波欠け

朝吹

波欠け 前篇

  

 海だったんだよ。

 この道路から向こうは全て海。

 浜に降りる傾斜面には松原があり、別荘がたくさんあった。夏になると東京から日帰りの海水浴客が押し寄せた。

 その遠浅のきれいな海を、戦後、すべて埋め立てた。今ではもう昔の海岸線のことを知る者も殆どいない。



 先生。

 少女の声がする。耳元で。どうやら俺は金縛りに遭っているらしい。

 先生?

 なぜ俺をそう呼ぶ。俺はゼネコン勤務で、職業は教師じゃない。

 せんせい、たすけて。

 たすけて。

 うん。助けてやりたいが、君たちが誰か分からない。濡れた手が俺の身体に触れている。たくさんいる。俺を取り囲んでいる。

 金縛りって、こんな集団行動をとるものなのか。

 小学生くらいの女の子だ。少女たちの霊をなんとか振りほどきたい。意識はあるのに身体が動かない。

 せんせい。

 ロリコン男なら悦ぶのかも知れないが俺は冷え切った少女たちの気配がただ怖い。

 やめてくれ。しがみつかれても重くはないが、変だろこの状況。

 身動き出来ぬまま、心の中で俺は叫んだ。

 助けてとは、どういうことなんだ。

 君たちは、だれ?



「汚い海だな」

 東京湾を前にして、俺はつい、こぼしてしまった。日本海を見て育った新潟出身の俺には、東京湾は海というより巨大な沼だ。

 埋立地に造られた人口の砂浜。俺の文句をよそに、けっこうな人出が楽しそうに海水浴をしている。

「新潟には、マクリダシがあってさ」

「マクリダシとは何ですか」

 新卒の社員が訊いてくる。真夏だ。日陰にいてもまだ暑い。

 マクリダシとは、『波欠け』のことだ。

 砂の山を作って波打ち際においておく。寄せる波がかぶったら、欠けるようにしてごっそりと持っていかれる。あれと同じだ。新潟の海岸沿いの邑の中には、マクリダシが原因で消えてしまった邑がある。

「数十年周期で、波が砂浜を大きく呑み込んでしまうんだ。マクリダシと呼んでいた。さらには山崩れもよく起きた」

「分かりました。原子力発電所の建設予定地だった処でしょう」

「よく知ってるな」

「新潟に旅行に行ったことがあるんです」

 新卒社員は手をくねらせた。

「海岸を走る道路が、ある処で内陸に大きく曲がる。何故だろうと想ったら、シーサイドラインが避けて通るその一帯が廃村のあった場所でした。原発建設予定地として、電力会社の所有地になっていました」

「その前からすでに廃村だった。マクリダシで家が落っこちるんだ。棲めるような処じゃない。落武者伝説もあるほどだ」

 それほどに辺鄙で不便な場所ということだ。その邑の者たちは富山の薬売りのように、秘伝の薬を全国に売り歩いて生計を立てていた。

「良かったじゃないですか」

「なにが」

「原発建設計画が頓挫して。そんな処に原発をもし建てて、東日本大震災のようなことにでもなったら、新潟の米どころが全滅でしたよ」

 越後平野はたびたび水害に見舞われてきた。山を越えた処にあるその邑は、洪水から生き延びた人たちが棲み付いたのが始まりかもしれない。しかしそこも安住の地ではなかった。

 山崩れをヤマダシ、波欠けをマクリダシ。陸と海でそれが起こるたびに、耕地が埋もれ、家屋が砂中に消えたのだ。

 俺は千葉県側から眼の前の東京湾に眼を向けた。

 波によって陸地が欠ける『波欠け』。それとは逆に、東京湾の埋立は、陸地の方から海の領域を潰していった陸欠けだ。


 

 きゅっきゅっ。

 砂が鳴る。

 高度経済成長期に工場排水が日本海に流れ込む前までは鳴き砂だった新潟の浜。地元の老人たちがよく嘆いていたものだ。

「下駄で踏んだら、澄んだいい音で鳴っていたが」

 きゅっきゅっ。

 何億年とかけて自然が作り上げた鳴き砂の浜べ。石英から汚れをすべて洗い落としたら、またその音が鳴るのだろうか。海砂の一粒一粒を磨いたら。

 せんせい、先生。

 今夜も恒例の金縛り祭り。少女たちの濡れた手が方々から俺にしがみついてくる。

 先生たすけて。波に呑まれるぅ。

 新潟の海育ちの俺だ。泳ぎは得意だ。高校の時には全国大会にも出場した。だからこそ云う。君たちを一度には助けられない。



 マクリダシなど、東京湾では起こらない。しかし2011年の東日本大震災では液状化現象や陥没被害が埋立地の各所で起きた。

 関東が震源地となった際の次の被害を想定しながら、造成した埋立地で再開発を進めている。

 現場に派遣されている俺は工事の模様を写真に撮って本社に送った。

 一世紀にも満たない往時には、東京湾は数キロ先まで遠浅で、貝塚が点在するほど古代からたくさんの海の幸が獲れたのだ。戦後その遠浅の部分をぐるりと埋め立て、増えた陸地に港や工場やベッドタウンを建てた。巨大なタンカーが行き来する湾は、浮世絵に描かれたような真っ青な内海の面影など微塵もない。

「大学の水泳部かな」

「誰のことですか」

 俺は人工の海水浴場にいる一群を部下に教えた。がっちりした体格の青年が数名いる。日焼けしており、水着はブーメラン型の競泳用だ。砂浜に立っている彼らに向かって、水着を着た小学校高学年の少年たちが駈け寄った。こちらはラッシュガードで上半身をおおっている。

「先生も大変だ」

「どうして先生だと分かるんですか」

「先生!」

 少年の一人が青年に声をかけた。俺の横で部下が「なるほど」と頷いた。

「先生、もう泳いでもいいですか」

「準備体操をしてからだ」

 青年たちは少年を横一列に並べ、いちにーさんし、と威勢のいい号令をかけて準備体操をはじめた。

「サマー・キャンプのボランティアですかね」

 部下は彼らの様子を眺め、「監視員もいるとはいえ、事故があったら責任問題ですから、大変でしょうね」と肩をすくめた。



 せんせーい。

 せんせい。

 先生たすけて。


 毎晩毎晩なんなんだ。室を変えてもらい、ホテルも変えたが、まったく変わりなく、うとうとした頃にずぶ濡れの少女たちが押し寄せてくる。

 初日に勇気をふりしぼって何とか瞼を無理やりこじ開けて見てみたら、白い埴輪のような影が口を開けて並んでいて、おそらく生まれてはじめて俺は気絶した。

 疲れてるんだ。眠らせてくれ。西海岸を真似てヤシの木の植樹が立ち並ぶ明るいこの湾岸エリアで、金縛りはないだろう。翌日の仕事に響くから泥酔も出来ない。酔い潰れたいのに寝酒を控えているが、これは君たちが現れるのを待っているわけじゃないからな。怖い。

 分かったよ。何だか知らないが助けりゃいいんだろ。だったら具体的に君たちを助けるその方法を教えてくれないか。でも俺は先生じゃない。君らの期待に沿えるかどうかの保証はしないぞ。

 しゃかしゃかしゃか。

 俺の掌の上を少女たちの指先が過ぎていく。意味が分からない。待てよ。文字だ。

 じ、ぞ、う。



》後篇

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