(六)

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 ナサカの妊娠がわかったのは、それから数ヶ月後のことだった。


 妊娠がわかるとすぐ、ナサカには聖女王の居所にある隠し部屋があてがわれた。ナサカはエベデメレクに対し、「お前の子なのは事実だろうが、まだ性別も白いかどうかも分からないだろう」と一応は文句を伝えたが、聞き入れられることはなかった。

「お前は遠からず白い女を産むだろう。それが今回かはわからないが、夢で視るというのはそういうことだ」

 ナサカは自分の母を見たことがない。しかし遠い集落から誘拐されてきた白子アルビノであることは知っている。エベデメレク自身も白い女を母に持ち、一部の形質を受け継いでいる。白子が産まれるかは血統に依拠することが多く、ゆえに聖女王の近親者、その妻たちは、妊娠がわかるとすぐ呪詛の対策を取る。流れることもあれば、無事に産まれたとしても早逝であったり、一度出血すると止まらなくなる病など、死に至りかねない重大な欠点を持つことが多く――それはすべて権力闘争に端を発する呪いのためだとされていた。

 前女王テスファイネシュが呪詛によって大半の子を失ったのは有名な話だ。同様に、エベデメレクの妻や実子も呪われて重い病を患い、旅立ってきたという。呪術師が特定されて処刑されることもないわけではないが、多くは近親者、あるいは身分の高い神官のなかに敵がいる。見当をつけることはできても、親族や階梯集団における有機的連帯を重視するメロエ社会で、相手を糾弾することはできない。

 呪術のはびこる社会のなかでも、唯一無敵なのが白い女だ。白い女であれば、自己に向けられたあらゆる呪詛を返すことができる。言い換えれば、白い女を輩出できなければ、聖女王の血統は遠からず絶える運命なのだ。

 ナサカの妊娠に王権の命運が託された。そのことを、彼女自身はあまり深刻にとらえることがなかった。人を殺してきたのと同じように、淡々とこなす仕事のひとつだった。そしておそらくは、これが最後の仕事となることを、漠然とだが予感した。

 何度死んでも生まれ直し――十六回目に生きのび、フォロガングと出会った。

 その長い旅が、終盤に差しかかっている。

 窓もなければ広くもない、限られた数の奴婢が出入りする隠し部屋で過ごす日々がはじまった。外出も容易ではなかった上に、ナサカは故郷の母たちと比べてずっと悪阻つわりが重かった。

 最初の数ヶ月はものが喉が通らず、日がな吐き気と戦った。もとから肉付きのよいほうではなかったが、あばらの骨がすっかり浮いてしまうほど体重が落ちた。峠を越えるとある程度は回復したが、その頃になると別の問題が浮上した。

 エベデメレクが、ナサカの頼んだものを届けにきたときのことだった。

「こんなものを欲しがるとは」

 最初は蜂蜜酒タッジを所望したが、診察を担当する呪術師に断られた。代わりに持ってこさせたのは遊戯盤だった。

 木と象牙でできていて、表面には六つの窪みが二列配置されている。陣地取り遊びをするための盤だ。古いもので、あちこちに傷がある。

「すこしは強くなっておかないと思ってな」

「何のために?」

「死んだあとのために」

 不可解そうな顔をされたので、ナサカは苦笑する。フォロガングと対戦するつもりだとは、なぜか言えなかった。

「死んで神の国にたどりつくとするだろう、門番に挑まれたらどうする。せっかくたどりついたのに勝つまで門のむこうに行けないとしたら」

「おかしなことを言うやつだな、そんな話は聞いたことがない」

「私の養母の寝物語にそんな話があったのを思い出したんだ」

 ナサカが真剣な顔をするので、エベデメレクは肩を竦めて「相手をしてやろう」と言った。「母が好きだった」と続けて。

 駒の代わりに小石を並べる。痺れの残る指先では、細かい動作はむずかしい。思ったとおりの数を握れずに苛立ちながらも、ナサカは遊びに没頭した。フォロガングと比較すると、エベデメレクは〝ちょうど良い〟相手だった。

