3 黄泉の国の鬼
「……『古事記』に話を戻すと、死者としての醜い姿を見られたイザナミは激怒して、イザナギに対して黄泉の国の鬼をけしかけたんだそうだ」
車を追ってくる影の正体について、リョウはそんな推測を口にした。
しかし、八本の脚で走る姿はまるで蜘蛛のようである。また、波打つようにうねる尾は蛇のようでもある。鬼と聞いて思い浮かぶイメージとは似ても似つかない。
シンゴも俺と同じ考えらしかった。
「あれがそうだっていうのか?」
「分からないが、似たようなものではあるんじゃないか」
『笠来亭』は平凡過ぎて黄泉の国のものとはとても思えない、という話になった時にも、リョウは同じような反論をしていた。「神話や伝承そのものは事実でないとしても、その発想の元になった何かは実在するのではないか」と。
その考え方を正しいものだとするのなら、鬼の姿が一般的な鬼らしくないことについて説明がつくだろう。
また、イザナギのように見るなという約束を破ったわけでもない俺たちが、鬼に追いかけられていることについても。
「おい! 追いつかれるぞ!」
「分かってるよ!」
シンゴの怒鳴り声に、俺も怒鳴り声で応じる。言われるまでもなく、アクセルはとっくに踏み込んでいた。
けれど、鬼だけは変わらず後ろをついてくるのだった。
これまでの態度を見るに、シンゴはあれが鬼だと信じているわけではないのだろう。しかし、危険が迫っているという点に関しては認めているらしい。後方を振り向いたまま尋ねてくる。
「今何キロだ?」
「100」
前にも同じ速度を出したことはあるが、それはカーブの緩い高速道路での話だった。山道でやったことはないし、やろうと思ったことすらない。はっきり言って、自殺行為だからである。
だが、それほどの危険を冒した意味はほとんどはなかった。
こちらが加速すれば、その分だけ鬼も走る速さを上げてきたからである。
「何キロ?」
「120!」
ごく一部の地域を除けば、高速でも法律違反になる速度である。
だというのに、鬼には引き離されるような様子は微塵もない。
いや、むしろ逆に距離を縮めてきさえしているようだ。ミラーに映る鬼の姿が少しずつ大きくなっていく。
蜘蛛や蛇のようだという印象は、あくまでも鬼のシルエットを遠目から見た時のものに過ぎなかった。
間近でその姿を目にしたことによって、鬼が
さらにその顎から、黄色がかった
確か、大抵の国産車の最高速は180キロまでだったはずである。だから、たとえ奇跡的に事故を起こさなかったとしても、鬼が180キロより速く走れるのならいずれは捕まってしまうことになる。
そして、鬼にひとたび捕まれば、あの巨大な顎で喰いちぎられてしまうに違いなかった。
事ここに至っては、シンゴもリョウの説にすがるしかなかったらしい。
「イザナギは鬼をどうしたんだ?」
「あ、ああ」
珍しく動揺しているようで、リョウが答えるまでには少し間があった。
「イザナギは地上に逃げる途中、桃を投げて鬼を退治したんだ。桃には邪気払いの力があるからな」
「んなもんねえよ」
シンゴはそう吐き捨てると、すぐに次を催促した。
「他に鬼退治できるものはないのか?」
「邪気払いで有名なのは、小豆、塩、酒、米……」
二人のやりとりを聞いて、俺はあることを思い出していた。
出発前に、俺たちは米や塩を――『笠来亭』の料理を地面に埋めてきてしまったのだ。
野外に生ゴミを捨てると、土壌の自然な状態を破壊することになるし、熊を始めとする害獣に餌を与えることにもなりかねない。本来はマナー違反に当たる行為である。そのため、俺たちも普段釣りに出かける時はやらないように心がけていた。
もしかして、あの時マナー違反をしたせいで、助かるチャンスを失ってしまったんだろうか。
根拠のない不安と懺悔にも似た後悔が俺の胸中をよぎる。
その瞬間、シンゴが車の窓を開けた。
そして、鬼めがけて何かを投げつけたのだった。
これが
投げられた物を恐れるように、鬼は走る速度を徐々に緩めていき、いつしか完全に立ち止まっていた。
