神隠は一度きり

野森ちえこ

やり直しはできない

 神奈川県の横浜市には、かつて『神隠かみかくし』という名の地域があった。

 そこに住んでいたお姫さまがさらわれたことがあるからだとか、武田信玄の家臣が守り本尊を隠した場所であるからだとか、その由来は諸説あるが正確なところはわかっていない。

 ただ、その地域は丘陵の山林地帯で、外部からみつかりにくい地形だったため、事情によりほかの地域から移ってきた人間がひっそりと暮らすのに適していた。そうして移住してきた人々が『神さまが隠してくれている』と感謝し、『神隠』という地名になった。という説が有力らしい。

 そんな『神隠』という地名自体は、住居表示に関する法律が制定された昭和三十七年になくなっているが、バス停や橋、神社など、その名は現在も使用されている。

 名前が名前だからか、そのなかのひとつである神隠公園には、ベンチに座っていると金縛りにあうとか、公園のまわりに車をとめて休憩すると悪夢を見るなどの噂もあった。

 そしてもうひとつ。その地には、地元の人間にもほとんど知られていない、幻のようないい伝えがある。

 誰かがためしてなにかあっても責任はとれないので詳細はあえてはぶくけれど、きめられた時刻、きめられた場所で、手順どおりに行動すると、どんなものでもひとつ、望んだものを『隠して』もらえる。ただし、一度隠されたものが出てくることは決してない。それはつまり、現世からは完全に消滅するといってもいい。

 ちなみに、その対象がなんであれ『隠して』もらえるのは、生涯でただひとつ、一度っきりだという。


 まるで私のためにあるようないい伝えだと思った。

 死にたいというのとはたぶんすこし違う。そんなに積極的なものではない。痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だ。自分を殺す勇気なんて、どうひっくり返っても私からは出てこない。

 ただ、毎日がなんとなくしんどくて、ひっそりと消えることができるのなら消えてしまいたいと、いつも考えるともなしに考えていたから。

 だから、私を『隠して消して』もらえるのなら、願ったり叶ったりだと思ったのだ。


 そうして私はこの地にやってきた。

 結論からいえば、いい伝えは本当だった。

 想像していたのとはだいぶ違ったけれど、『私』はこの世から隠された。

 家族、友人、同僚、上司——かかわりのあったすべての人たちの記憶から私の存在が消えてなくなったのだ。それだけじゃない。戸籍も、住民票も、私の存在を証明してくれるはずのものもぜんぶ、残らず消滅していた。

 私が生きてきた痕跡すべて、あとかたもなく消え去ってしまったのだ。まるで、はじめから存在していなかったみたいに。

 母親から『うちには娘などおりませんが』と訝しげにいわれたときの衝撃はなかなかのものだった。

 どこか、この世界とは違う場所につれていかれるのだとばかり思っていたから、現在の状況はまったくの想定外である。


 そういえば、私はこのいい伝えを誰から聞いたのだったか。

 人から聞いたのは間違いないのだが、その『誰か』が思いだせない。

 ずっと不思議に思っていたのだけれど、今ならわかる。きっとその『誰か』も『隠された』のだ。私のように自分で望んだのか、それとも誰かに望まれたのかはわからないけれど。


 いい伝えを実行したあの日から、私はこの世界で透明人間になってしまった。

 どう頼めばよかったのだろう。私という人間のすべてを、身体ごと隠してといえばよかったのだろうか。などと考えたところでもはや手おくれ。あとの祭りなのだが。

 私は住む場所も、帰る実家も、預金も、私の名前で持っていたものをすべて失った。

 今は『記憶喪失者』を演じて役所の世話になっている。新しい戸籍をつくるための手続きもはじめたところだ。

 ほんとうは、記憶をなくしたのは私ではなくまわりの人たちなのだけど、説明したところでとても信じてもらえないだろうから、苦肉の策である。

 神さまに隠された私はもう、誰にもみつけてもらえない。


 もしも、いい伝えを知り、実行しようとしている人がいたなら、くれぐれも慎重にと伝えたい。

 神さまが隠してくれるのは生涯で一度っきり。頼みかたを間違えたからって、二度とやり直しはきかないのだから。


     (了)


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神隠は一度きり 野森ちえこ @nono_chie

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