波欠け 後篇
地蔵ですか。
工事主任の渡邊さんは、怪訝な顔をした。
「この辺にあるかな。埋立地ですよ?」
「旧海岸線の方かも。古くからこの土地に暮らす地元の人に訊くのが早いだろうと想いまして」
土地や工事に関わる会社の者ならば誰でも知っている。切ってはいけない樹、動かしてはいけない社、道端に何げなく祀られているものを、無闇に扱うと、てき面にひどく祟られることを。
古道の細道にある路傍の石積みの墓などは特に見過ごされがちで、ダンプカーでうっかり引き倒してしまったが為に、その夜に不審死が出たりする。
先祖伝来の土地から人が動かなかった時代には、慣習的に花が供えてあったり、昔のいわれを知っている者がいたのだが、近年では人が流動してしまったせいで、「これは何だ」と訊いた時に分かる者を探す方が骨が折れるくらいだ。
「工事主任の渡邊さんならご存じではないかと。確か渡邊さんは、代々ここが地元だと云っていましたよね」
渡邊氏の実家は、埋め立てる前は、遠浅の海岸で貝を獲り、海苔を作っていたそうだ。1923年関東大震災の時には数メートルの津波が家の前の崖下まで来たという。
俺は云った。
「地蔵の数はもしかしたら六つかも知れません」
深夜に俺を金縛りに遭わせる少女の霊は、どうも六体いるようなのだ。変態なら大歓びだろう。いっそのこと俺も変態になってみるか。そうすれば少女たちの霊も悲鳴をあげて消え失せるかもしれない。
おじさんは変態だよ~、ぺろっと水着を脱いでみて~。
少女たちはスクール水着姿なのだ。なんのサービスなんだあれ。
「六つ」
渡邊さんは真剣な顔つきになった。
「知ることがあれば教えて下さい。後で問題になったら厭なので」
努めて事務的な表情をつくって、俺は渡邊さんに催促した。土建屋ならそれだけで意味が分かるはずだ。迷信だと莫迦にして道端の古ぼけた道祖神などを重機で除去すると、その日のうちに死人の出る大事故が起こることを渡邊さんもよく知っている。
遠浅の海。干潮になると、はるか遠くまで砂地と変わる。
水たまりで蟹をからかったりしながら遊び惚けていて夕方になり、満ちてくる潮に気が付いた時にはもう遅い。陸までの距離は、幼い子どもには遠すぎる。
ざああと寄せてくる波が、その小さな足に届いてしまったらもう終わりだ。想うように走れないうちに、ざぶざぶと波が高さを増してゆく。
さらには海底には、
海に入って歩いていると、突然、足許が消えてしまうあれだ。
澪とは、海流の流れによって自然にできる海底の窪んだ溝だ。足首を洗う波から大急ぎで走って逃げても、そこに落ちてしまうと、後ろから来る波は、数倍の高さとなってしまうのだ。
子どもたちの膝頭から腰を、あっという間に海が呑み込み、やがて子どもたちの身体が浮き上がって波に攫われはじめた。
先生、せんせい。
少女たちが声の限りに叫んでいる。せんせい助けて。岩場で頭を切った子どもの手当に奔走していた俺は海に飛び込む。走っているのか泳いでいるのか分からない。寄せる波が鉛のように冷たく重い。澪の上で足許が突然消える。潮が少女たちをあっという間に沖へと引きずっていく。一人だけなら助けられたかもしれない。でも少女たちは六人いた。一度に、ばらばらに大海原に呑まれていく少女たちの、誰から助けてよいのかも分からない。見渡してもすでに姿が見えない。
「おーい」
俺は声の限りに叫ぶ。その口に、ざぶんと塩辛い海水が流れ込む。
「おーい」
夏の夕陽がぎらぎらと海の上に反射して、柿色に光り、眩しくてよく見えない。
せんせい。
小さな頭が向こうにあった。その近くにもう一つある。大急ぎで波を切って泳いでいく。助けてやる、必ず助けてやるからな。あの二人だけでも。
せんせい。
溺れかけている少女まであと少しだ。手を掴んだら絶対に放さないぞ。
先生、せんせい。
そこへ六人の少女たちが一斉にしがみ付いてきた。
声を上げて、ホテルの室で飛び起きた。腕と脚が泳ぐような恰好になっている。夢だった。よかった。
ベッドサイドの灯りをつける。
心臓がまだばくばくしている。全身が海水を浴びたように冷や汗でびっしょり濡れている。怖ろしい夢だった。
