2 黄泉竈食の禁

 卓上の紙ナプキンに、リョウは『黄泉竈食』と書き記す。


 文字通り、ヨモツヘグイというのは、黄泉の国のかまどで煮炊きしたものを食べることを指すのだという。


 また、続けて『黄泉戸喫』とも書いた。戸は釜戸かまどの戸、喫は喫茶や喫食の喫のことで、意味は同じだそうである。


 そして、このヨモツヘグイをすると、黄泉の国から帰れなくなってしまう、とリョウは改めてそう繰り返したのだった。


「……食べ物を食べただけだろ? それがそんなに問題なのか?」


「『同じ釜の飯を食った仲』なんて言うだろ。実際、普段顔を合わせない親戚同士が集まったり、新入社員が部署に入ってきたりした時に、みんなで一緒に食事を取って親睦を深めるじゃないか。

 相手と同じものを食べるっていう行為には、共同体の一員になるっていう意味があるんだよ。それは黄泉の国でも同じなんだろう」


 俺の疑問に、リョウはそう答える。身近なたとえのおかげで、すとんと簡単に話を理解できた。


 一方、シンゴは店内を見回していた。


「あの世の店にしては随分普通だけどな」


 細かな傷のあるテーブル、油汚れで少しべたつく床、黄ばんだメニュー表…… 確かに、時代を感じさせられるくらいで、『笠来亭』はどこにでもありそうな普通の大衆食堂という風である。ここが黄泉の国だというなら、俺の実家も朝立ち寄ったコンビニも黄泉の国だということになりそうだった。


「こんな話もある。今度はギリシャ神話だ。

 冥界の王ハデスは、自分の妻にしようと考えて、ペルセポネという女神を地上から連れ去った。しかし、当のペルセポネ本人はこの結婚を受け入れなかった。また、彼女の母であるデメテルも、娘を返すように要求してきた。

 それでハデスも、渋々ペルセポネを開放することにしたが、この時彼女にザクロの実を渡した。ペルセポネは彼のことを快く思っていなかったものの、空腹のあまりその一部をつい口にしてしまう。


「ところが、ペルセポネは知らなかったが、冥界の食べ物を口にした者は、冥界の住人にならなくてはいけないという掟があったんだ。だから、十二粒のザクロのうち四粒を食べたペルセポネもその掟に従って、一年のうち四ヶ月だけは冥界で過ごさなくてはいけなくなった……

 このことを誰よりも嘆き悲しんだのは、母親のデメテルだ。そのせいで、豊穣神である彼女が娘と離れ離れになっている間は、地上では作物が育たなくなってしまった。これが冬の起源だとされている」


 話の要点を掴めなかったせいか、それとも長話にうんざりしたせいか。リョウの説明に、シンゴは眉根を寄せていた。


「何が言いたいんだよ?」


「同じような話が、まったく別の地域でも生まれているんだ。昔の人間がそういう考えに至るようになったが、この世界にはあると思った方がいいんじゃないか」


 リョウは昔からこの手の話に関心があるようで、東南アジアの神話だのアフリカの妖怪だのにやたらと詳しかった。三人で釣りに出かける時にも、道中にある寺や神社に寄りたがることがしばしあった。曰く、「貴重なリソースを割いてまで後世に伝えるからには、何かそれなりの意味があるはずだ」とのことである。


 だから、ヨモツヘグイについても、『古事記』やギリシャ神話の伝承通りではないというだけで、それに近しいものは存在しうるのではないか、という発想になったのだろう。


「馬鹿馬鹿しい。考え過ぎだろ」


 シンゴはそう言って、まともに取り合おうとしない。


 対して、俺は黙り込んでしまっていた。


「おいおい、まさかお前も信じてるのか?」


「だってなぁ……」


『笠来亭』のごく平凡な店構えに、最初は安堵感を覚えた。今までは恐怖から疑心暗鬼になっていただけだ、と。別世界に迷い込んだなんて錯覚だ、と。


 だが、リョウの話を聞く内に、その印象は180度ひっくり返ってしまった。


 もしかしたら、俺たちにヨモツヘグイをさせるために、この店はあえて平凡さを装っているだけなのではないだろうか。


 しかし、シンゴは全然そんな風には思わないらしい。


「俺は食うぜ」


 冷めない内にとばかりに、料理に手をつけてしまったのである。


「旨い」「旨い」と、シンゴは次々に唐揚げを口に運んでいく。味に対する素直な感想を漏らしているようでもあったし、ヨモツヘグイを信じる俺たちを焚きつけようとしているようでもあった。


