劉禅はなぜ叩かれるか
- ★★★ Excellent!!!
自分としてはここ、
すごくシンプルに考えている。
「期待の裏切り方がすごい」からだ。
ちょっと先の時代に、
同じレベルで叩かれる存在がいる。
晋の恵帝、司馬衷。
「米がなければ肉粥を食えばいいじゃない」
で有名なお方だ。
しかしこれも後世の創作臭い、と言われる。
両者の共通点は何か。
先代の掲げた理想を砕いた。
求められる「最良」に対し、
最悪「の結果」である。
もう一度いう。
結果、である。
歴史人物は、結果で評価されざるを得ない。
当然である。だがここにバイアスが生じる。
「結果が最悪なら、経過も最悪だろう」。
そしてこのバイアスは、
乗ったほうが、物語類型として美しい。
韓信と義経が悲劇のヒーローになるのと
乱暴に言ってしまえば一緒である。
では、このバイアスは悪か?
んなこたーない。
わかりやすいもんには、
わかりやすいなりのメリットがある。
なにせ、人々を惹きつける。
思いをまとめる。
こいつは、とても大切である。
一方で、本作に書かれた史書上の劉禅。
ひとである。単純には割り切れない、
一個人である。
あなたは一個人だ。
ぼくも一個人だ。
単純には割り切れない。
割り切っちゃいけない。
そうしたわかりづらさこそが、ひとである。
わかりづらさを
わかりづらいなりに受け入れる。
これをダイバーシティと呼ぶ。
わかりやすいところから入りましょう。
わかりやすいところで終わるもよし。
わかりづらいとこに踏み入るもよし。
歴史の楽しみ方は多様性に満ちている。
なぐりあえー