塵輪の子

白蛇五十五

塵輪の子

 島根県西部、かつて石見国いわみのくにだった地方には、石見神楽いわみかぐらと呼ばれる郷土芸能が伝わっている。


 神々への畏敬の念や、神話の時代の物語を舞い踊りで表現し、奉納するという行事で、厳粛な神事という面もあるが、大衆に人気を博している演目には、エンターテインメント性の強いものが多い。


 例えば最も有名な演目『大蛇おろち』は、そのタイトルの通り、古事記に記された八岐大蛇やまたのおろち退治を描いている。

 軽快で勇壮な笛太鼓の音色に合わせて、絢爛けんらんな衣装をまとった須佐之男命すさのおのみことが、これまた色とりどりの大蛇達を相手どり、大立ち回りを演じる。

 とぐろを巻いて襲いかかる大蛇、迎え撃つ古代の英雄。勝利の口上。舞台によってはスモークが焚かれる演出もある。なかなかに華々しい。

 祭りで執り行なえば、子供達も大喜びだ。


 伝統芸能の常として次世代の演者の確保に苦労してはいるものの、この神楽に魅せられる若者は少なくないようで、島根県内には神楽部や神楽愛好会を設けている高校がいくつかある。学生の神楽イベントも開催されている。


 ――これは島根県出身の筆者が、高校時代の友人から聞いた、石見神楽にまつわる騒動である。



   ◇



 友人の名を安食あじきという。

 彼女は県内の高校で、神楽部に所属していた。


 九月。その年は地元の町の文化センターホールで、県の『伝統芸能フェス』が開催される事になった。

 神楽部にとって、その年一番の目玉イベントと言ってもいい。八名の部員達は皆張り切った。

 フェス前日、隣町の高校の神楽部もセンターに集まり、リハーサルが行われた。


 今回上演される演目は三つ。まずは二校の代表者が舞う儀式舞。続いて隣町の高校による『大蛇おろち』。最後に安食らが演じる『塵輪じんりん』だ。


 『塵輪じんりん』とは、この演目に登場する鬼の名前である。

 帯中津日子たらしなかつひこ、つまり仲哀ちゅうあい天皇が、家臣の高麻呂たかまろと共に大陸から襲来した悪鬼の軍勢を討伐するというストーリーなのだ。


 この塵輪の面というのが、かなり迫力のある造形で、しかも大きい。ものにもよるが、彼女らが部活で使っている面は、子供の顔であれば二つは収まるのではないかという大きさだった。

 この大きな面を付けた鬼がざんばらの髪を振り乱してのしのしと登場すると、猫背気味にも見えて何とも不気味である。


 神楽部員達は控え室に荷物を運び込み、二校合同の打ち合わせを始めた。今日のリハーサルは衣装も道具も全て身につけた状態で、本番と全く同じ手順で行われる。控え室は両校の荷物でごった返していたという。


 打ち合わせの後、舞台に移動してそれぞれの立ち位置を決める。ここで安食は注意事項を書き記したノートを読み上げようとして、肝心のノートを控え室に忘れてきた事に気づいた。


「ごめん、ノート忘れたけぇ取ってきてもええ?」


 手を合わせて頭を下げ、急いで来た道を戻る。


 控え室前の廊下まで来たところで、安食はぎょっとした。

 鬼がいる。

 塵輪の、あの大きな面が、廊下の真ん中に立ってこちらを睨みつけている。


 一瞬、鬼の面の形相にぞっとして立ち竦んだ安食だったが、すぐに彼女は気づいた。面の下から子供の身体が覗いている。

 何しろ塵輪の面は大きいので、小柄な身体は胸元まで隠れていた。面が落ちないよう両手で支えているらしい。

 その子供は身長からして、八歳か九歳か、それくらいの年頃に見えた。随分と古びたデザインの白い体操着を着ていて、浅黒い脚は痩せ細っている。


 出会い頭の衝撃が治まると、安食の胸には憤りが湧き上がった。伝統芸能フェスには小学生も参加する。リハーサルをサボって逃げたどこかの悪童が、控え室に忍び込んで悪戯をしているに違いない。


