たとえば社員数20人ぐらいの会社の社長が、部下に対して劉禅は悪くなかったという話をしたらどうだろうか。
部下の立場からすると派閥を解消しない宣言ととれるし、一生懸命に仕事をする気が失せるし、倒産後の振る舞いも考えなければいけないから転職の準備するし、給与の未払いも警戒しないといけないので資金繰りをこっそり監視しなければいけないしで辛いものがある。
社長が取引先の人間に話をしたらどうだろうか。取引先の人間はひょっとしたら内実が厳しいのかなぁと警戒して、場合によったら手形取引お断り、即金取引のみに切り替えるかもしれない。
社長が異業種交流で他の社長達にこういう話をしたらどうだろうか。望んで上長になったわけでもないのに組織を一個潰したぐらいであそこまで非難されるのはおかしい、自分の安楽のために動いて何が悪い、蜀の皇帝という望んでいない地位をテコに晋の安楽公という地位を得たのだとうそぶき盛り上がるかもしれない。
社長をしている友人がこういう話をしたらどうだろうか。社長というのはうらやましく思われるけど、色々と大変なんだなぁと慰めると思う。
水城洋臣氏が書いたこのような文章を読んで自分はどう思うのだろうか。劉備入蜀以前からの蜀漢人士の事情を掘り起こし、魏呉蜀の特徴にも触れながら、筋道を立てて分かりやすく簡潔に蜀の滅亡を説明するという素晴らしい文章で最高!とてもおもしろかった!
自分としてはここ、
すごくシンプルに考えている。
「期待の裏切り方がすごい」からだ。
ちょっと先の時代に、
同じレベルで叩かれる存在がいる。
晋の恵帝、司馬衷。
「米がなければ肉粥を食えばいいじゃない」
で有名なお方だ。
しかしこれも後世の創作臭い、と言われる。
両者の共通点は何か。
先代の掲げた理想を砕いた。
求められる「最良」に対し、
最悪「の結果」である。
もう一度いう。
結果、である。
歴史人物は、結果で評価されざるを得ない。
当然である。だがここにバイアスが生じる。
「結果が最悪なら、経過も最悪だろう」。
そしてこのバイアスは、
乗ったほうが、物語類型として美しい。
韓信と義経が悲劇のヒーローになるのと
乱暴に言ってしまえば一緒である。
では、このバイアスは悪か?
んなこたーない。
わかりやすいもんには、
わかりやすいなりのメリットがある。
なにせ、人々を惹きつける。
思いをまとめる。
こいつは、とても大切である。
一方で、本作に書かれた史書上の劉禅。
ひとである。単純には割り切れない、
一個人である。
あなたは一個人だ。
ぼくも一個人だ。
単純には割り切れない。
割り切っちゃいけない。
そうしたわかりづらさこそが、ひとである。
わかりづらさを
わかりづらいなりに受け入れる。
これをダイバーシティと呼ぶ。
わかりやすいところから入りましょう。
わかりやすいところで終わるもよし。
わかりづらいとこに踏み入るもよし。
歴史の楽しみ方は多様性に満ちている。
なぐりあえー