 黙々と手を動かしつづけ、あるとき、ふとエベデメレクが声を発した。

「養母とは仲がよかったのか」

 意図をはかりかね、間を置いてナサカは答えた。

「すくなくとも、お前らのように呪い、呪い返すようなことはしなかったな。育ててくれたひとだ。家族同士で憎しみあうことも特段なかった」

「――お前は俺やメロエを恨まないのか」

 ナサカは胡座をかいた膝の上に手を置き、「なぜ」と小さく声を発した。

「殺したのは私の意思だ」

「そうまでせねばならない状況に追いやられたとは思わないのか」

 小石をそっと握りしめた。

「私は実の母親を苦しめ、ついには殺してまで産まれてきた。それこそ生まれる前から――過去生から罪をひきずり回して生きてきたのだ。いまさら他人に責を求めることはできないさ」

「そうか」

「罪のある人間は、神の国に至れぬか」

 頭を過ぎったのは、神殿で見たあの壁画だった。青と赤に塗り分けられた、素朴だが、しかし目に焼き付いて離れぬ光景……。

「罪を負った者は、死の湖を渡りきれず、石となり果てると聞く」

「フォロガングはどうなる」

「お前は何を言っているんだ。聖女王だぞ。神の国を約束されている」

「それなら、私は一緒に行けないのか」

 ナサカは小さな声で呟いた。

「お前は他の戦士と同じように聖女王に尽くしたではないか。メロエの女戦士として、死の湖を渡りきるに決まっている」

「父母を殺した。生みの親、育ての親。同族の戦士、女子どもも」

「いいか、よく聞け。お前のやったことはメロエにおいて罪過ではない。ナパタ人の血でこのくにを洗い流した。浄化したのだ。誰よりも賞賛されるべき偉業だ。あらゆる戦士のなかでももっとも神の国に近しいのだぞ」

 ナサカは瞼を伏せ、どうだろう、とかぶりを振ろうとして、強い眩暈を覚えた。平衡感覚を失い、前のめりになって床に手をつく。盤がひっくり返り、小石が散乱した。

 何度か咳き込み、口に当てた手を離せば、そこから鮮血がしたたった。

 動揺して言葉を発せないでいると、エベデメレクがその場を立った。

「――呪われたか」

 絶望に瀕した一言に、ナサカは目をしばたく。

 これまでいくら呪われようとも、ナサカはそれを跳ね返してきた。ナサカ自身に呪術師の才能はなかったが、彼女のなかにいるもの――悪霊がそれを食らい尽くしてきた。すべては生に対する強い渇望のためだ。

 それが何故、ここにきて。

 口の端からこぼれる血を拭い、ナサカはああ、と思い至った。

(お前、そっちを守ろうとしているのか)

 ――腹の子を。

 そうか、とナサカは思った。そうだろう、とも。

 今一番大事なのは、たしかに、自分が生きながらえることではない。

 血を吐いた女を見下ろし、エベデメレクは両の拳を握りしめる。そして、いつになく強い語調で怒鳴りつけてきた。

「絶対に白い女を産め。それまでは死んではいけない」

 その瞳に視線を縫い止められ、黙って彼を見つめた。

「お前が白い女を産まなければ、もはやメロエの王権は続かない……これまでの長い旅路がすべて無意味に終わってしまう……」

 ナサカの両肩を力強く掴んで、エベデメレクは低い声で囁く。

ビルキス聖女王の遺した都市跡をまだ見つけられていない。われわれがその場所に還るためには、もはや一世代では足りぬのだ。フォロガングはもう長くない!」

 ナサカは唇を噛んだ。あれほど男たちのことを憎んできたはずなのに、絶望に瀕した彼を前にしては、胸のすいた気はしない。見下しているはずのナパタの女に縋ることしかできない、その息の詰まる必死さに憐憫の情さえ抱いた。

「……わかった」

 無意味な返答とはわかりつつも、ナサカはうなずいた。


 ■


 ひとり、ふたりと怪しい呪術師が処刑されていったが、ナサカにかけられた呪いが無くなることはなかった。誰よりも多くの人間に手をかけてきたのだから、それも当然だろうとナサカは思う。たとえ特定できたとしても、また別の呪いに苦しむ未来は安易に予想できたので、エベデメレクの犯人探しはすぐにやめさせた。

「呪いは、かける者とかけられる者だけに成立する。呪いをはね返せないなら、最後は心の強さがものを言う。お前はよく耐えているほうだ」

 黄色くなったナサカの白目を観察し、呪術師の女は淡々と告げた。

「幸いにして腹の子は育っている。五体満足で、今のところ健康だ。だが、無事に生まれるかはお前の体力次第。お前がだめでも腹の子は何としてでも出すだろうが、そのとき十分に育っていなければやはり死んでしまう」


