ヨモツヘグイの教え

蟹場たらば

1 山中の店

「じゃあ、帰りは頼んだぞ」


「ああ」


 俺はそう頷いて、リョウから車のキーを受け取る。


「安全運転でな」


「二位のくせに偉そうに」


 シンゴからの注文には、冗談めかして目をつり上げる。


 八月のとある日、俺たちはN県S山の奥地を訪れていた。


 俺たち三人は、同じ中学、同じ学年、そして同じ趣味――全員重度の釣りバカである――という共通点によって結びついた仲だった。そのためなのか、進学・就職などで居住地や生活サイクルが変わっても、趣味が変わらなければ友情も変わらず、社会人になった今でも付き合いが続いていたのである。


 この日も盆休みで俺が地元に戻ってきたのを利用して(というか、ほとんどそのために帰省したようなものだが)、いつもの三人組で県外へと遠征に出かけていた。狙う魚はイワナかアマゴ。勝敗の判定は釣れた匹数。肝心の最下位が受ける罰ゲームは、帰りと次の行きの運転をすること……


 そして、その結果、こうして俺が運転手をやるはめになったというわけである。リョウはともかく、シンゴとは一匹差しかなかっただけに悔しい。


 朝から晩まで一日中釣りをして疲れただろうに、二人は「やっぱり夏の渓流は難しいな」だとか、「今度はアユにするか」だとか、もう次の予定の話で盛り上がる。もちろん俺も同類だから、「久しぶりに海釣りに行きたいな」などと、最初の頃は一緒になって騒いでいた。


 だが、俺の口数は次第に減っていった。


 しかも、それは運転による疲労のせいではなかった。


「……なあ、おかしくないか?」


「何がだよ?」


「もうかなり走っただろう。なのに、まだ山の中じゃないか」


「あっ」


 後部座席から、シンゴのはっとしたような声が上がった。


「そういえばそうだな……」


 助手席のリョウも考え込み始めてしまう。


 行きの時は、街から山奥まで小一時間ほどしかかからなかったはずだった。だというのに、帰り道では二時間近く走ってもまだ街に着いていない。どう考えても理屈に合わないだろう。


「景色に見覚えあるか?」


 俺の質問に、二人からの返事はなかった。


 また、言うまでもなく、俺にも見覚えはなかった。


 もちろん、初めて訪れた場所だったから、単純に景色を覚えきれていないだけという可能性だって十分ありえるだろう。


 しかし、月明りさえ遮るような木々とそれに囲まれた真っ暗な道路が、不気味なまでにひたすら続くさまを見ていると――


 別の世界に迷い込んでしまったのではないか、という考えに囚われそうになるのだった。


「道を間違えたんじゃねえの?」


「一本道なのにか?」


「見落としてたとか」


「まさか」


 楽観的なシンゴの意見に、俺はまったく賛成できなかった。運転手として、道の様子には注意を払っていたからである。


「調べてみよう」


 車の持ち主であるリョウは、カーナビに専用機ではなくスマートフォンのアプリを使っているようである。そのため、この時もポケットからスマホを取り出していた。


 けれど、リョウの指の動きはすぐに止まってしまった。


「だめだ……」


「だめって?」


「電波が届いてないんだ」


 見せてきた画面を、俺は横目に確認する。すると、確かにアンテナマークの上に×印が浮かんでいた。


「何でだよ。さっきまでは使えてただろ」


 ムキになったように、シンゴもスマホを手に取る。


 だが、結果は変わらなかった。現実を受け入れられなかったようで、シンゴはしばらくの間あれこれ操作を試していたが、最後には「……俺のもだ」と呟くのだった。


 それきり、俺たちの会話は途絶えてしまった。


 単に電波のことがあったからというだけではない。相談している間もずっと車は動き続けていた。にもかかわらず、未だに山中から抜け出すことができていなかったのである。


 俺たちは本当に別世界に迷い込んでしまったのではないだろうか。


 そう認めるのが恐ろしくて、誰も彼も口を利けなくなっていたのだ。


「見ろ」


 最初に気づいたのはシンゴだった。


笠来亭かさらいてい』とでも読むのだろうか。


 何かの店らしき古ぼけた外観の建物が、道の脇にぽつねんと建っていたのだ。


 行きの時には、間違いなくこんな店は見ていない。


 しかし、これまでずっと、対向車にも後続車にも出会えないまま、暗い山道を孤独に彷徨さまよい続けてきたからだろう。走光性の虫のごとく、俺たちは店から漏れる照明の明るさに引き寄せられてしまう。


