劉禅はなぜ叩かれるか

自分としてはここ、
すごくシンプルに考えている。
「期待の裏切り方がすごい」からだ。

ちょっと先の時代に、
同じレベルで叩かれる存在がいる。
晋の恵帝、司馬衷。
「米がなければ肉粥を食えばいいじゃない」
で有名なお方だ。
しかしこれも後世の創作臭い、と言われる。

両者の共通点は何か。
先代の掲げた理想を砕いた。
求められる「最良」に対し、
最悪「の結果」である。

もう一度いう。
結果、である。

歴史人物は、結果で評価されざるを得ない。
当然である。だがここにバイアスが生じる。

「結果が最悪なら、経過も最悪だろう」。

そしてこのバイアスは、
乗ったほうが、物語類型として美しい。
韓信と義経が悲劇のヒーローになるのと
乱暴に言ってしまえば一緒である。

では、このバイアスは悪か?
んなこたーない。
わかりやすいもんには、
わかりやすいなりのメリットがある。
なにせ、人々を惹きつける。
思いをまとめる。
こいつは、とても大切である。

一方で、本作に書かれた史書上の劉禅。
ひとである。単純には割り切れない、
一個人である。

あなたは一個人だ。
ぼくも一個人だ。
単純には割り切れない。
割り切っちゃいけない。
そうしたわかりづらさこそが、ひとである。
わかりづらさを
わかりづらいなりに受け入れる。
これをダイバーシティと呼ぶ。

わかりやすいところから入りましょう。
わかりやすいところで終わるもよし。
わかりづらいとこに踏み入るもよし。
歴史の楽しみ方は多様性に満ちている。




なぐりあえー