昼間、渡邊さんからあんな話を聴いたせいだ。
「戦前の話ですよ。親父が曾祖父から聴いたはなしを、親父からわたしも聴いたことがあるんです。省線に乗って遊泳にやって来た東京の尋常小学校の子どもたちだったそうです。親ごさんらが海に向かって娘の名を呼んでいるのが気の毒で、それで邑の方からも申し出て、海に臨む磯の松原の中に地蔵を立てたんだと。亡くなった子どもの数に合わせて六体」
「その地蔵は何処に」
渡邊さんは調べてみると云って、一時間後、電話をくれた。
「十日ほど前に道路整備の現場に出ていた者が、叢に埋もれていた石を除けたそうです。石屋が棄てた作りかけの地蔵だと判断したそうで」
それだ。
帽子を脱ぎ、額の汗を拭いた。秋に入っていたがまだ気温は高い。
役所と相談した結果、六つの地蔵は市営墓地に引き取られることになった。お参りする者も絶え果てて、地蔵はすっかり忘れ去られてしまい、古木の根元に埋もれていたそうだ。
地蔵があった場所は、昔は海崖だったところだ。かつてはそこから海と富士山が一望できたのだ。
「勝手に動かしてごめんな」
市営墓地の敷地内に移設した六体のお地蔵さんに俺は花を供えた。仏花よりは可愛い花の方がいいと想って花屋で花束を六つ作ってもらったら、可愛く出来すぎて、お誕生日の贈り物のようになってしまった。
「ここも悪くないだろ。あちらよりは静かだし」
助けたかどうかは分からないが、金縛りはぴたりと止まった。きっと満足してくれたのだろう。
楽しい海水浴に来て溺れるなんてついてないよな。でも六人で力を合わせて俺を動かしたんだから、君たちはすごいよ。
「こちらとしてはそう云うしかない。もう二度とこんな体験はごめんだ」
しっかり拝んでおいた。ふと振り返ると、墓石の向こうから爽やかそうな青年がなぜか俺に向かって頭を下げている。
溜息をついて、俺は墓地を後にした。
「軍曹、また年寄りが来てますよ」
東京湾の埋め立て工事は1950年代から始まった。まだ戦争の記憶が色濃い頃だった。戦地帰りの親方は気が荒い。親方のあだ名は軍属時代のままの『軍曹』。
「戦前の溺死者なんか見つかるかいな。ましてや子どもの骨なんか。ここで溺れたて云うてんのか」
「この浜で間違いないそうです」
「遺族が少ないな」
「戦禍で亡くなった方もいるのでしょう」
「海水を抜いたら骨が出てくるとでも想うてんのか。墓地とちゃうで。見つけたら知らせると適当に云うて追い払え」
「見つかりますか」
「この大量の土砂とセメントを見たら分からんか。遠浅をぜんぶ平らに埋め立てて陸と同じ高さにするんやぞ。貝も魚も古代人の遺構も何もかも今から流し込むコンクリートの土台の下じゃ。ましてや子どもの骨なんか、ばらっばらになって、とっくに砂になっとるわ」
「責任をとって自殺したそうです」
「誰が」
「引率していた若い男の教諭。ベルリン五輪の競泳選手候補にもなったことがあるほど泳ぎが達者だったとか。全員にしがみ付かれて、本人も溺れて、気が付いたら自分だけが浜辺に辿り着いていたそうです。気になったから当時のことを知る近くの漁民に訊いて来ました」
「知るか」
軍曹はぺっと足許の泥に唾を吐き捨てた。古臭い木舟で漁をする漁民。まだ残っとるんか。金目当てにごねやがる。漁業権と引き換えに大金もろうて、とっとと邑を棄ててどっかに行ってまえ。日本はこれから大和魂でアメリカを負かしたるんじゃ。戦死した者たちに誓って、必ずこの国を復興させて敗戦国から大国にのし上がったる。高層建築を建てて、米英にあっといわせたるんじゃい。
海水を抜いて土砂を運ぶための巨大なパイプをめぐらした埋め立て現場。そこからほど近い丘陵に、青空を背にした老人たちの姿が見える。彼らは松原の中の地蔵に花をたむけている。
泥の窪地に溜まる磯の香。軍曹は厭そうに顔をそむけた。
「そんな若い先生、自殺せんでも、戦時中に赤紙に引っ張られてどっちみち死んでたんとちゃうか」
どうどうと流れる滝のようなコンクリートが、海の浅瀬を埋めていった。
[了]
波欠け 朝吹 @asabuki
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