 けれど、それでも俺は食べる気にはならなかった。代わりに、豚の生姜焼き定食をじっと見つめる。


「でも、この料理はどうするんだ?」


「残せばいいだろう」


「ただの食堂だったら、店の人に悪いだろ」


「それはそうだが……」


 リョウは歯切れ悪くそう答える。「この期に及んで、そんなことを気にするのか?」とでも言いたげだった。


「お前はなんか微妙にずれてるよな」


 よほど気になったのか、シンゴも横から口を挟んできた。


 ただ、結局リョウは俺の意見を汲んでくれたようだった。「キーを貸せ」と言って席を立ったかと思うと、ビニール袋を手に戻ってくる。


「これに移し替えて、あとで捨てればいい」


 幸いなことに、『笠来亭』には俺たちを除けば店主の男一人しかおらず、その彼も厨房の奥に引っ込んで何か作業をしているらしかった。だから、その隙を見計らって、まずリョウが鯖の味噌煮定食を袋の中に滑り込ませる。同じように、俺も次に続く。


 しかし、俺は袋の口をまだ閉じなかった。


「シンゴは?」


「はいはい、分かったよ。お前らは信心深いな」


 しつこく言われて、とうとう折れる気になったらしい。「マジで旨かったのに」などとぼやきつつも、シンゴは食べかけの皿の中身を袋にぶちまけたのだった。


 これで表向きは食べ終えたことになるので、今度は店主に声を掛けて会計をしてもらう。リョウに「こっちの世界のものを持ち帰らない方がいいかもしれない」と忠告されていたから、おつりが出ないように支払う。


 その時に、俺は改めて切り出した。


「あのー、道をお聞きしたいんですが……」


 今回は断るをそぶりを見せなかった。だから、俺は続けて街の名前を伝える。


「……それなら、このまま道なりに行けばその内に戻れるでしょう」


 口調はぼそぼそと不明瞭ながら、店主は確かにそう答えたのだった。



          ◇◇◇



 道順が分かったので、俺たちはすぐにでも出発することにした。


 持ち出した『笠来亭』の料理は、山の地面に穴を掘って埋めてしまう。これまた、「持って帰らない方がいいだろう」とリョウが言い出したためである。


 作業が済むと、今度こそ俺たちは車に乗り込む。食事前と変わらず、俺が運転席で、リョウが助手席、シンゴが後部座席に座った。


 アクセルを少しずつ踏み込んで、ゆっくりと車を加速させる。ミラーに映った『笠来亭』が徐々に小さくなっていく。


 そして、カーブに差し掛かったことによって、完全に見えなくなったのだった。


「そういえば、ヨモツヘグイの話はそのあとどうなったんだ?」


 俺はふと気になってそう尋ねた。


 亡くなった妻を取り戻そうと、夫は黄泉の国まで行った。しかし、妻には「黄泉の国のものを食べてしまったのでもう帰れない」と断られた……というところで、リョウの説明は止まっていた。


「イザナギは、イザナミのことを諦めたのか?」


「イザナミの方も、夫のことを恋しく思っていてな。だから、どうにか地上に帰れるようにしてもらえないか、黄泉の神に相談することにしたんだ。

 ただこの時、イザナミは一つ、イザナギに注文をつけた。『ヨモツヘグイをして黄泉の国の住人になってしまったせいで、私の姿は死者のものになっている。だから、決して私のことを見ないようにしてほしい』と。

 ところが、なかなか相談が終わらないことに痺れを切らしたイザナギは――」


「約束を破って、イザナミの姿を見てしまったわけか」


『鶴の恩返し』のようなものだろう。この結末はさすがに予想できた。


 しかし、リョウはまったく別の伝承を引いてくるのだった。


「ちなみに、これもギリシャ神話に似た話がある。

 オルフェウスという竪琴の名人が、妻エウリュディケの死を嘆いて冥界に下った。

 冥界の王ハデスはオルフェウスの願いを聞き入れて、彼が妻を連れて帰ることを承諾する。ただし、『帰る途中、決して後ろを振り返ってはいけない』という条件つきで。

 妻が本当に自分についてきているのか不安になりながらも、オルフェウスは後ろを振り返ることなく道を進んでいく。しかし、地上の光が見えたところで、不安が限界に達して、とうとう約束を破ってしまった。その結果、エウリュディケを生き返らせるのに失敗してしまったんだ」


 ということは、イザナギもイザナミを連れ戻せずに終わったのだろうか。


 俺はその点について、リョウにさらに説明してもらおうとする。


 だが、その前にシンゴが叫び声を上げていた。


「おい! ありゃあなんだ!」


 俺は慌ててバックミラーを覗き込む。


 すると、後ろから車を追いかけてくる何かが見えた。


 猪か。それとも熊か。


 いや、そのどちらでもないだろう。


 鋭く長く伸びた角に、これまた長く伸びた尾。車を上回る速度で動く八本の脚。夜の闇に煌々と輝く赤い眼……


 迫りくる黒い影は、明らかにこの世の生き物ではなかった。


「……『古事記』に話を戻すと、死者としての醜い姿を見られたイザナミは激怒して、イザナギに対して黄泉の国の鬼をけしかけたんだそうだ」

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