第7話 佐保川のかなしみ

「佐保川の桜並木は薫るから」

 そう言い差して、母は膝の上に乗せた父とイチャイチャし始める。

「あのさ、寝込んだ一人息子を心配して見舞いに来たんじゃないの」

 布団の中から、母をにらみ上げる。

「ええ、だって、お父さんが可愛いんだもの」

「はあ…」

 深く溜息を吐く。父は膝から下の脚が未成熟である。父の愛を得るために、わざわざ古武術を体得してきたかつての少女。介助を言い訳にして、スキンシップが取れるとお互い喜んでいるのである。

「どうしたのかしらね。桜並木をスケッチしに行ってからよね。具合が悪くなったの」

 天井を見上げる。

「何かを忘れているような、そんな気がして…。たとえば、匂いが足りないとか…」

 目尻に涙が浮かぶ。母は父を残し、台所に立った。

「お前が体調を崩すのは、いつ以来かな」

 ちらりと父を見遣る。

「ああ、そうだ。高校に上がってすぐのことだ。部活の見学で、乗馬はやめなさいと諭されたのだって。家に帰るなり、頭から布団かぶって泣いていただろう」

 乗馬ならできると思ったのだ。以前、乗馬体験をしたことがあったし。乗馬部の先生は、自分が義手だと見ると、申し訳なさそうな顔をしたっけ。君も馬もお互い不幸な結果になりかねないからと。

 悔しくて、夜、熱を出した。母の作ったうどんを食べながら、父は説明してくれた。義手は負荷がかかると、外れるようになっているから。だから、万一、馬が暴れたとき、お前では御しきれないかもしれない。そして、馬は骨折すると、ほとんどが安楽死を選ぶ結果になるとも。そんなことは学校の先生から、とうに聞かされていた。

 ただ、折り合いがつかなかったのだ。

 週明け、第二希望だった剣道部に入部した。

 悔しかったから、体育の武道の時間には同級生を容赦なくぶちのめしてやったし、インターハイにも行った。

 泣くだけ泣いたら、ただ努力しなさい。両親の教えである。

 最難関の美大にも現役合格したし、博士号も取った。

 でも、それでも、早朝の春の中に立ったら、無性に泣けてきたのである。

「足りない。何かが」

 ……。かなしみが。

 その年の冬、友人の医師が目をかけていた女の子が亡くなったらしいことを知った。守秘義務で、何ひとつ、具体的なことは聞き出せなかったが。

 どういう訳か、彼はそのことを私に知らせずにはいられなかったらしい。

 私も、涙が止まらなかった。


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