 ナサカの腹は月日とともに膨らんでいった。

 やがて胎動が確認できるようになり――臨月を迎えた。


 その頃には痩せ細って、以前のような筋力を失っていた。呪いは熾火のように彼女のなかに居座りつづけた。はじめのときのように吐血することは稀だったが、高熱が続き、幻覚と幻聴に悩まされ、一日の大半はひどい眩暈のために起き上がれない。

 命がすり減ってゆくのをまざまざと感じていた。体調は悪化するばかりで、もはや回復することはないだろうと察せられた。反して、母体の不調などおかまいなしに、子は成長していった。

 日々その様子を観察しながら、ナサカは自分の産んだ女に思いをはせることがあった。 

 自分はどれほど母に憎まれていたのか。どんなに突き放そうとしても戻ってくる、悪霊憑きの娘。剃刀で切り刻まれてなお、その傷痕とともに産まれてきた自分を見て、母はどんなに悲しかっただろうか。自分が母になるという段階になっても、その思いを払拭することができない。むしろ日々募るばかりだった。自分の腹の中の子が、どれほど切望された存在であるかを知っていたから……。

 唯一心を休められたのは、幻聴のために夜通し眠ることができず、明け方ごろにようやく微睡もうというとき、どこからか歌声が聞こえてくる瞬間だった。毎日ではなく、数日置きに、その声が聞こえる。奴婢たちもまだ働きはじめていない、曙光さえ射さない暁闇の頃の、ごく短い時間だけ。

 はじめて耳にしたとき、それがフォロガングの歌声だとすぐに分かった。

 石の空洞を伝ってたまたま聞こえてくるのか、あるいはほんとうに隠し部屋の近くに彼女の暮らす場所があるのか。くぐもって響くこともあれば、単語のひとつひとつが聞き取れるくらい、はっきりわかることもあった。

 総じて、やさしい歌声だった。

 その声を聞いている間だけは、自分を取り巻くあらゆる不安や苦痛が遠ざかった。椰子油を灯さなければ暗いだけの部屋で、輝きを失ったはずの義肢は金色に煌めいた。その輝きをみつめるうちに、まなうらを、彼女と過ごしたもっとも美しい日々が過ぎっては消え、色鮮やかに蘇ってはまた消え――そして、ひとときの眠りにつく。

 久しく彼女とは会っていない。直接顔を合わせたのは、十年以上も昔のことだ。

 それでもナサカは彼女の魂がともにあることを、信じずに、祈らずにいられない。

 この冷たい泥河のなかをゆくような人生で、たったひとつ、義肢にかけた呪詛だけが、たしかな熱量をもってふたりを繋いでいる。


 ――あるとき、風の流れを肌に感じた。


 世話をする奴婢が部屋の鍵をかけ忘れたと気付くまで、時間はかからなかった。どこからか響く歌声に誘われて、ナサカは隠し部屋を出る。

 腰のあたりに鈍痛があった。

 暗い隧道を、そろりそろりと、壁に手をついて歩く。歌声は徐々に近づいてきて、ナサカはやがてひとつの壁の前で立ち止まった。

 壁に手を添え、頬をすりよせ、耳を押し当てる。歌声は、その壁のむこうから響いていた。やわらかな声が紡ぐのは、母の歌だ。彼女の母系譜だ……。

 フォロガングが母から教えられ、母は母の母から、教えられた子が自分の名前を継ぎ足して、そうして受け継がれてきた途方もなく長い歌だ。

 ナサカは、これ以上美しい歌を知らないと思った。けっして途切れることなく、連綿と継承されてきた、女たちの命の歌だ……。

 すなおにうらやましいと思った。ナサカはこの歌を知らない。男の歌しか。

 閉じたまぶたから、涙がこぼれ落ちた。

 この子どもは、フォロガングの歌を継ぐのだろう。

 きっと白い女が生まれるだろう。そうすれば自分から生まれた子は、フォロガングの子として育つはずだ。エベデメレクが明言したことはなかったが、たとえ聖女王の近縁者マケダの血統であろうとも――ナパタの女を表に出すことはあるまい。ナサカは秘密裏に処理され、歴史に足跡を残すことはない。

 だが、ふしぎと悲しくはなかった。

 今まで積極的にはそうしなかったように、ナサカは自分の腹を撫でた。短く息を吐く。下半身は痛みを増し、もはや立つことさえ難しい。耐えきれずその場に座り込んだとき、濡れた感触に気付いた。破水したのだ。


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