡した息子として、暗愚だ無能だと、古くからネタにされ続けている。

 ただ本当にそうなのかと考えた時に、やはり疑問も残る。


 まずは劉備とその集団と、蜀という土地の背景を考えねばならない。


 劉備自身は、皇族の血筋ではあるが、前漢の頃まで遡ってしまう遠縁であり、貧しい暮らしをしていたところから出発している。

 子供の頃からの付き合いである簡雍かんようをはじめ、のちに将として活躍する関羽かんう張飛ちょうひらとも、そうした時期に出会っている。

(ちなみに一般認知度も高い「桃園の誓い」で描かれる義兄弟の誓いは後世の創作で、正史においてどんな出会いをしたかは残っていない)


 いずれにしても、そこから各地を転々と渡り歩いて、本拠地こそ持たないながらも名を挙げた流浪の集団であり、いわば劉備は任侠集団の親分なわけだ。

 諸葛亮しょかつりょう孔明こうめい)は、そんな劉備軍団に後から参加し、劉備の正統性と、組織の安定化を図った、いわば「任侠ヤクザ組織を、構成員はそのままに合法的政治結社に育て上げた顧問弁護士」と言ってもいいかも知れない。



 一方で蜀(益州えきしゅう)と言う土地はどうか。

 周囲を山に囲まれた肥沃な土地で、都から非常に離れた立地をしている。

 それゆえに後漢末期に益州えきしゅう刺史ししとして赴任した劉焉りゅうえんは、劉姓(皇族)でありながらも独立心が強く、自ら望んで辺境である益州へと赴任している。

 そして黄巾の乱で乱れた天下を治めるにあたり、各地の州刺史しゅうしし州牧しゅうぼくへと変えるように上奏したのも劉焉だ。

 州刺史は、あくまでもその土地の監察官であって、少なくとも建前上の軍権は持っていない。もちろん自ら雇った私兵を抱えている事もままあるわけだが、これが州牧になると、正式に軍権を持つ事になる。

 朝廷に正規軍の派遣を上奏せずとも、自らの判断で、国家の名のもとに、軍を動かせるようになる。

 この違いは非常に大きい。各地の反乱を臨機応変に鎮圧できるようになるという建前のもと、後年の群雄割拠への道を進めてしまう事になるわけだ。

 辺境である蜀へ赴任し、自ら上奏して設置させた州牧に就任して軍権を確保。

 そして同時に(当時の黄巾の乱の影響で、一緒くたに邪教扱いされていた)道教集団の五斗米道ごとべいどうを、自分の政権下で庇護している。

 さらには都の方面に抜ける各地の桟道インフラを、次々に破壊して回っている。

 完全に後漢王朝を見限りながらも利用し、蜀に独立国を作ろうという動きをしていたわけだ。

 当然ながら劉焉は、の人材を配下として集めていたわけだが、おりしも天下は董卓の専横からの、董卓暗殺、次いで王允の失脚。長安の都では李傕りかくが政権を取って好き放題。

 とは言え誰も李傕に従う事なく、天下は群雄割拠の様相へと変わってしまった。


 長安に出仕していた劉焉の長男・劉範りゅうはん、次男・劉誕りゅうたんは、そんな李傕を討つために挙兵したが、李傕に敗れて処刑された。その報告を聞いた劉焉は深く悲しんで病没してしまった。


 こうして蜀では、劉焉の末子である劉璋りゅうしょうが益州牧の座を継いだわけだが、彼はもともと父とは不仲だった。

 朝廷に出仕して時の後漢皇帝である献帝けんていに仕えていた折に、父である劉焉の暴走とも言える独立活動を踏みとどまらせるために説得するほどの、いわば「漢の忠臣」だったわけだ。


 そんな劉璋が後継となった以上、蜀は劉焉の集めていた旧独立派と、劉璋の周りにいる忠臣派へと別れてしまうのは明らかである。

 当然、蜀の地がひとつにまとまる事は無い。


 最も目立つのが、劉焉の庇護していた五斗米道勢力の離反である。

 当時、五斗米道の教祖になっていた張魯ちょうろが、漢中かんちゅうで独自に統治を始め、朝廷から官位を貰うなど、事実上の独立を果たしていた事だろう。結果として蜀の劉璋と漢中の張魯は、この後もずっと冷戦状態になっている。

 そうした劉焉時代の旧派閥が次々に離反や反乱を繰り返した事により、旧新派閥を問わず「劉璋に蜀を治める事は出来ない」という空気が醸成されていく事になるのだ。



 そんな蜀に現れたのが、流浪の任侠集団を率いていた劉備である。

 主に劉璋の下では出世する事が出来ないと判断した旧派閥が中心になって劉備を呼び込んでいるが、漢への忠臣という姿勢だった新派閥も、「蜀の内紛を何年も収める事が出来ず、曹操に頭を下げた劉璋」よりも「同じ皇族であり、漢帝の忠臣として反曹操を掲げる劉備」の方がトップにふさわしいと断じたという所だろう。