「こらぁ、何しとるん! いけんよ!」


 安食は子供を叱りつけた。


 石見神楽は動作が激しいため、小道具を軽量化する必要があり、神楽面は石州和紙せきしゅうわしで作られている。取り扱いは丁重にする必要があった。

 そうでなくとも、本来は神事の道具だ。部員にとって神楽面に敬意を払うのは、基本中の基本と言える。


 塵輪面の子供は、面の奥から安食をじっと見上げていたが、彼女が大股で歩み寄って来たところで素早く回れ右をして逃げ出した。

 髪の短い後頭部が見えた。男の子なのだろう。安食は逃げる子供を追いかけて廊下の角を曲がる。


 しかしその先に、子供の姿はなかった。

 代わりに塵輪の面だけが、廊下の床の真ん中に置き去りにされている。

 急いで塵輪の面を拾い上げて確認したが、特に壊れたりはしていない。

 それから彼女は周囲を見回した。

 廊下の突き当たりには非常口が見えるが、十歳未満の子供がものの数秒のうちにあそこまで走り抜けられるだろうか?

 それより、廊下の半ば程の位置にあるトイレの方が隠れ場所としては怪しい。しかし、流石に男子トイレに侵入するのは気が引けた。


「安食? 何かあったん?」


 後ろから心配そうな声がかかり、安食は振り向いた。神楽部の部長、領家りょうけが立っている。彼は今回のフェスで、塵輪役を演じる事になっていた。


「声が聞こえたけぇ、どがぁしたか思うて……」

「うわ、聞こえとったかね」


 舞台にまで届くような声で怒鳴ってしまった事に多少恥じ入りつつ、安食は今目撃した事を説明した。


「え、そりゃいけんな。おれちょっとトイレ見てみるわ」


 話を聞いた領家は真面目に受け取り、男子トイレの中を確認してくれた。――が、すぐに彼は首を傾げながら出てきた。


「誰もおらん。個室に鍵もかかっとらんし」

「……うそぉ」


 それきり、子供の行方は分からなくなった。


 安食が気味の悪そうな顔をしていたためか、領家が「窓から逃げたんかもしれん」とフォローのように推理してみせたが、女子トイレの造りを思い出すに、ちょっと無理がある気もした。

 窓の位置が高いのだ。運動能力に自信のある子供なら、よじ登って抜け出せるかもしれないが、それにしても物音も立てずに、と疑問に思う。


 ともあれ、リハーサル時間は限られている。安食はどうにか気持ちを切り替え、ノートを持って舞台に戻った。

 その後は順調な練習となり、領家も塵輪の面を被ってつつがなく舞い踊ってみせた。


 事が起きたのは、昼休憩中である。


 文化センターの売店でジュースを買い、控え室に戻ろうとしていた安食は、ホールの方からけたたましい悲鳴が上がるのを聞いた。

 飛び上がる程に驚きながらも、舞台袖への扉を開けて中に飛び込むと、隣町の高校の女子生徒が二人、抱き合うような格好で身を竦めている。どちらも神楽部員だ。


 ほぼ同時に、反対側の舞台袖からも隣校の男子生徒と領家が顔を出し、「どした!?」と勢い込んでたずねる。


「あ、あれ!」


 安食は声を上げて、領家たちの立つ舞台袖側、脇幕の陰を指差した。

 揺れる黒い幕の向こうに、大きな面がちらりと見え隠れしている。大人が被っているにしては低い、丁度子供の顔くらいの位置だ。

 安食に発見されたと見るや、幕の陰の何者かは、面を外して床に置き、ぱっと身をひるがえして駆け出した。、と面が床にぶつかる派手な音がしたものだから、すかさず幕をめくった領家が眉尻を吊り上げる。


