蜘蛛の塚

肥前ロンズ

蜘蛛の塚

 これは娘が、赤ん坊だった頃の話です。

 その頃、娘は夕方になると、顔を真っ赤にしながら仰け反って泣き始めてました。一度泣くと、二、三時間は泣き止まず、帰ってきた夫はイライラとしながら泣き止ませるように私に言いますが、私はどうすることもできませんでした。原因が分からないのです。

 おむつも替えたし、ミルクも飲んだ。最近は夜に眠るようになってすっかり大人しかったのに、なぜか急に泣き始めました。あの頃は、一日中娘の泣いている声を聞いている気がしました。

 最初は子どもをあやすためと、夫のイライラした声が怖くて外へ連れていたのですが、その日私は、疲れ切っていたのでしょう。無意識に、子どもを連れてふらふらと家を飛び出してしまったのです。


 夫は出張で忙しいと言って、徐々に家にいる時間が減っていきました。助けて貰えない孤独と泣き声でどうにかなってしまった私の精神は、限界だったのでしょう。

 当時、疲れ果てて体を起こすことすら厳しかった私に、夫は散々なじっておりました。夫は虫が、特に蜘蛛が大嫌いで、「お前がろくに掃除してないから、蜘蛛が這い寄っているじゃないか! 俺が病気になったらどう責任取るんだ!」と朝にわめきちらしていたのが、かろうじて残っている記憶でした。怯えながら殺虫スプレーで蜘蛛を殺した夫は、私を罵倒して家を出ました。――この地域では蜘蛛を特に大切にしていて、益虫である蜘蛛は殺してはいけない、特に朝は絶対に、などという伝承もくだらない迷信だと言う夫ですが、そのくせなぜか、蜘蛛をものすごく恐れていたのでした。


 私は知らないうちに、藪の中を通り抜けておりました。すると、どこからもなく、ほんのりとした明かり、鐘の音と笛の音、女たちの笑い声がしたのです。

 それは実に豪快で、弾けた笑い声でした。なんだか、友達とくだらない事で笑っていた、短大時代を思い出して、じんわりと涙が出てきました。夫には、「仕事をしていない身分で、よく笑えるな」と言われ、表情を出せなくなったのです。

 私は娘を抱えたまま、笑い声がする方へ向かいました。

 すると、女たちは私たちに気づき、いっせいにこちらを見ました。


 松明によって照らされた女たちの格好は、弥生時代のような貫頭衣のようなもの、あるいは古代中国の漢服などを着ておりました。まるで歴史の教科書から現実に飛び出してきたようでした。

 女たちはこちらに駆け寄ってきました。たまに言葉が分からないこともありましたが、おおよそ好意的な言葉を掛けられ、娘を抱いたり慰めてくださいました。すると、娘はだんだん機嫌がよくなっていったのです。

 私は娘が落ち着いて、ほっとしました。女たちは皆優しく、何かあったらまた頼るように言いました。お土産に、すばらしい絹の布までくれました。


 

 それからというもの、私は娘が泣き出すと、その度に散歩に出かけ、彼女たちのもとへ通ったのです。その宴でいただいたご飯を食べると、しばらくなかった食欲も元に戻ってきました。対処法もなんとなくわかってきて、私は途方もない気持ちから解放されました。

 夫が家にいる時間が減っていても、逆にストレスなく過ごせたので楽でした。ご飯も女たちが作ってくれるものを食べられたので。しょっちゅう出張に行く夫は、ホテルに頼んでいるのでしょう。持って帰る洗濯物の量も減って、ラッキーです。掃除もケチをつける相手がいません。蜘蛛が壁を這い寄っていても、夫がわめくことがないのです。





 ところが、夫がある日、私と娘を部屋に閉じ込めました。戸惑う私に、夫はやせ細った顔を真っ青にして、こう言いました。

 毎夜、私が娘を連れて出歩く。しかも古めかしくも贅沢な布まで持ってきて。浮気ではないかと跡をつけたところ、なぜか藪の中に入っていく。


 恐る恐る藪の中から様子を覗くと、私と娘が、怪しい火に囲まれて、着物を着た女たちと一緒に飲み食いしていたというのです。

 しかもその女たちは、まるで蜘蛛のような足を広げていたと言います。私と娘がその中で楽しそうにしていたのが不気味だったと、夫は唾を飛ばしながらいいました。


 夫は気持ち悪い、何か祟りでもあったらお前たちのせいだと何度も罵り、私たちを古い納屋に閉じ込めました。

 貸家の納屋は暗く、埃まみれでした。かびの匂いと、甘い防虫剤の匂いがします。私ならともかく、幼い娘には長いこといさせたくない環境です。私は何度も何度も引き戸を叩きましたが、外側から鍵が掛けられ、ちっとも動くことができませんでした。

 私は困り果てました。どれだけ扉を叩いても、夫は何も言いません。私は疲れ果ててしまいました。

 どれほど時間が経ったのでしょうか。今まで穏やかだった娘が、激しく泣き出したのです。その声を聞いて、ああ、夕方になったのだな、と私が思った時でした。

 突然、納屋が開きました。

 そこには、懐中電灯を持った警察官が立っていました。


 警察官が、私に対して何かを説明しています。私は娘の泣き声から、なんとか警察官の声だけを拾いました。

 警察官が言うには、なんと、夫が古墳の上で死んでいたというのです。

 発見者は部下の女性。警察官の調べによると、出張と称して、夫は部下の女性と不倫していたのでした。ところが、女性はなぜか真夜中に呼び出され、言われた通りの場所に行くと、糸をぐるぐる巻かれて、首から下が土に埋まっていたといいます。

 部下の女性は心神喪失していたらしく、うわ言のように、「蜘蛛が」と呟いているそうです。


 私は茫然としましたが、とにかく娘をここから出せたことに安心して、気が抜けたのでしょう。当時の警察官いわく、糸が切れたように、深い眠りについたそうです。

 警察は怨恨の線から、不倫されていた私を疑ったようですが、その時私たちが納屋に閉じ込められていたこともあり、疑いはすぐに晴れました。


 夫が死んだ古墳は、私がかつて、女たちと出会っていた場所でした。

 その古墳は『蜘蛛塚』と言われていて、かつて『土蜘蛛』と呼ばれた女性首長たちが埋葬されていたそうです。彼女たちは激しく抵抗し、討伐されたと言います。

 事件をきっかけにあの土地を離れても、何度か足を運びましたが、彼女たちには会えたことがありません。まるで役割を終えたとばかりに、消えてしまいました。


 あれから娘は健やかに育ち、成人式を迎えました。

 その振袖は、あの時いただいた布を使っています。

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蜘蛛の塚 肥前ロンズ @misora2222

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