「あそこで道を聞いてみよう」


 俺の提案に、反対の声は上がらなかった。



          ◇◇◇



 入り口のドアを開ける。


 店の中には、テーブルとイスがまばらに並んでいた。


 卓上には、醤油やソースといった調味料のビンが置かれている。また、壁には「親子丼」「鯖の味噌煮」「レバニラ」などと書かれた紙が貼り出されている。


『笠来亭』はどうやら大衆食堂らしかった。


 ただし、大衆――客は入っていないようだったが。


「いらっしゃいませ……」


 店主らしき男はそう声を掛けてきた。


 背は高いが、体型は痩せぎすである。山の中に店を出しているわりに、肌も妙なくらい青白い。おまけに、目深にかぶった三角巾のせいで表情が分かりづらかった。


「すみません。迷ってしまったようなので、道をお尋ねしたいんですが」


「ご注文をどうぞ……」


 店主は呟くようにぼそぼそとそう答えた。


 それほど年配には見えないが、耳がよくないのだろうか。俺は先程よりも大きな声で質問を繰り返す。


「すみません。道をお聞きしたいんですが」


「ご注文を……」


 どうやら聞き取れなかったわけではないらしい。


 外見からあまり気の強くなさそうな印象を受けたが、それは先入観に過ぎなかったようだ。


「まぁ、向こうも商売だからな」


 後ろで諦めたようにシンゴが言う。


 それを聞いて、俺は二人の方を振り返った。


「どうする? ここで食べていくか?」


「いいんじゃねえの。俺もうペコペコだし」


「……そうだな」


 真っ先にシンゴが頷き、思案の末にリョウも同意する。


 釣りに集中したかったので昼は弁当を買っていったが、夜は帰りがけに街で食べる予定になっていた。だから、まだ夕食は済んでおらず、俺も二人も腹を空かしていたのだ。


 もっとも、今になって空腹感を覚えたのは、この店を見つけたことで安心できたからなのだろう。


 いつまでも闇夜の山中から抜け出せなかったせいで、先程までは別世界に来てしまったのではないかと怯えていたほどだった。


 しかし、生活感のある店や商売っ気のある店主というのは、別世界のイメージとはまるで馴染まない。むしろ、その生々しさは、ここが現実の世界だということを証明しているかのようだった。


 ほどなくして、注文の品がテーブルに届いた。


 どうせなら地元の名物料理でも食べてみたかった。けれど、メニューにあるのは日本中どこでも食べられそうなものばかりだった。


 とはいえ、これまでの遠征では、周りに競合店がないのをいいことに、適当なものを食べさせる店に出くわしたこともある。それを考えたら、今回は旨そうな料理が出てきただけでもラッキーだと言っていいだろう。まずは味噌汁からと、俺は箸を手に取る。


 その時のことだった。


「待て」


 リョウが俺たちを制止してきたのだった。


「やめた方がいいかもしれない」


「何だよ一体?」


 おあずけを喰らって、シンゴは露骨に不満げな顔をする。


「ヨモツヘグイって聞いたことないか?」


 リョウの質問に、俺たち二人は何も答えられなかった。


「『古事記』によると、イザナギという男神とイザナミという女神がいて、二人は兄妹であるとともに夫婦でもあった。そして、この夫婦の間から日本列島が産まれたと言われている。

 また、日本を産んだあと、イザナミは今度海の神や山の神といった、いろいろな神たちを産んでいった。ところが、火の神を産んだ時に負った火傷が原因となって、彼女は死んでしまった。


「亡くなった妻を恋しく思ったイザナギは、黄泉の国まで彼女を迎えに行くことにする。しかし、イザナミは彼に対してこう答えたんだ。

『私は現世に帰ることはできない。もう黄泉の国の食べ物を食べてしまったから』と」

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