「なんてことすんじゃあ!」


 頭に血を上らせた領家と隣校の男子は、逃げる子供を追いかけた。安食も更にその後を追ったが、子供は意外と足が速く、外に続く搬入口まで逃げ去ってしまう。


 あれ、とそこで安食は思った。


 その子供が、濃いブルーの膝上丈のハーフパンツを履いているのが、逆光の中一瞬だけ見えたからだ。

 朝に安食が出遭った子供は、古びてクリーム色がかった短いズボン姿だった。彼女の親世代の写真でしか見ないような、昔の体操着だ。


「あーッ、わぁどこん奴じゃ」


 子供を取り逃がした領家が腹立たしげに息を吐く。


「こらもう先生に言わんなじゃろ。ほんであれ大丈夫か。領家らの使うお面」


 隣校の男子が、床に落ちた塵輪の面に歩み寄った。領家が慎重に拾い上げる。


「良かった、傷とかついとらん」


 その場の皆がほっとした表情になった。

 それから、最初に塵輪面の子供に脅かされた隣校の女子が、考え込むような仕草を見せる。


「ねえでも、そのお面さっきちゃんと片づけとったよね、控え室に」

「うん」


 安食が頷く。


「で、控え室に今、人おるよね……?」

「うん……」


 二校の神楽部員たちは顔を見合わせた。確かに安食も、ジュースを買いに行く前に控え室に寄ったばかりだ。何人かの部員が昼食をとっていた。


 ――あの子供は、いつどこから忍び込んで神楽面を持ち出したのだろう?


「なんか、あの……おかしくない? ゆ、幽霊? 祟り? そういうんじゃないよね? さっきの子」

「いやいや、やめてぇや」


 塵輪役を務める領家が真っ先に顔をしかめる。


「このお面、去年ちゃんとした所から買ったばっかじゃけぇ。そんなんないし」

「うちら真面目にやっとったもん!」


 幽霊に祟られるようないわくも覚えもない。安食の反論に、女子生徒は慌てて両手を振った。


「そんなん言うつもりないって! でもめっちゃびっくりしたんよさっき! そこの、誰もおらん思うてた幕の脇からヌーッて! いきなり!」


 いささか場の空気が険悪になりかけたところで、隣校の男子が「やめぇやめぇ」と割って入る。


「あれ、うちの町内の小学校の奴じゃって多分。さっきちらっと服に学校の刺繍見えたけぇ」


 神楽面はきちんと片づけていたという事も一応伝えておこう、と促されて、領家は隣校の男子と連れ立って顧問教師の元へと報告に向かった。

 安食も控え室に戻ったが、やはりそこでは部員たちが休憩していて、今起きた事を伝えても、きょとんとするばかりだった。



   ◇



 夕方――リハーサルが終わり、さて解散、となりかけた時になって、集合する部員たちの前に隣町の小学校の教師がやって来た。

 年配で、いかにも強面こわもての教師である。彼は小学三年生くらいの、べそべそに泣きじゃくる男子児童を数名伴っていた。子供踊りの参加者と、その顧問らしい。


 この少年らが、度胸試しのつもりで舞台の裏手を探索し、そこで神楽面を見つけて悪戯に使った、そう白状したと言うのだ。


 ――塵輪の面が、舞台裏に置いてあった?


 安食は首を傾げざるを得なかった。

 それに、少年たちが舞台裏に忍び込んだのは昼休憩中の事だったようだ。では朝に安食が見かけた、クリーム色のズボンを履いた子供は何だったのだろう。

 塵輪の面で遊びたい子供が、そんなに次から次へと現れるものなのか?


 釈然としないものはあったが、他校とはいえ年配の教師から「こちらの監督不行き届きで……」などと深々と頭を下げられると恐縮する。

 部員たちは何とも言えない顔のまま謝罪を受け入れ、安食たちの顧問教師は「道具の管理を徹底しましょう」と部員に説いて締め括った。



   ◇



 そういうトラブルはあったものの、翌日、『伝統芸能フェス』は滞りなく開催された。


 二校の神楽部員たちは三つの演目を無事に舞いきった。

 領家による塵輪の演舞は、いつにも増して迫力のあるものとなった。主演である帯中津日子たらしなかつひこ役も領家に引っ張られる形で勇壮に舞い、立派に務めを果たしてみせた。


