ほのかにうち光て行くもをかし

太田谷ナツオ

彼らの物語

 「春はあけ、ぼの、yo yo……?」

 「下手なラップみたいに言わないでくれ」

 パンを食べるのをやめ、菊池きくちの言葉に反射的にツッコミを入れてしまった。が、不本意ながらもツッコまければならない。「小テストに合格しないと練習試合に行けなくなるんだぞ」

 危機感を煽りやる気を引き出そうとしたが、菊池はごうも気にしていないらしい。

 「というか、こんな小テストを出すなんて時代錯誤だってんだよ」

 「それは分かるけどな……」

 同意のために語気を弱くしたのが運の尽きだった。

 「じゃあ、山本やまもとに直談判しようぜ。『時代錯誤だ! 小テスト即刻中止』ってな」

 「やめてさしあげろ。40、50の先生ならまだいいが、68を超える御老体にそれはまずい」

 謎の行動力を見せる菊池。その溢れ出るエネルギーを枕草子暗唱に活かしてくれればいいんだけどな、という思いはため息として吐き出した。「まあ、昼休みはまだあるから存分に練習してくれ……」

 あんな人畜無害な顔しておいてこんな課題出すの詐欺だろ、などと文句を垂れているが、授業プリントを見ながら練習を再開し始めた。

 「白くたなびく山ぎ……。ああ、白くなりゆくか」

 と、羞恥心を知らぬ小学生のように音読する。百歩譲って大声で練習するのはいい  が、混乱させるようなことは控えて欲しい。現に、クラスメイトからの冷ややかな目線が断続的に菊池と僕に集中している。

 「むらさきふふふ~ん、雲~のほそく~」

 それに気づくことのない菊池は暴走機関を止めることなく、更には曲をつけ始めた。

 さすがに限界を迎え、プリントを取り上げる。「いい加減にしろ。お前はいいが、俺まで巻き込まないでくれ」

 「え~、真面目にやってたんだけどなぁ」

 なにが真面目だ。プリントを菊池に投げつける。「公式戦前の大事な練習試合なんだから、しっかりやれよ」

 菊池は口をつぐんだまま、ひらひらと舞うプリントを目で追っていた。そのうち机の上にプリントが着陸すると、静かに目線を合わせてくる。感情が読めない面差し、酸素の無いような空間に、菊池の顔から視界を外す。

 「俺が居なくたって試合はできるでしょ。なんでそんなにカッカするわけ?」

 分かりきったことを聞いてきた。飄々とした普段の行動と相反し、自分の存在価値を確かめようとしてくる節がある。

 文句を言いたいのは山々だが、理解できなくはないし、部活からいなくなっては困る。そのため、定型文でお世辞を述べる。

 「菊池みたいに無神経マイペースで、大後おちに適した人間はいないだろ」

 菊池の顔を一瞥すると、もう一押し必要だと察せられた。

 「射型が綺麗だし、安定してるからなぁ」

 最大限の嫌味として棒読みを心掛ける。「悪い流れを断ち切れるチームの大黒柱だよ」

 だが、菊池にとってはそれでも十分らしい。再び菊池を見やると満足そうな表情を浮かべていた。

 「そこまで言われたらしょうがないなぁ」

 些か演技臭いのはいつものこととして、調子を取り戻したのなら問題ない。顧問と部長から菊池を任されている身、彼のモチベーション管理は予断を許さない。

 そんな気持ちを尻目に、菊池は目を伏せてプリントを眺めている。

 やっと落ち着き食事を再開する。ゆっくりと菊池を見ていると、なぜこの役目を担っていても苦痛ではないのか気づけそうだった。だが、それにたどり着いてはいけないと、自分の心に自分で蓋を閉じた。

 「ほたるの多く飛びちがひたる……」

 菊池のつぶやきに耳を傾けつつ、菓子パンを食べ進める。春があんな悲惨な完成度で夏に進んでいいのか? と思ったが、ややこしいことになるのを防ぐため、これも心の奥にしまっておいた。なんて大人なんだ、僕。

 「……ほたるなどふるのもをかし」

 「おい!」

 と、思わず椅子を後方に押し飛ばしながら勢いよく立ち上がってしまった。前言撤回、限界だ。「周りに迷惑をかけなくなったことは成長だ。だがな、ほたるなどふるのもをかしってなんだよ。わろしだろ! いや、せめておそろし!」

 「何言ってんだ」

 ニヤついた表情で菊池は話す。「まあ落ち着けって。現代語訳で頼む」

 「蛍が降ってきたら怖いだろ! 1匹2匹でも怖いけど、大量にいたらなおさら!」

 

 言い争いを繰り広げるうちに5限を迎えた。前に座る菊池は、生物であっても枕草子を暗唱しようと努力しているらしい。嬉しい反面、複雑である。

 「夕日のさして、山の端い……。山の端、いと近う、か」

 もちろん授業中であるため声は小さいが、菊池の前後左右にはうろ覚え枕草子が猛威を振るっていた。

 「日本において様々な渡り鳥が生息している。例えば、春から夏にかけて産卵、子育てするツバメがいるな……」

 教師柳沢やなぎさわの言葉が止まる。その目線は明らかに菊池へと向かっていた。「菊池ぃ、他に知っている渡り鳥はいるか?」

 無茶にも程がある。菊池の意識は国語の授業プリントに集中していて、柳沢の説明を聞いていなかったのは明白だ。

 菊池は顔を上げ、柳沢の顔を見ている。それがあまりにも長かったため、柳沢は不安になって顔を触っている。何か顔についてるのではないかと不安になってるのだろう。

 「んー……、カラs。いや、雁」

 クラス中から「おー」と声が上がる。本人はまんざらでもない様子で、膨らんだ背を見せた。キラーパスを出したつもりの柳沢は、驚きの表情を見せるとともに、教卓に近い生徒に「雁は他の授業で?」と聞いている。

