(七)

(七)


 夜が明け、通りがかった奴婢によってナサカは発見された。

 駆けつけたエベデメレクに対し、ナサカはあることを頼んだ。お前にしかできないことだと言って懇願し、部屋から追い出した。

 産婆が予想していたとおり、ナサカは難産だった。

 出産には三日三晩を要した。一時は胎児の命も危ぶまれたが、最終的には五体満足の健康な子が――白い女が産まれた。


 赤子はただちにフォロガングのもとへ届けられ、名を授けられた。そして乳母に渡されると、ついぞ実の母親の腕に抱かれることがなかった。


 ■


 耳の奥で、ざわざわと男の声が聞こえる。

(ああ……お前、そこにいたのか)

 黒い影がするりと視界を横切り、ナサカの体に巻き付く。

〝俺を覚えていたか、ナサカ。ずっと傍にいた〟

(知っている)

〝長い旅だった〟

 ナサカはうなずいた。

〝つらいことばかりだったか〟

(そんなことはない)

〝それならば、よい。俺ももう、帰らねば〟

(またどこかの母親にでもとり憑くのか)

 悪霊は笑い声を上げた。

 そしてひんやりとした手で、ナサカの額を撫でた。


 目を覚ましたとき、ナサカは何か長い夢を見ていたような気がした。しかしおぼろげにも内容を思い出すことはできなかった。

 隠し部屋ではなく、明るい太陽光の射す場所へと移されていた。

「……エベデメレク」

 傍に立つ男を見上げ、その名前を呼ぶ。彼は何を言うか逡巡したすえに、「頼まれていたものだ」とナサカに小さな麻の袋を見せた。

「お前の言ったとおりの場所へ探しに行くと、これが古い枯河の底に落ちていた。――本当に渡してかまわないのだな?」

 ナサカはうなずいた。エベデメレクが麻の袋から出したのは、宝石の珠だ。

「太陽の光にかざすと青く光る。だが」

 椰子油の明かりにかざすと、それはきらきらと赤い輝きを放つ。渡された石をぎこちなく掴み、光の色が変わる様を眺めた。

 赤から青へ、青から赤へ……。

「美しいな」

 そうぽつりと呟いたとき、両手足の感覚が消えた。継体石がころがり落ち、それまでナサカの体を支えていた黒い義肢は灰に変わる。

「父母に、いろんなひとに謝らなければ……。どれほど時間がかかるか、わからないが……かならず、そっちのほうへ行くから。だから……」

 フォロガングに伝えてくれ、とナサカは言った。

「きっと死の湖で会おう」

 エベデメレクは胸に手を当て、わかったとうなずいた。

「メロエの法に反そうとも、お前の遺体は望みどおり蟻塚の下に葬ろう。だが、そのことはフォロガングにはけっして言わぬ」

 額に温かな手が触れた。ナサカは微笑み、ふと脱力すると目を閉じた。



 どこからか音が聞こえる。

 足音だ。

 地面の感触を足の裏で確認しながら、ゆっくりとすり足で歩く。懐かしい音だ。目を開けようと思うのに、目が開かない。声すら、出ない。足音は徐々に近づいてきて、自分の前で止まった。


 ナサカは腕を伸ばして彼女に触れようとした。

 その腕がなかったが、なぜか、しっかり掴めたような気がした。


 それで十分だった。



 木漏れ日のなか、白い女がひとりの赤子を抱いている。

 樹の根元に腰かけ、抱いた子の白い頬に触れようとして、ふと手を掴まれた。

 思いもよらぬ握力に驚き、笑みがこぼれる。

彼女の頭上で、割れたさやから、透明な皮膜に包まれた種子がはらはらと落ちた。種子は風に乗って、日の光に照らされて輝きながらほうぼうへと飛んでゆく。その軌跡を追うように顔を上げた女の目に映り込んだのは、梢の先で頼りなく揺らめく、一枚の病葉わくらばだった。

 さらに上を見れば、鮮烈な赤が視界を彩る。燃えるように咲く火焔木の花であった。

 腕のなかで、赤ん坊がむずかる。花に見入る女は遅れてそれに気がつき、火がついたように泣きはじめた子を眺めた。けっして離すまいとばかりに握られた手は、たくさんの小さな瘡蓋に覆われ、ところどころに血が滲んでいる。

 腕だけでない――首筋や、背中のいたるところで、瘡蓋が赤いまだら模様を描いている。

 女はやわらかな頬に頬を寄せると、泣くのはおよし、と子に語りかける。

 それから、ふと思い起こしたように、ちいさな声で呟いた。


「お前が恋しい」


 突風が吹き、あらゆる梢から吊り下げられた細長い綿布がたなびいた。願いを刺したその布に身を打たれ、隠され、いっとき女の姿はどこにも見えなくなってしまった。



出典:旧エグジアブヘルにおける呪縛――民族浄化と再植民地化の受容をめぐって


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖なるもの 黒田八束 @yatsukami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画