朝に届ける、届かない手紙と曖昧と

にわ冬莉

空耳

 みんなここにいるのに、私だけがいない。

 触れれば確かにそこにあるのに、温度が感じられない。


 ああ、そうか。

 なんだか懐かしい感覚。

 聞こえる音が遠くて、フィルターの向こう、知らないどこかの風景みたいだ。


『私は、要らない』

 そう言っているのは自分自身。

 私がここにいないと感じるのは、私が私を要らないと思っているからだ。

 あの日、行き場を無くして街を彷徨ったときのように、ゆらゆらと揺れる光と雨と、アスファルトの焼けた匂いと、それから、氷みたいなあの人の言葉と。


 人間は二つで出来ているの。

 ひとつは器。

 もうひとつは、魂。

 どちらか一つでも欠けてしまえば、もうそれは人間ではない。人間っぽい、なにか。


 私は失くした。片方を失くした。きっともう、この世のものではないのだと思う。どこのものでもなくなったんだ。


 この雨が酸ならよかった。

 骨まで溶かして流してくれる、強い酸性雨ならよかったのにね。



 遠くに街が見える。

 夕暮れ時に沈みゆく景色は、ぽつりぽつりと灯り始めた明かりを優しく浮かび上がらせる。完全に陽が落ちれば、また違った顔を見せるのだろう。

 明かりの下では温かい夕餉の風景。

 笑顔の子供と、忙しそうに動き回る母親と。

 ううん、そんなにきれいなことばかりじゃないのかな。

 坂道を下れば、もう街は見えない。

 見えるものも見えないものも、全部に蓋をしてしまおう。どうせ私には関係ないものたち。


 駅からはトロッコに乗り込む。ガタガタと煩い音を立てて、真っ暗な線路の上を行く小さなトロッコに。

 いくつものトンネルを潜るけれど、トンネルの中も、外も、闇。なんにも見えやしなかった。ごうごうと風の音だけが聞こえて、私の中の尖ったなにかが削られてゆく。


 ごうごうと。

 がりがりと。


 このまま夜が続いてさ、朝なんか来ないでさ、けたたましいレールのこすれる音だけが頭の中をいっぱいにしてさ、そうしたら少しは救われたんじゃないかな。

 だけどそうもいかない。

 無情にも、朝は来るから。


 トロッコが止まるよ。

 辺りはまだ暗いね。でも、少しだけ空の色が変わってきた。

 降りようか。

 進まなければならないから。



 ざざん、と波の音がして、どうやらそこが海だとわかる。

 水平線の向こうから、見たくもなかった朝日が昇る。


 朝なんか大嫌いだ。

 希望に満ちた朝なんか、私は要らない。ずっと夜で構わないのに、どうして毎日朝が来るのか。


 朝なんか、幸せな今日を約束された人たちだけのものじゃないか。地べたで寝そべって溶けてる人間には、この上なく不向きな光。だから大嫌い。嫌いだ。


 海はそんなことお構いなしに朝日を生み出す。

 キラキラに世界を照らす悪魔の光を、私は浴びる。私が吸血鬼だったなら、この光で溶かされて、空へ上って行けたのかもしれないけれど。


 打ち寄せる波。

 引いてゆく海。


 ああそうだね。こちらに向かって打ち寄せるのは波だけれど、引いていくのは海なんだ。何故かはわからないけど、それが私の中の真理。


 棒切れを拾う。

 だだっ広い砂浜に、大きな文字で何を書こう?

 それとももっと、別なことを?



 小さな鞄をがさがさ漁ると、小さな紙と鉛筆を見つける。

 なるほど、それでは手紙を書こう。


 どこの誰とも知らない相手へ。

 どこの誰にもなれない私が。


 あの、朝日が昇り切る前に。

 私が、私であるうちに。

 私は急いで手紙を書いた。


 簡単だけど、少し感動的に、

 簡単だけど、少し感傷的で、

 簡単だけど、少し感情的なやつ。


 それを上手に綺麗に折って、紙飛行機にして、投げてやる。

 向こう側は海。

 自力で飛べない紙飛行機は、波間の間に消えてゆくしかないけれど、そんな手紙もたまにはいいもんだ。

 海の底、眠っている誰かに届きますように。



 そして私は帰るのだ。

 みんながいる、あの場所へ。

 みんなの中に私がいなくても。

 私だけが、少しだけ姿を消していても。


 トロッコに乗ろう。

 トンネルの向こうには、今度は明るい世界が映るだろう。


 朝は嫌いだけれど、光とは、そういうものだから。

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朝に届ける、届かない手紙と曖昧と にわ冬莉 @niwa-touri

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