 そうして誕生したのが、蜀の劉備政権だ。

 この政権の看板は「漢帝国の正統を守る事」と「益州(蜀地方)の安定化」の二本柱である。

 劉備とその側近たちは全員、蜀地方の地縁がない。言ってしまえば余所者の集団である。手っ取り早い安定化の為には中央集権化による軍事独裁になる。

 もともと劉備が率いていた将兵たちの武力によってギロリと睨みを利かせながら、当の劉備は「一緒に漢帝国の為に頑張ろうや、な?」と、笑顔で肩ポンして回るわけだ。

 まさにヤクザ方式の治安維持である。


 劉備死後の南中反乱をはじめ、たびたび起こる反乱にも、基本的には諸葛亮がこのスタイルを引き継いで鎮圧して回っている。

 こうした武力威圧による強制的な安定化をしながら、漢帝国への忠義を掲げる事で共通の目標を提示して、国家を一本にまとめるのである。


 後漢皇帝を擁立していたころから法整備を進めて文官統治による官僚政治システムを作っていった曹魏や、地元豪族のパワーバランスを調整する議長役として皇帝が存在する孫呉などと比較すると、その理念ゆえに常に戦時体制になってしまう蜀漢は、いわば皇帝権力が最も強い軍事独裁政権なのである。

(ちなみにどの国のシステムも弱点を抱えていて、後述する蜀漢の国力の疲弊はもちろん、曹魏は強力になった文官勢力の中から司馬一族の台頭が起こり、孫呉は豪族のパワーバランスが少し乱れるだけで毎度のように政治的内紛が起きている)



 さて、そんな蜀漢であるが、劉備の崩御によって十代で後継者になってしまった劉禅が登場してくる。

 劉禅は全権を諸葛亮に委任し、諸葛亮は先帝(劉備)の意思を継いで、幾度も北伐を敢行。しかしいずれもが失敗に終わり、諸葛亮は陣中に没する。


 この頃になると、初めの頃は両立して上手く機能していた二本柱が、互いに足を引っ張り合ってしまう両天秤へと変わってしまうわけだ。


 曹魏に滅ぼされた漢帝国の後継国家として、理想と誇り重視の主戦派は「決して戦いを止めるわけにはいかない!」

 度重なる北伐の失敗で国力が疲弊した以上、あくまでも蜀の安定こそ現実的な優先課題とする厭戦派は「このまま戦いを続ければ、兵も民もみんな死んでしまう!」


 要するに劉禅は、この状況で後者、つまり厭戦派の意見を汲んで降伏の選択をしたわけである。

 日本人としては、先の大戦末期における宮城事件や玉音放送を思い出してしまう状況ですわな。


 そして降伏後の逸話として引き合いに出される「蜀の事を思い出すか」と問われた際に劉禅は「ここでの暮らしは楽しいので、思い出す事はない」と答えたとされ、誇りも何もない暗君だと言われる所以である。


 しかし本当にそうか。


 目立った功績や善行が無いというが、常に信頼した臣下に政治や軍事を委ねているのは、自身よりも家臣の方が能力や政治的判断力が上であると認めているからこそではないのか。

 そもそも蜀漢は皇帝権力が強い軍事独裁政権である。やろうと思えばいくらでも自分の思い通りに国を動かせる。思い通りの生活ができる。

 言い方を変えれば、その胸三寸で歴史に残るほどの悪行を積み重ねられるのだ。

 そんな全て自分の自由に権力を行使できるうえ、何かあれば即座に後世への記録として残るような立場に長年いるにも関わらず、記録としての悪行が出てこないって凄い事だと思うのだ。強い自制心が無くてはこうはならない。


 曹魏に降伏した際に「黙って明け渡した」という部分も、明らかに勝ち目のない本土決戦を避け、実質的な無血開城をする事によって領地である益州盆地での戦闘を避けたとも受け取れるのだ。


 また漢への誇りが無いなどと言うが、その誇りを主張して北伐を続けていた諸葛亮の死に際しては、皇帝自ら喪に服しており、諸葛亮を悪く言った李邈りばくに激怒して処刑までしている。

 さらには自身の命の恩人であり、建国の宿将であった趙雲ちょううんの死に際しては、その棺に縋り付いて泣き通した。

 そうした自身の思い出までも「思い出す事はありません」などと、あるわけがないでしょうと。

 どう考えても政治的駆け引きの言葉にしか思えない。そもそも質問をしたのは、謀臣として名を馳せる賈充かじゅうが横に控えた、曹魏の権力を握っている司馬昭しばしょうなのだから。

 例えかつての部下に失望されようとも、後世の人間に笑われる事になろうとも、それは全て自分ひとりの尊厳だけである。再び乱が起きるかもしれない火種を残す事に比べれば、自分が馬鹿にされるくらいどうという事は無いという「天下の為なら、自身の誇りなど捨てる事が出来る」という、まさに君主の器なのではないか。


 もちろん、漢帝国への忠義を看板に掲げて、どんなに劣勢だろうと戦い続けた劉備とは真逆であるし、そんな劉備に惚れ込んだ人からは失望されるだろうが、ことに「天下万民の為」という意識なら、劉禅の方がよっぽど上なのではないだろうか。


 とまぁ、ここまで語ったわけだが、劉禅が悪し様に言われるのも理解できる。

 つまりは、漢の忠臣として強敵に立ち向かい続けた劉備をヒーローとして描いた『三国志演義』のイメージからするならば、それに反して父の道に引導を渡した劉禅は、暗君と罵られなければならない宿命にあるのだから。


 しかし、そうして千年以上もバカにされ続けていても、草葉の陰の劉禅は笑って許すのではないかとも思う。

 それが自分の役割なのだからと、口に指をあてて、笑顔で首を振っている、の姿が想像されるのである。






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