 演目を終えた後、度々指導に来てくれる地元保存会の、熟練の舞い手である老人がわざわざ控え室を訪れて、「今日の塵輪は良かったねえ」と顔を綻ばせたくらいだから、余程出来が良かったのだろう。囃子の太鼓を担当した安食も、疲れてはいたが誇らしかった。


「良かったじゃん、褒められて」


 帰り際、安食は領家にそう声をかけた。

 領家は苦笑いを返す。


「実はな、結構マジでビビっとったんよ」

「ビビった? 何に?」

「いやほら、昨日のあれ。祟りだとか言われたじゃろ。おれの真剣さが足りんかったけぇ塵輪面が怒った、とかじゃったらどうしよ思うて、もー今日は今までで一番ってくらい無茶苦茶集中した」

「なにそれ」


 その場の部員たちが、一斉に噴き出した。



   ◇



 私がこの話を安食から聞いたのは、後年の事である。


 既に安食も私も、高校を卒業していた。安食は地元から遠い大学に通っていたが、休みの折などには帰省して、母校や神楽保存会に顔を出すなOGだった。


 ある週末、その年の『伝統芸能フェス』を間近に控えた神楽部の後輩たちにスポーツドリンクを差し入れるべく、安食は母校の部室棟を訪ねた。


 そして、その日の朝にちょっとした騒動が起きていた事を知った。


「今度演じる塵輪のお面が、いきなりなくなっちゃって……」


 部室の棚に、しっかり保管されていたはずなのに。青くなった部員たちは総出で面を探し回った。


 捜索のさなか、突然部員の一人が窓の外を指差し、「あそこ!」と叫んだ。

 皆が窓の向こう、部室棟と隣接する校舎を見つめる。

 廊下の窓に塵輪の面があった。


 窓ガラスに立て掛けられているのかと思ったが、おかしい。神楽面は立体的に作られていて、大型の塵輪面ともなればかなりの厚みがある。廊下の窓辺に、そんな物の置けるようなスペースはなかったはずだ。


 ……とすると、誰かが面を被ってこちらを見ている。

 窓にひょっこり顔だけ出しているような状態だから、余程背の低い人間か、身を屈めているのか。


 とにかく部員たちは、隣の校舎まで急いだ。

 行ってみればそこには誰もおらず、廊下に塵輪の面が一つ取り残されているだけだった。

 部室棟に残って、窓を見張っていた部員に話を聞くと、「皆が廊下に到着する直前、面が窓の下に引っ込んだ」と言う。


 面を持ち去り、被っていた何者かの正体は、結局分からなかった。


「何なんじゃろうねぇ」


 語り終えた安食は首を振り振り、私にそう問いかけた。



   ◇



 勿論、私にもこの一連の体験談がどういった現象なのかは全く分からない。

 怪奇現象だとしても理に適っていない。


 本当に神話に登場する伝説の鬼の祟りだとすると、体操着の子供の姿で現れるというのは似つかわしくない気がするし、縁もゆかりもなさそうな子供の幽霊が取り憑いているとしても妙だ。文化センターと高校に、数年の歳月を空けて出現している理由も分からない。

 しかも、舞い手たちを驚かせはするが、面や小道具を傷つけたり、明白に妨害したりはしていない。

 一体何が目的なのか。


 怪奇現象に論理的整合性を求めても仕方がない、と言われればそのとおりであるが。


 現在、安食は大学も卒業し、地元に戻って市役所に勤めている。相変わらず神楽好きで、保存会や若者達の活動を応援する立場だ。


 そんな彼女によれば――今でも数年に一度、塵輪の面をつけた子供が現れるのだという。

 目撃しているのは母校の部員だけではない。社会人による保存団体の所に現れたりもした。ただしどういう訳か、遭遇するのは決まって若者である。


 追いかけて捕まえてみれば、単なる悪戯小僧のしわざだった、という事もあった。

 しかしその場合、どの子供もこう証言する――たまたま手の取れる場所に面が置かれていた。それを見て何故か、被って人を脅かしてみたくなった。



 安食は語る。塵輪の子は未だ、ただと。

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