それどころか、最後には
ミラーにはもう夜の闇しか映っていなかった。
「時間がもったいなくて、昼飯抜いてたんだ。運転するのも嫌だったしな」
『笠来亭』でやけに食事をしたがっていたのは、そのせいだったらしい。シンゴは残りのおにぎりを見せてくる。
それも、よりにもよってコンビニのおにぎりだった。
「お前はまったく……」
リョウは気が抜けたようにそうこぼす。
「それで二位かよ」
俺は思わずツッコミを入れていた。
すると、シンゴはすかさず「うるせー」と言い返してくる。
それからほどなくして、街の灯りが見えてきたのだった。
◇◇◇
山を下りたあと、俺たちは予定通り街で夕食を取った。それからホテルで一泊すると、朝には地元に向けて車の運転を再開した。
しかし、その間、山で起きた出来事について話すことは一度もなかった。
そうしようと三人で示し合わせたというわけではない。だが、俺も二人も、あの出来事については早く忘れてしまいたかったようだ。なかったことにして、いつも通りの日常に戻りたかったようだ。
そうして、あの夜から一ヶ月ほどが経った頃のことだった。
俺は久しぶりに、シンゴに電話を掛けていた。
「シルバーウィークは休みを取れそうなんだ。またどこかに遠征しないか?」
「ああ、すまん。もう予定が入っててな」
「なんだそうか」
「悪いな」
そのあとは互いの近況についていくつか世間話をした。中学の時の同級生が入院したとか、ガソリン代が上がって参ったとか、そういう益体もない話である。
次に、俺はリョウに連絡を取った。シンゴの時と同じように、「連休で帰省するので、一緒に釣りに行かないか」という旨を伝える。
珍しいことに、リョウはこの話にすぐには飛びついてこなかった。
「……シンゴは?」
「あいつも誘ったんだけど、断られちまってな」
「…………」
「?」
どうしてリョウが黙り込んでしまったのか、俺にはさっぱり見当がつかなかった。
「実は、あれから何度か土日に遊びに誘ったんだ。でも、毎回断られていてな」
「へー、彼女でもできたのかな」
今までは三人揃って恋人よりも趣味を取ってきたが、もう結婚してもおかしくないような年齢である。優先順位が変わっても不思議はないだろう。
しかし、リョウの考えは俺とは違うようだった。
「……もしかして、前のことがあったからじゃないか?」
「鬼にビビってるって? シンゴはそんなタマじゃないだろ」
「違う。ヨモツヘグイだよ。あいつだけ、あっちの世界のものを食べただろう?」
その言葉で、以前に聞いた話を思い出す。
『亡くなった妻を恋しく思ったイザナギは、黄泉の国まで彼女を迎えに行くことにする。しかし、イザナミは彼に対してこう答えたんだ。
「私は現世に帰ることはできない。もう黄泉の国の食べ物を食べてしまったから」と』
確かに、結局残したとはいえ、シンゴだけ『笠来亭』の料理に口をつけていた。だから、『古事記』の記述通り、シンゴが黄泉の国の住人になってしまったとしてもおかしくはないが――
「でも、あいつも一緒に帰ってこれたじゃないか」
というよりも、シンゴが鬼を退治してくれたおかげで、俺たちは無事に山を下りることができたのである。シンゴが黄泉の国の住人になってしまったとはとても思えない。
だが、それは俺の早合点のようだった。
「僕が言ってるのはイザナミの話じゃない。ペルセポネの方だ」
『ところが、ペルセポネは知らなかったが、冥界の食べ物を口にした者は、冥界の住人にならなくてはいけないという掟があったんだ。だから、十二粒のザクロのうち四粒を食べたペルセポネもその掟に従って、一年のうち四ヶ月だけは冥界で過ごさなくてはいけなくなった……』
「シンゴのやつも、一週間のうち数日だけはあっちの世界に行かなきゃいけなくなったんじゃないか?」
(了)
ヨモツヘグイの教え 蟹場たらば @kanibataraba
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