 だが、半ば英雄視された菊池は、既に視線をプリントへ落としており、

 「風の、虫のね……。ああ、風のおとか」

 と練習を再開していた。

 この『雁伝説』は柳沢の印象に残ったらしく、3週間ほど菊池が指名される回数が増加した。もちろん、菊池は歓迎しておらず、生物の授業のたびに不機嫌になっていた。


 問題の6限を前にして、崖っぷちの菊池は笑顔である。こんなシチュエーションでさえも楽しんでいる様子だ。

 「雪のいと白きも……」

 と、相も変わらず間違えてはいたものの、冬まで進んでいるらしい。自分も最後の練習をしつつも、菊池の練習に聞き耳を立てる。

 「炭もてわたるも、いとつきづきづ……、し」

 おいおいおい、と思いつつ、号令のために起立をする。菊池の目線は山本先生ではなく、プリントに釘づけだった。

 「今日は連絡していた通り、枕草子の暗唱テストを行います。右端と左端の人でジャンケンしてください」「練習は要らないですよね。では、右前の齋藤さいとうさんから廊下にお願いします」

 着実にその時が近づく。だが、菊池は練習をやめ、椅子に身をもたれかけて顔を天井を向けていた。

 「おい、最後に練習しなくていいのかよ」

 と、小さく声をかける。

 菊池は「大丈夫大丈夫」と言い、同じ姿勢のまま鼻歌なんかを歌っている。と思えば、180度身体の向きを変え、互いを向き合う格好となった。

 「春はあけぼの――」

 急に暗唱を始める。本番前の最終調整か、と感心していると、異変が起こる。

 「やうやう白くなりゆく、雲のほそくたなびきたる。夏は夜――」

 「おい、飛んでる飛んでる。明らかに春の配分短すぎるだろ」

 菊池は気にすることなく、目を僕に据えたまま続けた。

 「ほたるの多く飛びちがひたる。また、虫のねなど、はたいふべきにあらず」

 おいおいおい。最近は夏が熱くて秋の存在が薄まってはいるが、それはあんまりじゃないか? 清少納言だって泣くぞ。と、言葉にしようとした瞬間、2人の空間が終わる。

 「菊池、次~」と声がかかり、廊下に向かって行く。悠長にこちらへ手を振っているが、振り返すほど心に余裕はなかった。

 練習試合に菊池を連れて行けなかったらどうしようなどと考えていると、すぐに教室の扉が開かれた。まさか、「山ぎはすこしあかるくなりてわろし」などと言ったのではないかと心配になる。

 だが、その予想に反して、菊池は笑顔であり、再び手を振っている。「次の方どうぞ~」

 気の抜ける連絡を受け、廊下へと出る。山本先生に軽く会釈し、開口する。

 「春はあけぼの。やうやう白く――」

 頭が真っ白になった。『たなびく』が一瞬頭を占有したが、『なりゆく』だよな。2拍ほど空けて再開する。

 その後の記憶は薄い。何とか『わろし』まで到達できたが、悠長には程遠いものだったと自覚している。それも、山本先生に「君が少したどたどしいのは珍しいねぇ」と言われたことで確実なものとなった。

 失意の中教室に戻ると、これまでにないほど菊池の表情が輝いていた。どうだった、と問いかけてくるようにも感じられた。案の定、

 「どうだった、完璧?」

 と聞いてきた。へらへらとした表情に苛立ちが積もる。お前のせいだ! と言えればいいのだが、菊池に意識を割き過ぎた自分にも非がある。

 黙って菊池の言葉を聞き流していると、山本先生が廊下から帰ってきた。

 「今回の枕草子は日本文学において重要な――」

 始まった。頼むから早く不合格者を発表してくれ。

 一方で、「いやぁ、ほんとに落ちたら部長に怒られるよな」と菊池は笑っている。やかましい、黙って山本神の言葉を聞け!

 「――教養として覚えておきましょう。では……」

 来た。僕が不合格か、菊池が不合格か、それとも両方か……。

 「今回、皆さんの出来は区々まちまちでした。これまで優秀な人も残念な結果、『死して後已のちやむ』ことを忘れないように」

 絶対僕のことだ、と思いながら、その後の言葉を静かに聞く。

 「ですが、今回は不合格者はいませんでした。良かったですね」

 山本先生は静かに笑う。「なので優秀者を発表したいと思います。暗唱だけではなく、風景さえ想起させる語り口。菊池君は素晴らしかったです」

 5限の生物に続け、褒められた菊池は静かにVサインを掲げている。子供臭いことはするな、とツッコミたかったが、安堵感と衝撃で固まることしかできなかった。

 英雄視される菊池は友人から声をかけられているが、返答することなく笑顔のままこちらを捉えている。

「今度は俺が勉強を教えてあげるからね。アキトくん」

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